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変わらないから「安心感」が生まれる。マンネリは美しくて尊い。〈徳井健太の菩薩目線 第163回〉

2023.03.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第163回目は、マンネリについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 マンネリは不変――。

 先日、『水曜日のおじさんたち』(ニコニコチャンネル)にゲスト出演させていただいた。同番組は、『水曜どうでしょう』ディレクターの藤村忠寿さんと嬉野雅道さんによる台本なしのフリートーク番組。前半部分に関しては、無料で視聴できるので、是非ともご覧になっていただけたら幸いです。

 話はもちろん『水曜どうでしょう』に及んだ。番組を作る上でもっとも大事にしていることは、「マンネリ化すること」だと話されていた。

 思わず俺は、「どういうことですか?」と聞いた。

 今まで長く続いてきた番組は、水戸黄門にしろ、男はつらいよにしろ、徹子の部屋にしろ、すべてマンネリ化していて必ずフォーマット化が決まっている、と。

 だから、「最初からマンネリ化する番組を作りたいと思っていた」と水曜日のおじさんたちは教えてくれた。若い時代は破壊衝動があると思う。テレビ業界も幾度となく新しい試みをしてきた。だけど、マンネリ化するのは「続いている(=人気がある)」ことが大前提で、いずれ「不変」へと昇華する可能性を秘めている。

 ああ、これって俺たち芸人にも言えることだなと感じた。 

 芸人は飽きられることを恐れるあまり、新しい自分を見せようと、良くも悪くも努力する。でも、必ずしもそれが良い方向に作用するとは限らなくて、ときにフォームを崩し、自分を見失ってしまう。全部壊れていく。

 最初から変わらないものを目指す。目からウロコだ。

 人間って何か新しいことをしたがるし、新しい刺激を求め続ける。当の本人は、新しいことにチャレンジしたことで満たされるものがあるかもしれない。だけど、その周りにいる人や見守っている人はどうだろう?

 水戸黄門は必ず勧善懲悪のストーリーで、必ず最後に印籠を出し、悪党を懲らしめて一件落着する。このフォーマットがあるから、必ずその時間帯はTBSにチャンネルを合わせる人たちが大勢いた 。マンネリって、変わらないからこそ安心感を与えることができる。ハズレを引かせない。

 若いころなら、いろいろな新しいチャレンジに対して、その結果を反芻できるだけの時間も体力もあるかもしれない。でも、歳を取ると、なかなかしんどい。

 ということは、ある程度の年齢になると、「刺激なんていらないよ」。そう言ってもらえるものも作り出さなきゃいけないんじゃないのか――なんて自問自答した。

 ミュージシャンにしたって、今でもトップアーティストに君臨している多くが、昔も今もさほど変わらない音楽を続けている人たちだ。それってアーティストが同じ路線の音楽をやり続けているということに加えて、そのファンも変な刺激を求めていないってことでもある。その信頼関係って愛おしい。 

「週刊少年ジャンプ」にしても、努力・友情・勝利という三大原則が根底にある。ずっと変わらない。なのに、『鬼滅の刃』のようなメガヒットが生まれる。変わらないから信頼が生まれる。新機軸とか新たなチャレンジとか言い出したら、それはもう危険信号なのかもしれない。

 では、自分の身に置き換えて、これから徳井健太は変わらないままで居続けることができるのか? と問われるとすごく難しい。変わらないっていうことはものすごく勇気がいる。変わることも変わらないことも勇気がともなう。

 自分に求められている役割だってあるだろう。俺の仕事は、半分ぐらいが裏方的なポジションを担うもので、業界的にもそういう役割を期待していると思う(自分自身も楽しんでいるけれど)。自分が自分に思っているキャラクター性と大きな乖離はないから、「嘘はついてない」。そういう意味では自然に仕事ができていて充実感もある。でも、ロケの仕事だって増えてほしいし、そうなるとまた違う自分のキャラクターが誕生しそうで、「変わらない」なんてこととは無縁のようにも思う。

 あのときの加藤(浩次)さんの言葉がよみがえる。

 パンサーの向井(慧)が、「MCをやるとき、クイズ番組の答える側になるとき、ロケ行くとき、ドッキリを受けるとき、全部キャラが違うんです。どうしたらいいですか?」と相談したら、

「お前恋人といるとき、家族といるとき、友だちといるとき、後輩・先輩といるとき、全部顔違うだろ? 同じヤツって嘘ついてるだけだよな。だから違うくてもいいんだよ」

 狂犬の言葉は、いつだってビリビリ、心に響いてくる。きっと無理やり変えてしまうから良くないんだろう。あくまで自然に切り替えられるようになったら、「変わらないまま、変わること」ができるんだろうな。マンネリ化する自分を楽しんでいきたい。

活気って愛なんだ。センスよりも活気を意識してみませんか?〈徳井健太の菩薩目線 第162回〉

2023.02.28 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第162回目は、活気について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 仕事で福岡へ行く機会があったので、“鉄板焼肉”というソウルフードを初めて食べてみた。その名の通り、鉄板の上で焼かれた肉とキャベツとニンニクが、これでもかというほどジュージューと音を立てている。

 これをそのまま食べても十分おいしいんだけど、“鉄板焼肉”の食べ方には流儀があるらしい。まず、鉄板の端っこに専用の木の棒を置き、傾斜を作り出す。すると、傾いた鉄板を流れるように、肉やキャベツの旨汁が鉄板の谷へと流れていく。そこに特製の辛味噌を溶いて、そのタレとともに肉やキャベツを食べるという具合だ。

 お世辞抜きで、マジでうまい。昭和の佇まいを残すその店は、のれんをくぐることに少しの勇気がいるけれど、異様な熱気に包まれ、次々とお客さんが押し寄せる。地元でも有名な超人気店だった。

「お味噌汁は何杯でも無料なんで召し上がりください~」

 そんな言葉にすら活気がまとっている。いや、活気だらけなんだ。スタッフであるおばちゃんたちは、方々のお客さんに対して、「おいしい!?」とか「味噌汁飲んでね!」なんて声をかけ、まるでお客さんを鼓舞するかのように立ち居振る舞う。ワールドカップで見たアルゼンチンのロッカールームみたいだ。

 うまいし安いし優しい。その多幸感を生み出しているのは、この店の活気に他ならない。

 お笑いをやってきて、活気というものをあまり大事にしてこなかったように思う。そもそも、平成ノブシコブシでいえば、相方である吉村が活気担当みたいなところがあるから、自ら活気を意識するということがなかった。

