徳井健太の菩薩目線 第78回 転んだ人を見て、なぜ人は「かわいそう」と思うんだろう



俺は、結婚や出産や葬式に関心がわかない。

それらのライフイベントは、結婚であれば「おめでとう」、葬式であれば「悲しい」など、人の感情を画一的に解釈するケースが多い、からなのかもしれない。もしかしたらその結婚は、本当はおめでとうじゃないかもしれないし、その葬式は万歳かもしれない。なのに、世の中はとりあえず一番妥当だろう感情に落ち着いて、輪の中の一員になったふりをしている。

俺はそういったことができない。関わろうものなら、結果的に冷や水をぶっかけることになる。だから、触れようと思わない。関心もわかなくなる。

人間というのは、転んで、その後、どう立ち直るかが面白いのに、嘘をつき続けなきゃいけないときがある。本当であれば、早い段階で「転びました」と申告して、再スタートを切った方が早いのに、転ぼうものなら、なぜだか「かわいそう」という言葉が方々から飛んでくる。たまったもんじゃない。日本では、なかなか再チャレンジの環境が整っていないこともあって、「大丈夫、大丈夫」と嘘をつき続けなきゃいけない。ライフイベントともなれば、なおさらだ。

お金がないんだったら貧相な葬式でもいいじゃないか。でも、日本人は最後くらい盛大に見栄を切ってでも華やかに送り出す――なんて風潮がある。嘘をついてまでやることなの? そう俺が言ったとしても、「それはお前の中での正義だろ」なんて言われかねない。でも、それでいい。正義なんて振りかざせるうちが華だ。

俺は結婚して以来、お小遣い制だった。それゆえ、自分がどれだけ稼いでいようとも実感がわかなかった。ハレがない、ケに包まれている。イベントのバイオリズムが常に平行移動だったこともあって、ほしいものも特になければ、欲もわかない。税金を払わないと……ケにまみれた日常。他人の誕生日も、言われないと祝えない。

世の中の誕生日を見ていると、自分の誕生日も含めてだけど感情がよく分からない。“誕生日は楽しいものだから楽しんでいる自分”という設定のコントをやっているんだろうなって思う。でも、どうやら最近はそういうことじゃないらしい、ということも薄々感じ始めている。社会って難しい。

ライフイベントは、喜怒哀楽の四つにおさまりがちだ。だから疑いようがない。たった四つに収まるわけがないのが人間なのに、結婚は「喜」、葬式は「哀」、誕生日は「楽」――なんて具合に、突然一つの感情に支配される。それが苦手なのかもしれない。感情のひだの部分が消え去るのが、ライフイベントだ。

その人たちがどういう生活を歩み、どんなライフイベントを迎えたのか。それが分からない限り、俺は「おめでとう」と言えないし、「大変だったね」なんて声はかけない。 でも、俺のその態度は一般的におめでたいと言われてる空間の中では異質であって、歓迎されるものではないだろう。だから、俺がライフイベント的なことを報告するのであれば、異質な空間でしか口にできない。それくらいのエチケットは持っているんだ。

気の毒とは限らないのに、9割の人間が“気の毒感”を漂わしたら、本人がどれだけポジティブに考えていたとしても、その場は気の毒に染められてしまう。それって、当の本人が置いてけぼりの、異常な空間だと思うんだよね。


【プロフィール】
1980年北海道生まれ。2000年、東京NSC5期生同期・吉村崇と平成ノブシコブシを結成。感情の起伏が少なく、理解不能な言動が多いことから“サイコ”の異名を持つが、2児の父でもある。吉本興業所属。
公式ツイッター:https://twitter.com/nagomigozen 
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