前野朋哉 僕らの、おかやま晴れの国大使に今夏就任! 新しく岡山の顔になったアノ人にインタビュー

 Special Interview

 一寸法師で大人気だけれど、岡山では桃太郎になって岡山をPRしている姿がずっとしっくりくる。岡山県出身で、俳優で映画監督の前野朋哉。映画にドラマに、CMにとさまざまなフィールドで活躍中だ。今夏、おかやま晴れの国大使に就任。さまざまな経験を通じて、改めて岡山の魅力を発見。郷土愛もぐんぐん深まっているという。

撮影:蔦野裕  撮影協力:とっとり・おかやま新橋館

倉敷での中高生時代に映画に出会った。
あの時に感じた、楽しさや興奮が、
今の自分のベースになっていると思う。

 ドラマや映画、CMなどで精力的に活動をする俳優で映画監督の前野朋哉。かねてから岡山県のPRキャンペーンに登場していた彼。大学進学で岡山を出るまでは倉敷市で、豊かな自然に囲まれて育った。

「山があって川があって。川にはしょっちゅう釣りに行っていましたし、学校が持ってる栗山には毎年栗を取りに行ってましたね。田んぼが広がっていて、そこで犬の散歩をする。子供のころのことを思い出すと、そういう風景が広がります」
 前野が語るとその様子が映像となって広がる。彼の背中を映画のほうへと押したのは、倉敷と振り返る。きっかけは、中学と高校の恩師と、映画館。

「中学の担任の先生は洋画好きで、朝の会でいつも見た映画の話をしてくれました。その話が気になって、倉敷駅前にあった映画館、センシュー座にはよく行きました。自転車で急いで20分、ゆっくりで30分ぐらいだったと思います。たいてい何人かで行くんですけど、センシュー座の人がいい人で、僕らがお金を持ってないのが分かるから、もう上映が終わった古い映画のパンフレットやポスターをくれるんです。僕らは特典付きで映画が見られるような感覚でした。あの頃は1300円?だったかな、中学生には安くはなかったから、そんな特典がすごくうれしかったです。そのセンシュー座も中3の時にはなくなりました。最後は、古い映画のリバイバル上映。古いといっても、ちょっとだけ古い、当時の10年前くらいの古い映画を上映してました。たぶん、お客さんが入った人気のあった映画をやったんじゃないかな。それをスクリーンで見られたのは、今思えば貴重な体験でした」

 センシュー座や倉敷の映画館にはたくさんの思い出が詰まっている。

「何を見るとか誰と見るとか、映画を見ることそのものがイベントでした。倉敷の駅前に出ると、他の中学の生徒に会うこともあるから、服も気にしてました。イケてるグループじゃないから、ちょっと新しいのを買うとかそれぐらいなんだけど、みんなでできるかぎりのオシャレをしていたつもりです。いろいろ思い出はありますけど、そうですね、いつも誘う映画好きな友達がいたんですけど、いつもその子ばかりになっていてはと気を使って声をかけて、最終的には10人ぐらいで見に行ったことがありました。アーノルド・シュワルツェネッガーの『エンド・オブ・デイズ』だったんですが、これが……めちゃくちゃ面白くなくてみんなでヘコんで帰りました。映画を見た後は喫茶店なんて行く余裕がないから、自転車での帰り道や友達の家で見た映画の話をしたのですが、僕主体の会だったから責任を感じました。僕から面白くなかったよね、とは言えなかったです」

 映画好きの中学生をさらに燃え上がらせたのはやっぱり先生だった。

「中学の時には今後の人生で映画に関われたら、というのは漠然とあって、担任の先生が映画だったらハリウッド、ハリウッドなら英語、だったら英語の強い高校に行け、と。それで天城高校に入りました。でも勉強についていけなくて、美術部ばっかりいってました(笑)。内藤先生という方がいらして、いろいろな“もの”の見方を教えてくれたんです。使われていなかったプロジェクターで、映画もたくさん見せてくれました。見ておかなきゃいけない映画って何本かあるんですけど、それもその時に見ています。当時自分が見ていなかった古いクラシックの映画とか、それが面白かったんです。それがきっかけになって本腰をいれて映像の勉強をしよう、と。映像学科があるのを知ったのも美術部でした」

 倉敷での中高生時代こそが、自分のベースだという。

「中高生時代に、映画から感じた楽しさや興奮が、今の自分のベースになっていると思います。センシュー座があって良かったし、そこに導いてくれた先生、勉強以外にも面白いものがあるんだよって言ってくれる先生がいてくれて良かったです」

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