 でも、この地元から愛される人気店を体感して、活気ってあるにこしたことがないんだなと痛感した。お客さんに楽しんでもらうための明るさや声の大きさ、元気さって、実はそれだけでお金を出す価値がある。

 あいさつも同じだ。「こんちわー」ではなくて、「こんにちは!」と声をかけた方が気持ちがいい。自分にそれができているかと問われると、なかなか自信を持てないけれど、そういう意識が頭の片隅にあることが大事なような気がする。

 たとえば、ロケ番組。「すいません……今ロケをやってるんですけど」と断りから入ってしまうのと、「こんにちは! 今、テレビで〇〇をやってるんですけど、お話いいですか!?」では、その後のリアクションがまったく変わってくる。

 断りから入ってしまうと相手は身構えてしまう。でも、後者のようにこちらから飛び込むように活気を伝えると会話のキャッチボールが成立しやすくなる。すべては活気次第なんだ。

 ちょっと想像してみる。ものすごく活気にあふれたお祭りに遭遇したら、なんだか楽しくなって、財布の紐も緩みそうじゃないか。でも、何やら儀式めいた厳かなお祭りだと、萎縮してしまって、楽しもうなんて気持ちにはなれない。

 活気って愛だ。だから、どんなお店にも、どんなジャンルにもあった方がいい。でも、ただ単に声を出して盛り上げればいいって意味ではない。活気と喧騒は別物。静かなスペースでも、たくさんお客さんがいて独自の楽しみ方をしていれば、言葉として矛盾しているかもしれないけど静かな活気を感じる。

 年齢を重ねてくると、結局、センスよりも活気が大事なんだなっていうことがわかってくる。年を取るからこそ活気が必要だ。若い頃は、自分のセンスを見てくださいよ――なんて気持ちもあって、活気の部分に対して斜に構えてしまったり、おざなりにしてしまったりすると思うけど、活気って愛なんだからあった方がいい。

「あいつは元気しか取り柄がない」と言われている人が、なんだかんだで仕事でそれなりに結果を残しているのは、そういうことなんだろう。「なんであんなセンスのない奴が」と釈然としない気持ちになるかもしれない。だけど、活気に勝るものはない。ほんの少し活気を自分の中に宿してみるだけで、現状って変わってくるものだと思う。

 定期的に自分の中に活気を取り入れていこうじゃありませんか。活気を宿すためには、活気のある場所へ足を運んでみるのが手っ取り早い。 飲食店に行くにしても、イベントに出かけるにしても、活気があるという視点で選んでみると、きっと発見がある。

「ほどほどに」とか「ちょうどいい」とか、そういうことがわかってくると、快適な時間って増える〈徳井健太の菩薩目線 第161回〉

2023.02.20 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第161回目は、満腹について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

“まんぷく”という感覚がよくわからなかった。

 奥さんは、「まんぷくと睡眠不足と金欠は恐怖だ」という。

 私徳井健太は、メシというのは DEAD OR ALIVEだと思っている。「美味いか不味いか」という話ではない。ゼロか100。「空腹」か(これ以上食べられないというくらいまで)「腹に詰め込む」かという意味での DEAD OR ALIVE。「腹八分」という意味がまったく理解できなかった。そういう発想がないのだ。まだ食べられるのに、箸を置くということを考えたことがなかった。

 だから、食わないことも平気だ。水分さえ摂取できれば、丸1日、何も食べなくても我慢できる。その代わり食べるときはたらふく食べる。

 飲食店に行けば、片っ端から食べたいものを頼んで、「もう食えない」ってところまで食べ続ける。バイキングへ行けば、下見もせずに食べたいものが目の前に現れたら、配置など考えずにどんどんと乗せていく。鍋を食べれば、食べたいか否かの感情なんかないまま、とりあえず最後は〆の麺を注文していた。そういうものだと思っていた。

 なんでそうなったんだろう。

 少し考えてみると、ヤングケアラー時代にあまりメシを食うことができなかったから、メシがあるときにたらふく腹に詰め込んでおく――そんな行動が頭にも体にもこびりついてしまったのかもしれない。一度癖になったものは死ぬまでつきまとう。よほどのことがない限り、修正したり改善したりすることはない。 

 つい先日、まんぷくが3大恐怖の一つである奥さんから、「あんまり言いたくないんだけど、私は食べるのが嫌なんだ」と言われた。考えたことがなかった。宗教に入信しているのに「神様なんかいない」――。そう告げられるような一言だった。

 ゆっくり食べてみて、自分がどれぐらいでお腹がいっぱいになるのかやってみた。

 驚いた。今まで食べていた半分ぐらいで、お腹がいっぱいになるじゃないか。それどころか食事の後にだるくならず、快適な時間を過ごすことができた。体重だって落ちてきた。新しい神様を見つけた気分だった。

 今まで自分がメシを食った後に出てくる感想といえば、「もう無理」とか「苦しい」ばかりだった。食べる前はあんなに楽しみにしていたのに、食べた後はいつも苦しみに変わっている。A5ランクの牛のように、食わされるが如く食べていた。いつか出荷されると思っていたのかもしれない。 

 ゆっくり食べるようになって一か月くらいが経っただろうか。居酒屋へ行くと、すっかり2~3品からスタートすることが定着化してきた。それらを完食すると、自分たちの腹と相談しながら何を食べたいか吟味して、追加注文をするようになった。メシから食事へ。“〆の〇〇”の意味もようやくわかってきた。どうしてわざわざ「〆る」なんて言葉を使っていたのか不思議だったけど、 42年間生きてきて、初めて「ああ、〆るってこういうことか」と理解できた。ご飯を食べるって、こんなに楽しいことだったんだね。

 ゼロか100 か。無意識で極端な選択を取る40年だったと思う。

 昔、相方である吉村から「何のネタをやるかは徳井が決めてね」と言われたことがあった。任せられた気分になった俺はうれしかった。1日3ステージあるような現場では、自分たちのモチベーションが下がらないように、いつもあれこれ入れ替えてネタを選んでいた。

 3年間ぐらい続いたある日、吉村が「疲れたから今日は鶴でいいでしょ」と言ってきた。それを聞いた俺は、ネタ選びに関して考えることをやめた。決めてねって言ったのに。以来、俺たちは鶴しかやらなくなった。  

