【東京五輪 1964年の風景を求めて ~神泉・千羽~】耳からも感じられた熱気  渋谷公会堂で見た金メダル第一号の瞬間

店主の酒井健次さん。当時を鮮明に覚えているという
 健次さんが上京したのは、昭和36年。五輪開催からさかのぼること3年、1961年のときだった。当時渋谷は、東京オリンピックの主会場が明治神宮外苑を中心とする明治公園に設定されるなど、まさしく五輪の中心となる場所だった。選手村も紆余曲折を経て、旧代々木練兵場跡に設けられたワシントンハイツ(米軍将校用宿舎)に作られることが決まり、サブ会場として利用される駒沢公園も渋谷から約6キロの位置とあって、渋谷は大工事の只中にあった。

「どこもかしこもオリンピックの話題で持ちきりだったわね」。健次さんの話に優しく相槌を打つ、女将である貞子さんは、生まれも育ちも神泉という生粋の渋谷区住人だ。

「今のお店は二代目千羽で、平成15年までは神泉仲通りにお店を構えていたの。今じゃとっても外国人の方が増えて飲食店もたくさんあるけど、東京オリンピックのときは普通の商店街だったのよ。商店街の良いところって、相対取引のようにお店の人と買い物客が直接コミュニケーションを取れるところよね。

 あのときは、“あそこの道路がきれいになってきたね”なんて井戸端会議じゃないけど情報交換の場だった。買い物をするたびにオリンピックの話で盛り上がったものよ。都心には、そういう機能が失われつつあるでしょ。みんなが一緒になって直接的に盛り上がる感覚が希薄になるのは、仕方ないのかもしれないわね」(貞子さん)

 東京オリンピックの前から交際を始めたという2人は、未完成な東京の街を散策しては、移り変わる景色や空気感の中を楽しんだという。

「僕は麻布にある会社の寮で暮らしていた。2人で行く場所は、六本木や渋谷、新宿が多かったかな。平均給料が2万円で、トリスウイスキーがグラス30~50円くらい。ビールの大瓶は120円だから、高給取りしか飲めない一級品だった! 六本木通りも整備途中で未完成だった時代だよ」