【長島昭久のリアリズム】長島昭久「独立宣言」−真の保守をめざして

長島昭久

 私、長島昭久は、この度、一人の政治家として「独立」を宣言いたしました。

 民進党を離れる決意をした最大の理由は、保守政治家として譲れない一線を示すということであります。

 共産党との選挙共闘という党方針は、私にとり受け入れ難いものです。衆議院議員選挙は「政権選択の選挙」であり、国家観も、目指すべき社会像も著しく異なる共産党との選挙協力は、(中間選挙的な色彩の強い)参議院議員選挙での選挙協力とは本質的に異なります。

 特に、国家の基本である外交・安全保障政策において、私の「リアリズム」と共産党の路線とは重なることはありません。「安保法制廃案」という(その時点で既に非現実的な)一点で折り合いを付けようとしても、政権を担った途端に破綻することは火を見るより明らかでしょう。

 しかしそれ以上に、私にとって今回の行動の大義は、「真の保守をこの国に確立したい」という一点にあります。

 一昨年の安保法制や今後控えている憲法改正などで左右の衝突が繰り返され、極論や暴論のぶつかり合いが続くようでは、日本社会における保守とリベラルの分断・亀裂は(今日のアメリカのように)抜き差しならないところまで行くのではないかと私は深刻な危機感を抱いています。国家を二分する争点において、対立する双方の意見を調整し国会における熟議に反映させ、社会の分断、国家の亀裂を未然に防ぐ責任は、私たち国会議員にあります。

 にも拘らず、「党内ガバナンス」最優先で「アベ政治を許さない!」と叫び、行き詰まると、院外のデモ隊の中に飛び込んで、アジる、煽る、叫ぶ。これではかえって国民の中にある分断の萌芽をさらに拡大することになってしまいます。

「真の保守」とは、我が国の歴史と伝統を貫く「寛容の精神」を体現したものであり、国際社会でも通用するような歴史観や人権感覚を持つべきものだと私は考えます。リベラル側の人々には、権力に対するルサンチマン(怨恨)のようなものがあって、寛容さに欠ける言動がしばしば見られますし、一方の保守の側も昨今劣化が激しく、籠池さんのように、教育勅語を信奉していれば保守だといわんばかりの粗雑なキャラクターが際立っています。

「真の保守」は、この国に「秩序ある進歩」(私の尊敬する小泉信三の言葉)をもたらすことに力を注ぐべきと考えます。それは、「中庸」、即ち過剰に対する自制と不正に対する毅然とした姿勢によって、一方に偏ることなく常に調和を重んずる思想に通じるものがあります。そして中庸を保つためには、強い意志と高い理想がなければなりません。

 私は、ここに、特定の党派から独立した一人の保守政治家として、我が国を取り巻く内外の諸課題と真摯に向き合い、あるべき政治のかたちを創り上げるために、私の問題意識を共有してくださる同志の皆さんと共に、中庸を旨とした「真の保守」政治の確立という大義の実現を目指して行動を起こすものであります。 

(衆議院議員 長島昭久)