 今だったらこう思える。極端な選択は、相談すればすべて解決できただけの話じゃないかと。相談を放棄してきた人生。だから、「ちょうどいい」がわからなかった。

「ほどほどに」とか「ちょうどいい」とか、そういうことがわかってくると、快適な時間が増える。ご飯をゆっくりと噛みしめながら食べるだけで、「ちょうどいい」がわかる。つまりそれって、あらゆることにも言えることなんじゃないか。ゆっくりと噛みしめるようにやってみる。そうすると、きっとすべての「ちょうどいい」がわかってきて、快適な時間が増えるんじゃないだろうか。

「私はこんなことができるんですよ」と何でもかんでも詰め込むと、かえって長所が消えてしまうよね〈徳井健太の菩薩目線 第160回〉

2023.02.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第160回目は、足し算には限度があるという持論について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 近所に、ハンバーガー店がある。オープンしたのは、今から1~2年前だったと思う。新宿区に似つかわしくない、アメリカンな雰囲気が漂う、まるで下北沢にありそうな小洒落た外観が特徴的なお店だ。

 前を通り過ぎると、いつも人がいなかった。ガラガラだ。だからなのか、お店に入る勇気がわかず、近くを通るたびに、中を伺うように通り過ぎるのが、ルーティンになっていた。

 その日は、あまり遠くで昼飯を食べる気になれなかった。ふと頭に思い浮かんだのが、くだんのハンバーガー店だ。意を決して、というほど大げさじゃないけれど、これも縁だと思い、いつも中の様子をうかがうだけだったお店に飛び込んでみることにした。

 ドアを開けようとしたその瞬間、「キッズルームあります」という張り紙があることに気が付いた。何度も通り過ぎていたのに、まるで気が付かなかった。中に入ると、二段ベッドが置かれた子ども部屋のようなスペースが設けられていて、その店で働いているだろうスタッフさんの子どもさんと思しき小学生が遊んでいた。

「へぇ~こんな場所があったんだ」。

 このあたりは集合住宅も多く、家族連れも多い。飲食店にこういったスペースがあるなら、きっと子育て世代にとっては重宝するに違いない。なのに、ガラガラなのはどういうことなんだろう?

 ああ、きっとご飯が美味しくないんだ。入店し、すでにお店の看板らしきハンバーガーを注文していた自分にとって、いまさらそんな推理をしたところで意味なんかない。これから無慈悲に登場するハンバーガーを食べるしかないのである。

 実刑を言い渡された被告人のような気持ちで、目の前に置かれたハンバーガーにガブリとかぶりつく。ところが……。

 これが見事に美味い。「大変おいしゅうございました」、そんな多幸感に抱かれながら食べ終わると、「だったらなんでガラガラなんだ」。放置してた疑問が、鎌首をもたげてきた。

 きっとご飯が美味しくないんだろう。そんな不信感が脳のリソースを支配していたからか、よく見りゃこの店内、情報量が多すぎる。多すぎるんだ。

 延々と画面から流れている映像は、映画『セブン』を思わせる猟奇的なドラマだし、壁には手描きでジョーカーやらお尻を出した女性が描かれている。アメリカンな照明が怪しさを増幅させ、その空間にキッズルームが同居する。こりゃ、ヤバい。間違い探しのような内観になっている。

 食べたら美味しいハンバーガーと家族連れに優しいキッズルーム併設のお店。なのに、自分の趣味嗜好をまぶしすぎてしまったがゆえに、何を売りにしているのか見えなくなってしまったお店。大食いチャレンジメニューでもないのに、ドカ盛りしすぎて、食欲が失せてしまうどんぶりってあるよね。

 もしも、このお店が家族連れでも来店しやすいようなシンプルな内装にして、「お子さんがいらっしゃる方でも安心して食事ができます」と貼ってあったら、かなり印象は変わると思う。「キッズルームあります」だと、なんだか「冷やし中華始めました」みたいだし。

 素晴らしい武器を持っているのに、魅せ方を間違うとエラいことになってしまう。このハンバーガー店を見ていると、つくづく足し算をしすぎてしまう危うさを痛感してしまう。ハンバーガーが美味しいんだから、味に集中できるようにすればいいのに。なんでジョーカー。なんで猟奇的な映像を流すのさ。

 若手芸人にも似たようなことが起こる。「俺はこんなことができるんですよ」と何でもかんでも詰め込んで、結果、グダグダになってしまうケース。若気の至りだから気持ちはわかる。でも、自分のやりたいことよりも、求められているのは、お客さん目線に基づいた引き算の発想だよね。

 足し算をしすぎてしまう人ってどんな人なんだろうかと、ちょっと考えてみた。振り返ると、相談をしたがる人に、そういう人が多いような気がする。相談することはとても大切なことだと思う。でも、「相談する」と「相談したがる」は、まったく似て非なるもの。後者は、あれもこれも取り入れて、積載量が超過していることに気が付かない。だから沈んでしまう。

「売れたい」。その気持ちを叶えるために、「ネタさえよければいい」と考えがちだ。かつての俺もそんな風に考えていた。だから、ネタの完成度を上げるためにあれもこれもと取り入れる。

 でも、買ってくれる人がいないと、どんなに美味しいものを作っても、売れることはない。見せ方を変えたり、出店する場所を変えたり、どうしたって工夫は欠かせない。今あるものから引いていく。自分の「個」を貫きたいならなおのこと。

 あのハンバーガ店、気が付いてくれたらいいんだけどなぁ。味は美味しかったんだから。帰路につきながら、そんなことをぼんやりと考えていた。ごちそうさまでした。

売れるきっかけになったものは、その芸人の“売り”だと思う。平成ノブシコブシは、ロケをやったほうがいいんだよね。〈徳井健太の菩薩目線 第159回〉

2023.01.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第159回目は、平成ノブシコブシによるロケの意味について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 相方である吉村とロケに行ってきた。二人でロケに行くときは、そのほとんどが俺たち以外の出演者もいる現場だ。だけど、今回は久しぶりに平成ノブシコブシ二人っきりで、一泊二日のロケ仕事。場所は沖縄だ。

 1月28日に放送されたテレビ東京『土曜スペシャル 草刈らせてもらえませんか? 人情ふれあい草刈り旅 いざ絶景島へ』。俺たち二人が、最新の草刈り車に乗り込み雑草の処理に困っている場所を見つけ、人助け(草刈り)をする――。あまり耳にしたこともなければ目にしたこともないロケだと思うので、好きな人にはズドンと心の臓に刺さる番組になっているのではないかと思う。見逃した方は、見逃し配信でも視聴できるので是非。久しぶりの平成ノブシコブシオンリーのロケ、いかがだったでしょうか?

