知っているようで知らないたばこの歴史を「たばこと塩の博物館」で聞いてみた

19世紀初め、“本所の人通りの多い道沿いにあった店”という設定で再現した江戸のたばこ屋の様子

紙巻たばこの登場から「たばこ専売制」へ

 たばこの喫煙や栽培が徐々に容認されると、どんな土地でも育ちやすい葉たばこは日本全国で栽培されるようになった。地域ごとの気候や土壌の違いで多くの品種が生まれ、収穫後の乾燥や熟成の工程によっても味や香りに変化が見られた。「産地名で呼ばれる葉たばこの中には国分、和泉、指宿、水府、秦野、摂津、服部などいわゆるブランド品のようなたばこが出てきます。江戸時代の人々は刻んだたばこをきせるで吸っていましたが、後には『こすり』といって髪の毛ほどの細刻みのたばこが登場し、こうした加工技術は日本独特だといわれています」。この刻み方はきせるやたばこ盆、たばこ入れといった喫煙具にも影響を与えている。

 こうした地域独自のたばこ文化は、1800年代後半に登場した紙巻たばこ(シガレット)で大きく変化する。喫煙具を必要としない紙巻たばこの普及は、クリミア戦争がきっかけだといわれるが定かではない。「産業革命を背景にさまざまな物品が工業化していく中で、紙巻たばこの製造は1800年代後半から急速に機械化し、世界中で大量生産されるようになります」。

1880年代、アメリカ人のアリソンが考案したとされる「アリソン式両切紙巻機」

 さらに日清戦争を契機に日本でもたばこ需要が拡大、岩谷松平の岩谷商会、千葉松兵衛の千葉商店、村井吉兵衛の村井兄弟商会といった大手たばこ商による販売競争が繰り広げられた。ちなみに全国で統一したたばこへの課税は、1876年に施行された煙草税則が始まりとなる。

「1890年代には米アメリカン・タバコが設立され、村井兄弟商会と資本提携を結びました。ところが同社工場が火事で消失、再建のための増資で資本率が変わります。さらにアメリカン・タバコと英インペリアル・タバコがブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)を設立したことで、米英トラストへの対抗と日露戦争の戦費を調達する必要にも迫られ、1904年に大蔵省専売局が葉たばこの買い上げから製造販売までを管理する『煙草専売法』が施行されたのです。この専売制は1985年まで続き、日本の戦前・戦中・戦後はたばこ専売制とともにあったといえます」

1904年のたばこ専売制開始から1985年の民営化までの時代の変遷をたどる「たばこメディアウォール」

 専売局設立当初は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」「スター」「チェリー」「リリー」の7種類の銘柄からスタートし、国内で300種ほどあった在来種やその栽培法、作付け地域などの効率化が進んだ。さらに大正末期から昭和初期にかけ、都市化が進んだことを背景に生活様式が変化すると、紙巻たばこの消費量が刻みたばこを上回り、現在主流の黄色種やバーレー種が栽培されるようになった。1931年には専売局自ら流通管理や販売促進を手がけることになり、パッケージのデザインや名称、ポスターにも工夫が凝らされた。なお、たばこ文化に関する史料収集もこの頃から始まっている。

 1937年に始まった日中戦争が太平洋戦争に拡大する中で、英語が敵性語として使用ができなくなり「ゴールデンバット」は「金鵄(きんし)」、「チェリー」は「桜」、「カメリア」は「椿」に変更。物資が不足するようになると、銘柄の削減や包装の簡易化、印刷が一色刷りになるなどした。戦争が激化してたばこそのものが不足すると、1944年から配給制となる一方で正規ルートを通さずに売買されるヤミたばこが横行する。