元遊郭に泊まろう! 八戸市にある「新むつ旅館」の旅情感がすごすぎるワケ

館内には、当時を物語る資料や道具も多数ある。日本の文化を知る上でも、歴史的価値が極めて高い宿だ
 少し、時計の針を巻き戻そう。

「新むつ旅館」は、八戸市の小中野と呼ばれる港湾にほど近いエリアにある。江戸時代幕末、八戸は良い漁場だったので全国から漁師たちが集まっていた。
八戸の町を流れる河川・新井田川は物流の上で欠かせない要所で、河口付近に隣接する小中野は船着き場として取引所が多かったため、おのずと周辺が繁華街化していく。当然、その並びに遊郭(貸座敷)も点在していたそうだ。

 ところが、1886年の大火によって多くが消失してしまったことに加え、復興後も小中野は東北を代表する繁華街として賑わいを見せていたため、明治中期に新たに繁華街を作る計画が遂行される。選ばれたのは、旧繁華街から少し奥に入った湿地帯だった小中野の南側。表通り(現在のうみねこライン、みさき通り)に面する旧繁華街とは対照的に、目立ちづらい袋小路に「新地」は誕生した。今なお袋小路は健在で、初めて「新むつ旅館」を訪れる人は、間違いなく迷うだろう。だが、この容易に入れないように計画的に設計された立地こそ、遊郭がどのような存在だったかを教えてくれるから面白い。

「当時はこの遊郭街に18軒ほど貸座敷があったそうよ」と紅美子さんが語るように、新地は遊郭を含む多様な夜の娯楽が集まっていたという。そして、昭和32年を迎える――。

「ほとんどの遊郭は旅館に生まれ変わったの。その後一軒、一軒と閉館していく中で、お義母さんが亡くなってしまって、叔母さんが一時的に宿を切り盛りすることになってね」

 現在の八戸の中心地は、小中野よりも内陸部にある、いわゆる本八戸駅の南側だ。交通の主役が船ではなく車に変わったことで、人の流れは河口付近ではなく内陸部へとスライドし、旧市街地である小中野エリアへの客足は遠のいていった。苦難の時代、なぜ新むつ旅館は生き延びることができたのか。

「当時は高度経済成長期だったから、十和田湖観光が盛んだったわけ。団体客を十和田湖に連れていく大型バスの運転手さんの宿泊場所がウチだった。袋小路だから大型バスを停めるのに便利だったみたい。その後、八戸大橋の建設のために作業員の人たちがずっと利用してくれたことも大きかったのね」