 元来、俺が思っていることの一つに、「売れたきっかけになったものは、その芸人の“売り”のポイント」ということがある。例えば、M―1をきっかけに売れ始めた芸人はずっと漫才をやった方がいいと思うし、キングオブコントできっかけを作った人はコントをやり続けた方がいいと思う。クイズ番組で結果を残せるようになった芸人は、クイズを続けた方がいい……などなど、なんだってオッケーだ。恩人のようなジャンルの仕事は、辞めない方がいいと思っている。

 自分たちのことを、決して売れている芸人だなんて思っていない。

 だけど、世に出るきっかけとなり、芸能界一周旅行をさせてもらえるようになった、俺たちにとっての恩人のような存在は何だったのか? そんなことを考えたとき、世界に点在するさまざまな民族にロケをした『(株)世界衝撃映像社』こそ恩人だと思う。

 この番組があったから、その後『ピカルの定理』のレギュラーに選ばれ、息も絶え絶えではあったけど、いろいろな番組に出させてもらう機会をいただいた。

 あまり自分たちからは口にしたことはないけど、心の中では「平成ノブシコブシは、ロケをやり続けるべきだ」と思っていた。できれば常識にとらわれないようなロケを。

 あれから干支が一周して、俺たち2人も随分と大人になった。そんなタイミングで、たった二人でロケをやらせていただけるという機会は、とても運命めいたものを感じたし、こういった機会を作っていただいたスタッフの皆さんには、感謝しかない。

 時間というのは面白いものだなと、つくづく思う。若い頃は、ロケへ行けば、お互いに衝突することが少なくなかった。でも、今回のロケはお互いにフラットに肩ひじ張らずにできたような気がする。

 それって、どこかお互いが芸人であることを放棄していたからかもしれない。と言っても、責任までは放棄しない。ロケをする中で、一緒に行動を共にする芸人やタレントがいれば、俺たちも芸人という役割をまっとうすると思う。だけど、今回は右を見ても左を見ても吉村しかいない。無理やりボケたり、無理やり目立つ必要はない。 仕事として一生懸命向き合うけれど、変に芸人ゲイニンせず、等身大のおじさん二人で臨めたというのは、歳を重ねたからこその妙技というか。

 過酷なロケだった。でも、懐かしい。『(株)世界衝撃映像社』を思い出すような疲労感を覚えながら、1日目のロケを終え、宿のベッドの上で寝転がった。ふと天井を眺めていると、「吉村とロケしてるんだなあ」なんて感じ入ってしまって、目が冴え、寝れなくなってしまった。明日も早朝からロケだというのに、俺は一体何をやっているんだろう。

「気分転換しよう」。何か曲を聴こうと思って、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』 椎名林檎Verを聴いた。真夜中だというのに、脳からドーパミンがドバドバと分泌されていたからだろうか、『木綿のハンカチーフ』の歌詞が脳天に響いてくる。

『木綿のハンカチーフ』は、地方から都会へと出た男性と地方に残された女性の遠距離恋愛の模様を描いた曲だ。明るい曲調もあって甘酸っぱい青春ソングのように聴こえるけど、よくよく最後まで歌詞を追うと、最終的に男性が別れを切り出すという残酷な歌でもある。一方的に別れを告げられた女性は、最後のわがままとして、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さい……それが、『木綿のハンカチーフ』の物語だ。

 俺たち2人がロケをした場所は、東京から遠く離れた沖縄だった。だからなのか、妙にこの歌詞の中に登場する二人の気持ちに没入できるところがあって、眠りにつくどころか、ますます眠りにつけなくなった。

 昭和の時代は、田舎を捨て、そして好きだった女性を捨てるぐらいの気持ちがなければ東京という世界では戦っていけないんじゃないのか。そんなメッセージが込められているのだとしたら、僕は旅立たなきゃいけない――。真夜中以上、早朝未満のトリップ感。時計を見ると、深夜の3時。明日は、 6時に起きなきゃいけないのに。

 平成ノブシコブシに、そんな覚悟はあったのか。そんな気持ちを持って東京から何百キロも離れた場所で、何を思ったのか。その模様を、是非皆さんに目撃していただきたい。2023年は、平成ノブシコブシのロケが増えたらいいな、なんて思う。増えなかったら、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さいな。

「プロ麻雀Mリーグ芸人」で再確認した、チームプレーの尊さ〈徳井健太の菩薩目線 第158回〉

2023.01.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第158回目は、「プロ麻雀Mリーグ芸人」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 1月12日に放送された『アメトーーク!』の「プロ麻雀Mリーグ芸人」、ご覧になっていただけましたでしょうか。

「見逃した」という方は、もしかしたらTVerでご覧になっちゃったかもしれませんよね。そうです。今年から『アメトーーク!』は、TVerでも見逃し配信をスタート。その一発目が、「プロ麻雀Mリーグ芸人」だなんて、こんなに縁起がいいことってありますか?

 参加したのは、私徳井健太に加え、『アメトーーク!』初登場となる田中裕二さん(爆笑問題)、じゃいさん(インスタントジョンソン)、 山本博さん(ロバート)、じろう(シソンヌ) ともしげ(モグライダー)、前田裕太(ティモンディ)といった麻雀を愛する、「Mリーグ」に魅せられた面々。田中さんのひな壇姿なんてめったにお目にかかれるものじゃない。

 精一杯、「Mリーグ」の魅力を語らせていただきました。『アメトーーク!』の収録は、いつだって緊張する。自分が好きなジャンルや得意なくくりをプレゼンするからこそ緊張するし、頭を悩ませる。

 今回は麻雀を知らない人でも楽しんでいただけるように、たとえをいくつも考えて臨んだ。番組の中でも、「四暗刻がどれぐらいすごいのか?」ということを説明するために、「M-1グランプリとキングオブコント、どちらも王者になった上で、双方のオチの一言を同じにするくらいすごいこと」と説明してみた――ものの、あんまり伝わっていなくて、「申し訳ない」と収録中に反省したほどだった。

 もう一つ、たとえさせていただいたシーンがあった。博さんが振り返った丸山奏子さんのデビュー戦。そこで戦った相手が、多井隆晴さん、滝沢和典さん、佐々木寿人さんという超猛者揃いだったため、いかに丸山さんの置かれた状況がすさまじかったかを説明するため、俺は「松本(人志)さん、内村(光良)さん、(ビート)たけしさんと戦うようなもの」と話した。

 そして、となりのじろうが「(丸山さんは)ぱーてぃーちゃん」とアタックを決めてくれたことで笑いが生まれたわけだけど、実のところは最適なたとえが浮かばずに、俺は死にそうになっていた。

「ぱーてぃーちゃん」の前には、じゃいさんが「宮下草薙じゃない?」なんて絶妙なトスを上げてくれていたんだけど、このときの丸山さんは宮下草薙ほどの実績もないから、「いや、違うかな」と生意気にも否定してしまった。何も浮かんでいないのに。じゃいさん、ごめんなさい。

 そして、じろうの「ぱーてぃーちゃん」と起死回生の小声が発せられ、スタジオは笑いに包まれた! ……この一連の流れに、やっぱりバラエティの収録はチームプレーが欠かせないのだと痛感した。『アメトーーク!』は、そんなことを心臓にまで届かせてくれる番組なんだよね。

 実は、じろうの小声のすぐ後に、俺は「ぱーてぃーちゃん」の中で、すがちゃん最高No.1こそが丸山さんの立ち位置だと説明したかった。ところが、その名前が出てこない。すると、ティモンディの前田が「すがちゃん最高No.1」とアシストしてくれ、「そう! 丸山さんはすがちゃん最高No.1なんです!」と蛍原さんに伝えることができた。

 放送では、その部分はばっさりカットされていたけど、「それでいいのだ」。じゃいさんがヒントをくれ、じろうが小声で起死回生のシュートを決め、前田がアシストする。全員で一つの笑いを生み出すために、必死にボールに食らいつき、あるのかわからないゴールを目指して、前に進む。日韓ワールドカップのときの対ベルギー戦でゴールを上げた鈴木隆行さんのように、精一杯、足を伸ばさなきゃいけない。

 つなぐからゴールが生まれるわけであって、その大切さを、あらためて今回の『アメトーーク!』の収録で学ばせていただいた。Mリーグに魅せられるのも、チームプレーの尊さがあるからなんだ。

『アメトーーク!』には、鬼の編集力を兼ね備えるスーパースタッフ軍団がいる。ゴールを目指すために力の限り走っていたら、必ず面白いポイントを編集力によって作ってくれる。

 放送を見ると、あたかも俺が思いついたように発言している一言も、ふたを開けると、ともにひな壇に座るチームのサポートがあって、その発言に行きついている。編集力によって、ズバッと俺が笑いを取っているように見えるだけ。その後ろには、たくさんの犠牲になったしかばねともサポートとも見分けがつかないコメントが転がっている。俺の一言ではなくて、それはチームの汗の結晶だ。そういうプレーがたくさん生まれた収録の後に飲む酒の――なんて美味しいことか。

 芸歴23年目。若い頃は、ひな壇に座った芸人とつばぜり合いをして、斬り合いをして、その先に笑いが生まれると思っていた。でも、刀は人を斬るためだけのものじゃない。守ることだってできるもの。お笑いは助け合いだ。

『酒と話と徳井と芸人』に、金属バットがやってきた。どれだけ本音を語ってくれたんだろう。〈徳井健太の菩薩目線 第157回〉

2023.01.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第157回目は、『酒と話と徳井と芸人』#金属バットについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 音声コンテンツ『酒と話と徳井と芸人』に、金属バットがやってきた――。

 彼らは、だいぶ後輩だ。なのに、緊張する。恥ずかしながら、金属バットを目の前にして話をするとなると、緊張してしまう自分がいる。

 金属バットとは面識がなかった。ただ、記憶をたどると、たった一度、少しだけしゃべったことはある。3~4年前の『M-1グランプリ』の当日。俺は、何人かの芸人と一緒に10時間ぶっ通しで、『M-1グランプリ』を生観戦するという仕事をしていた。その中で、敗者復活戦に出場した芸人たちと画面越しにトークをする機会があった。それが、金属バットとの初遭遇だった。

 あれから金属バットのメディア露出も増えた。今では、彼らの態度は、お笑いファンには唯一無二の存在となっている感さえある。それだけに、「きちんと話をしてくれるんだろうか」。そんな不安がよぎって、先輩なのに緊張してしまった次第なのだ。今回の『酒と話と徳井と芸人』。結論から言えば、きちんと話をしてくれなかった――と思う。まぁ、金属バットらしいと言えば金属バットらしいのかもしれないけれど。

 そそのかされながら時間だけが過ぎていく。のらりくらり。金属バットなのに、当たっても飛ばないなんて聞いてないよ。つかみどころがない……というよりも、つかませてくれない厄介な奴ら。

 私、徳井健太はたばこを吸っている。と言っても、いずれたばこをやめるために、吸っても肺には入れずにふかすだけに留めている。

 収録の休憩中。金属バットとともに喫煙スペースで、たばこを吸う時間があった。いつものようにふかそうとしたとき、本能が「やばい」と爆発した。もしも……ふかしていることが二人にばれたら、もう二度と口をきいてくれない気がした。この収録はお蔵入りになるなって。

「徳井さん~、もしかしてふかしてんスか? マジすか」

 そんな友保の声が聴こえた気がして、俺は当たり前の顔をしながら、たばこの煙を肺に入れた。実に、2~3年ぶりの吸煙だった。フッと心が軽くなる感じがした。

 その瞬間、彼らは、「どうして髪の毛、そんな染め方しているんすか?」なんて聞いてきた。その声色は、さっきまでの収録とは打って変わって、とても角が取れた、丸みのあるトーンに感じた。残念ながら酒だけじゃ足りなかった。たばこを一緒に吸って、ようやく仲間。今回は、酒と煙と話と徳井と芸人。たばこを肺に入れないと、金属バットとは話せない。吸煙してからというもの、なんとなく彼らと打ち解けて話せるようになったような気がした。

 今回の収録は、M-1決勝進出者のアナウンスがされてから間もない時期に行われた。きっと、 あの二人にも思うところがあったと思う。

 小林は、「ずっと漫才をやっていきたい」と言っていた。いずれは、なんばグランド花月(NGK)のトリを務めたいとも話していた。これからのこと、東京進出について、いろいろなことを聞いた。でも、そのすべてがウソかマコトかわからない。たばこを肺に入れたけれど、もしかしたら入れ損だったかもしれない。それすらも、気のせいかもしれないけれど。

 ただ――。俺たちが彼らを通して見たい夢と、彼らが描いている夢は違うのだということは、ほんの少しわかった気がする。ちょっとは本音を話してくれていると思いたい。俺一人では手に負えないので、皆さんに『酒と話と徳井と芸人』を聴いていただき、その真意を丸投げさせてください。

 過日、フジテレビが、結成16年以上のコンビが競う新たなお笑い賞レース『THE SECOND~漫才トーナメント~』(仮)を開催すると発表した。なんでも決勝トーナメントは今年5月、全国ネットでゴールデンタイムに生放送されるという。 また一つ、お笑い界に碑が立つ。

 相方である吉村はどう思っているか知らないけど、俺はネタは売れるための道具だと思ってやっていた。正直なところ、自分たちのネタに愛はなんてない。そんな人間が口を挟むことはおこがましいとは思いつつ、ネタを一生懸命磨き、自分たちのネタを愛している芸人たちにとって、夢のある大会になったらいいなと、心から思う。

 甲子園に出れなくたって、社会人として都市対抗野球で活躍し、 プロ野球からスカウトされた選手だっている。売れるのは、夢のまた夢。M-1で成仏できなかった芸人たちに、“また夢”があるのは決して悪いことではないよねって。2022年 、M-1ラストイヤーだった芸歴15年組は絶対的に有利なポジション。一方で、とうの昔にM-1を卒業した練者組がどんな一手を放つのか。夢の続きは、いつだって残酷でワクワクする。

麻雀は「教養」を伝えることができる。麻雀教室に通う親子から教えてもらったこと。〈徳井健太の菩薩目線 第156回〉

2022.12.30 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第156回目は、麻雀教室について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 大好きな番組、 NHK 『ドキュメント72時間』が、今年も年末にスペシャル放送される。放送日は、12月30日金曜日。お昼の12時15分から18時45分まで6時間半ぶっ通し。これを観るあなたもドキュメント。

 スペシャル回にたびたび呼んでいただくわたくしは(ありがたいことです)、前回、北海道大学の恵迪寮を訪れた。その模様は、菩薩目線第143回『ドキュメント72時間』、恵迪寮の“その後”を追って。そこは小さな国だった≫ にて、詳しく触れているのでご笑覧いただけたら幸いです。

 今回もロケをさせていただくことになり、東京・大井町にある麻雀教室「ニューロン麻雀スクール大井町校」へと足を運ぶことになった。麻雀との付き合いは、かれこれ20年以上。ただ、麻雀教室へ行ったことはなかった。

 初めて目にした光景は、知らないことの連続。俺が知っている麻雀の魅力とは違う魅力に満ちていて、下は小学生から上は90歳くらいの高齢者まで、文字通り、老若男女が雀卓を囲んでいた。

 この教室は、イトーヨーカドーの中にある。麻雀教室の他に、英語塾とパソコン塾もある。大きな商業施設に来る老若男女が、英語を覚えたり、パソコンのスキルを身につけたり、麻雀に興じたりする。ぐるぐると回っていて、人が循環している。麻雀教室とは言え、商業施設の中にあるから、親御さんも安心だろう。ワイワイガヤガヤ、一局に集中する真剣だけど牧歌的な空間。

 なんでも麻雀教室の世界には、甲子園のような大会なんかもあるらしい。さらには、 AbemaのMリーグの影響もあって、麻雀教室は活況なんだそうだ。受講費もとてもリーズナブルで、小学生・中学生・高校生は1日1000円。子どもたちがたくさん集まるのも納得だ。

 麻雀という言葉を耳にすると、眉をひそめる人たちが一定数いる。だけど、この光景は、そんな人たちにカウンターパンチを浴びせるような活気に包まれている。

 麻雀は、とても頭を使う。個人的な意見になるけれど、頭を使って、思考を張りめぐらさなければ勝てない麻雀は、生きていく上で役に立つものだと思っている。

 たとえるなら、水泳のようなもの。水泳を始めるとき、オリンピック選手を目指して始める人はごく少数だと思う。多くの人は、泳げた方が生きていく上で役に立つと考えるから水泳を始める。しかも、やった分だけ上達する。麻雀も似ている。

 世の中には、よくわからない習い事が結構ある。人それぞれ得手不得手があるから、その習い事が必ずしも役に立つかはわからない。むかし習っていた習い事がいま役に立っているのか、俺もときたま自問自答する。だったら――。小さい頃に麻雀を習いたかったなぁと、目の前の光景を見ながら思いを巡らせる。

 ある親子が一緒に卓を囲んで打っていた。親子で麻雀ができるなんて、それだけでハッピーだ。麻雀というのは、教科書通りに覚えていっても、いざ実際に人と打ってみると、まったく印象が違う。練習と実践じゃ雲泥の差だ。 

 子どもは一生懸命覚えたことを、その卓の中で表現しようとしているけれど、麻雀の醍醐味を知っているんだろうお父さんは、「もっとこうした方がいいんじゃない」といったアドバイスをする。それでも、子どもはまっすぐに打ちたがる。ホームランなんか狙わずに、とにかくヒットを打ちたい。そんな気持ちが見て取れて、安い手であっても役を完成させようと必死だ。

 お父さんは、長年の経験から知っている。ヒットを重ねることも大事だけど、最終的にホームランを打てば勝てるってことを。大局をいかに描けるか――。そんなことを子どもに伝えようとする姿は、まるで麻雀を通じて、人生を教えているようにも見えた。

 普通に考えたら、そんなことは子どもに教えづらいこと。「小さな努力も大事だけど、安い手だけでは勝ちきれない。ここぞというときに勝てる力が大事だよ」なんて伝えてしまったら、子どもは小さな努力をしなくなってしまうかもしれない。

 子どもに教えづらいだろうあの手この手を、麻雀というフィルターを通して、楽しく教えている親子。その様子を見て、俺は麻雀の汎用性の高さを再認識した。麻雀は教養でもあるんだ。

 一生懸命打って、一生懸命何かを掴もうとしている子どもがいたら、わたくし徳井健太も一生懸命お相手するしかない。「せっかくだから」と促され、全力で打ってみた 。「徳井さん強すぎる……」。そうこぼした女の子は、間違いなく戦意を失っていた。

「やりすぎたかな」と思った。ところが、その横にいたお母さんが「だめだよ。ここでさじを投げちゃ」と女の子を励ます。感情を殺さずに、悔しいとかむかついたとか、すべてを雀卓の上にさらけ出していい。なんて公平な世界なんだろう。 麻雀教室、すごいよね。

 子どもを育てることはとても難しい。夢を見させてあげなければいけないけれど、リアルも伝えなければいけない。その中で、子どもたちは自分たちなりに夢の追い方を見つけていく。

 俺は、麻雀というのは剣術だと思っていた。だけど、どうやら剣道なのかもしれない。 生きていく上で、術だけでは殺伐としすぎる。道を知らなければ、豊かにはなれないよね。

ヤングケアラーだったあの頃。周りに頼れず、「無理」と言えなかった理由がわかった。〈徳井健太の菩薩目線 第155回〉

2022.12.20 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第155回目は、自身のヤングケアラーとしての過去について、独自の梵鐘を鳴らす――。

「僕、ヤングケアラーだったと思います。当時はそんな言葉なかったけど」

『敗北からの芸人論』を発売した際、自分の過去を振り返る機会があった。その話はBuzzFeedで記事になり、それからというもの、ヤングケアラーについて話をする機会が増えた。

 先日も対談をした。お相手は、水谷緑さん。精神科医療分野の取材を重ねている方で、ヤングケアラーについてのマンガを描かれている漫画家さんでもある。対談記事が公開される際は、徳井健太のTwitterなどでお伝えしたいと思う。

 水谷さんのマンガ『私だけ年を取っているみたいだ。 ヤングケアラーの再生』を見て驚いた。統合失調症の母を筆頭に、俺が通ってきた当時の道とほとんど一緒。主人公が抱く感覚にも既視感がある。特に、自分の感情を殺した――という感覚。

 高校生だったころ、クラスメイトに「徳井君って、何をやっても怒らないよね?」と聞かれたことがあった。「そうだね」と答えた俺に、クラスメイトは「何をやったら怒るの?」と質問を続けた。

「家が放火されて、大笑いされたら怒るかな」

 我ながらどうかしていると思った。放火されても怒らないんだもの。なぜか放火は許容範囲。その上で「大笑いされたら」、ようやく怒るらしい。あの時代、とことん感情を殺していた自分がいたんだなと、懐かしさが込み上げてきた。

 どういうわけか俺は、何かをやりながら何かをすることが好きだ。たとえば、料理をしながらテレビを見つつ、何かをぼんやり考える。そんなマルチタスクを抱えているときに、幸福感ややりがいを感じる。なんでだろうと思っていた。でも、その理由がわかった。

 ヤングケアラーは、家事をして、親の面倒を見て……結果的にマルチタスクをしている。だから、「そういうふうになりがち」なんだそうだ。さらには、「人に頼れない」。まったくその通りで、俺も人に頼ることが苦手だ。すべてを自分一人で抱え込んできたから、どう頼っていいのかわからない。そして、パンクする。勝手に抱えて、勝手に爆発する。

 本当は「無理です」と伝えればいい。だけど、「無理」と伝えることは、即死を意味する。唯一家庭の中でまともな人が匙を投げたら、すべてが崩壊してしまう。マンガを読んでいると、母親の面倒を見ながら、妹の世話もして、自分のことだってやらなきゃいけない――。あの頃の自分がフラッシュバックした。これって“ヤングケアラーあるある”だったんだって。

 そんな話を、菩薩目線担当編集A氏に話すと、「『(株)世界衝撃映像社』でむちゃくちゃなことを平気でできたのは、そういうことだったのかもしれないですね」と言われた。

 たしかに「無理」なんて選択肢はなくて、抱え込んでダイブするしかなかった。できませんと謝るくらいだったら飛んだほうがいい。傍から見れば、理解できないことだったかもしれないし、自分でもなんで飛びたがるのかわからなかったけど、今ようやく、自分でもあの頃の行動が理解できるようになった。ヤングケアラーだったときの行動や思考が、ずっと癖になっていたんだと思う。

 あのままいけば、きっと犯罪者になっていた。今はずいぶんと変わることができた気がする。救ってくれたのは、お笑いであり、お笑いの世界。まったく結果を残せていないときでも、誰かが見ていてくれて、一緒に酒を飲んでくれた。伸び悩んでいて脱線しそうなときでも、面白い先輩がダメ出ししてくれたり、励ましてくれたりする。感情を反芻して、自分に伝えてくれた人たちがたくさんいたから、ようやく自分でも感情が飲み込めるようになっていったんだと思う。

 さらけ出している人が多い世界で良かった。ヤングケアラーの話だって、普通であればなかなかオープンにできないことだよね。でも、さらけ出すのがお笑いだ。さらけ出すから、単なる思い出話が意味を持ち始めるのだと思う。

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日に更新

特別な夜に期待しちゃいけない。旅はいつだって、あるがままだ。〈徳井健太の菩薩目線 第154回〉

2022.12.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第154回目は北九州市小倉の夜について、独自の梵鐘を鳴らす――。


 私事で北九州は小倉へ行った。

 夕食を終えた23時過ぎ、アーケード街を歩いていると、50~60代とおぼしきおじさんがギターをかき鳴らしながら歌っていた。あたりには誰もいなくて、お世辞にも「にぎやか」という言葉とはほど遠かった。

 新宿駅南口辺りに行くと、最近は多くのストリートミュージシャンがいる。その周りにはそれなりに聴衆がいて、街の喧騒もあいまって、熱を帯びている 。だけど、おじさんは俺に発見されるのを待っていたかのように、一人ぼっちで歌っていた。冬が迫っていることを告げる、冷たい風を感じる夜だった。

 その風貌からは、おそらく吉田拓郎や長渕剛が好きなんだろうなということが予想できた。正直な話、俺はフォークをはじめとしたこの手のジャンルに詳しくないし、わからない。でも、ポツンとたった一人でギターを弾くおじさんに、なぜだか心がときめいて、足を止めた。

 お客さんは我々だけ。おじさんは、会釈をしながら「旅行ですか?」なんて調子で、簡単な挨拶を投げ込んできた。俺は返すボールで、「どんな歌を歌ってるんですか?」と聞くと、おじさんは期待を裏切らない「吉田拓郎や長渕剛が好きです」というドンピシャの答えを投げ返してきた。

 俺は、「拓郎さんとか長渕さんの曲をあまり知らないので、『これがいい曲だよ』みたいなおすすめの曲を聞かせてください」と、お金をギターケースに入れてお願いした。するとおじさんは、「う~ん、いい曲か~わからないなぁ」と口ごもり始めてしまった。

「なんだろう……なんでもいいから曲名を言ってもらわないと歌えないなぁ」(おじさん)

 拓郎さんの曲はわからないし、長渕さんも「とんぼ」や「乾杯」くらいしかわからない。せっかく小倉のアーケード街で、たった一人で歌っているサバイバーかもしれないおじさんに出会えたんだから、この人から自分の知らない曲を教えてもらいたかった。だから俺は、「今の時代に作れないだろう、その当時の時代感がつまっているだろう曲、もしくはコンプラとか関係なかったあの頃しか作れないような曲、そういう曲をお願いします」と、わがままを言わせてもらった。何を歌ってくれるんだろう。きっと、こんな夜にぴったりの曲を歌ってくれるんだろうな。でも――。

「それはどういうこと?  どんな曲?」

 そうおじさんは平然と聞いてきた。たとえば寿司屋の大将に、「おまかせでお願いします」と伝えたとして、「ネタを指定してくれないと握れないよ」なんて返答されることはない。「この時期は何の魚が旬なんですか? 旬の味を感じたいので、大将のおすすめの一品をお願いします」とオーダーして、「それはどういうこと? どんな魚?」と聞かれたら、俺たちはどんな顔をするだろう。

 おじさんは、数分後、「とんぼ」を歌っていた。

 特別な夜なんて期待しちゃいけない。驚くほどにスイングしない出会いだってある。でも、愚直でもいいから真っ直ぐな魂をぶつけてほしかった。不味くても目の前に出してほしかった。それなのに、添えられ、置きにいかれるのは、悲しいじゃないか。

 自信たっぷりと激情的に歌い上げる「とんぼ」を聞き終わり、とぼとぼと歩いていると、何とも言えない寂しさに包まれた。ただただカメラが回っていない、「一人月曜から夜更かし」のようなことをしてしまった夜。もしかして、これがフォークなのかな。

 後日、『チャチャタウン小倉』という、地元民憩いの商業施設へ行く機会があった。映画館やゲームセンター、観覧車などが併設されていて、おそらく北九州の人たちにとっては、「たくさんの思い出があるんだろうな」と想像できる、子どもの頃の夢の集積地みたいな場所。あのおじさんだって、一つや二つ、ここに思い出が眠っているに違いない。

 何やらイベントが行われているようで、老若男女がびっしり100人くらい目を輝かせていた。何が行われているんだろうとステージを見ると、たった一人のベーシストが、ヴオンヴオンと弦をうならせながら即興演奏を行っていた。じいちゃんもばあちゃんも、何がすごいのかよくわかっていない顔をしていたけど、それ以上に楽しそうな顔をしていた。たった一人のベーシストが、『チャチャタウン小倉』をわかせていた。

 ここには熱いパッションが広がっている。安心した俺は、小倉を後にした。

 

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日に更新予定です。

「第10回腐り芸人セラピー」。“世界の悟り”矢作さんから学んだこと。〈徳井健太の菩薩目線 第153回〉

2022.11.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第153回目は、感謝について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 コンビ間は、複雑怪奇。

 11月19日に放送された「第10回腐り芸人セラピー」(『ゴッドタン』)を経て、あらためてそんなことを思う。腐り芸人もついに10回。まさか岩井(勇気)が、フジテレビのお昼の顔になる日が来るなんて、月日の流れを否応なしに感じます。

(※来年1月からハライチは、フジテレビ平日昼の情報番組『ぽかぽか』のMCを担当することが決定)

 今回は、ティモンディの前田裕太とわらふぢなるお(ふぢわら・口笛なるお)が「腐り芸人セラピー」を受診。高岸(宏行)が活躍することで頭を悩ませているという前田の吐露は、多くのコンビが通る道かもしれない。

 「コンビ間格差」、「じゃないほう芸人」なんて言葉があるように、コンビやトリオの中で一人だけが目立ち活躍の場が増えることは、今では珍しいことではなくなった。澤部(佑)だけが目立っていたハライチもそうだし、吉村(崇)だけがバラエティに呼ばれていた、俺たち平成ノブシコブシもそう。

  コンビなんだから喜ばしいことのはず……なのに、釈然としない。悶々とするうちに、岩井(勇気)も俺もダークサイドへ堕ち、「腐り芸人」になっていた。前田もまた、同じように悩みを抱えているのだろう。

  収録中、俺が勝手に“世界の悟り”だと思っている矢作(兼)さんが、こんなことを話すシーンがあった。

  矢作さん曰く、小木さんの態度が悪いから、自分(矢作さん)に単独でCMのオファーが届くという。でも、矢作さんは自分のことを決して態度が良い人間だなんて思っていないそうだ。だったら、なぜ矢作さんにオファーが来るのか?

 「小木の態度が悪いから、横にいる普通の態度の俺が“良い人”に見えるだけなの。俺にCMのオファーが来るのは、小木のおかげなんだよ」

  そう説明していた。もう説法。仏様の考え方。

  片方が目立ってしまうことで、自分は置いてけぼりになっているんじゃないかという焦りが生まれるかもしれない。だけど、それは個性の違いにしか過ぎないわけで、違う考え方や違う人たちがいるから自分の価値が生まれたり、浮かび上がったりすることだってある。矢作さんみたいな考え方の人ばかりだったら、世の中から戦争はなくなるのに。

  矢作大師の説法は、これだけではない。

  わらふぢなるおの悩みは、「もうネタを作りたくない」というものだった。賞レースで結果を残している彼らの実力を疑う人はいないはず。テレビに出るためにネタを作り続けているものの、売り切れていないことに、内心穏やかじゃない。売れるために、また新たなネタを作る。だけど、過去のネタを越えるような面白いネタを作ること、あるいは作れるだろうと期待されることに疲れているという。ふぢわらは、(すでに作った)ベストのネタを超えることができないとこぼしていた。

  そんな二人を見て、矢作さんは、「今日の面白いは、明日の面白くないかもしれないでしょ。自分たちのネタは、自分たちが面白いと思ったからやっていただけだったけどなぁ」と、さらりと言う。誰かの期待なんてどうでも良くて、自分たちが面白いと思ったものをやれるだけで楽しい――。なんて素敵な考え方なんだろう。矢作さんがあと10人いれば、この世から争いはなくなるに決まっている。

  月並みな考えだろうけど、「感謝する」って気持ちはとても大事なことだよね。妬んでもいいし、さらけ出してもいい。でも、それ以上に感謝の気持ちがある、感謝できる環境があるから、物事は想像している以上にうまくいくのかもしれない。感謝こそ腐りの処方箋。“世界の悟り”矢作さんから学ぶことは多い。 

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日更新です

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