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愛も笑いもない「調子に乗るな」の一言に需要はあるのか。調子は誰でも乗れるアトラクション。〈徳井健太の菩薩目線 第169回〉

2023.05.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第169回目は、調子に乗ることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 皆さんは、調子に乗ったことがありますか? 私は乗ったことがあります。おそらく、生きとし生けるほとんどの人が、少なからず1回はあるのではないでしょうか。誰でも乗れるアトラクション。それが調子だと思うんです。

 調子に乗ったとき、どんな反応をされるとうれしいでしょうか? 「お前、調子に乗んなよ~!(笑)」「いいぞ! もっとやれ、もっとやれ」なんてリアクションだと、調子に乗った甲斐がある。対して、「はぁ? 何、調子に乗ってんの?」「調子に乗んなよ」と冷たい水をかけられるように反応されたら、めちゃくちゃテンションが下がってしまう。実際、学生時代にそんな言葉を言われ、ものすごく気持ちが急速冷凍したことを覚えている。

 調子に乗っている人の多くが、意図的に調子に乗っている。わざわざ、「降りろ」と言われる筋合いってないと思うんです。

 もちろん、回転ずしチェーンでいたずらを働いた学生たちのように、調子に乗るべきではない場で調子に乗るような言動に対しては、雷が落ちるのは当たり前。故人を偲ぶ告別式で、第三者が笑いを取ろうと調子に乗ろうものならそりゃ叩かれますよねって。

 だけど、わいわいと盛り上がっているような現場や、盛り上がることを是とする場面で、調子に乗るというのは生理現象みたいなもので、無理に止めるものでもないと思う。尿意に対して、「何、お前、さっきから膀胱におしっこ溜めてんの?」って言うくらいどうかしている気がする。

 芸人になって以降、ありがたいことに「調子に乗るなよ」と冷たく釘をさされたことはない。SNSで見ず知らずの匿名の方から、「お前が芸人について語るな。調子に乗っている」とか何とか言われたことはある。でも、現実世界でそんなことを言う人に出会ったことはない(自分の記憶が正しければ)。

 芸人、ミュージシャン、プロレスラー、体を使って何かをパフォーマンする人たちは、調子に乗ってナンボ。乗りたいけど乗れないときだってある。「今日は調子が上がらない」といった言葉を使いたくなるときだってある。

 だから基本、調子は乗るもの。法定速度を守りながら乗ったらいい。

 先日、Aさんがはしゃいだところ、Bさんから「調子に乗るなよ」と冷たく勧告されるシーンを目撃した。配信ラジオでのワンシーン。いわゆるエンタメ的なコンテンツの中で、わざわざ「降りろ」と切符を切るような真似をBさんはした。

 言われたAさんは、明らかにテンションが下がっていた。気持ちよくドライブをしていたのに、理不尽に制止されたのだから、面白いわけがない。

 こうした取り締まりのような「調子に乗るな」という言葉に、何のメリットがあるのだろうかと思う。たとえば、敬愛する東野幸治さんが、「お前、調子に乗んなよ!」とつっこむときは、そこに大きな笑いが生まれるし、何より愛がある。笑いも愛も何にもない「調子乗んなよ」って、どこに需要があるんだろうか。楽しそうにしている人に対して、わざわざ冷水をかけることができる人って、とても悲しい器量の持ち主だ。

 そういえば、学生時代に「調子に乗るなよ」なんて言ってくる人間は、きまってイキっていた。イキっている人ほど、人の気分を下げる悲しい言葉が好きだったような気がする。

 決して自分よりも目上の人や、力を持つ人に対しては言わない。自分を脅かす、あるいは自分よりも下だと意識している人に対して言いたがる。「調子に乗るな(乗ったら、俺が目立たなくなるだろ)」ってことなんだろう。

 いい大人にもなって、そんな言葉を言えるというのは、嫉妬をはじめとした負の感情があるという証左かもしれない。だから、決して「調子に乗るな」なんて冷や水をかけることなかれ。

 楽しい現場で楽しそうにしている人に、わざわざ水を差す必要なんてない。調子に乗っているって、基本、素敵なことなんだから。ボウリングでストライクを出して盛り上がっている場面で、ストライクを出した人がガッツポースをしたりおちゃらけたり調子に乗っている。そんな祭りみたいな瞬間を前にして、「調子に乗るなよ(目立つなよ)」なんて言い放つのは罰当たりだよ。

 猿まわしになる人って、ある種、猿以下になることができるから猿を気持ちよくまわすことができるのだと思う。調子に乗らせたほうが盛り上がる。盛り上がることを求めている場では、調子に乗った方がいい。「猿よりも俺の方が上だ」なんて内心が見えちゃったら、お客も猿も乗れないよ。

 

『楽しく学ぶ!世界動画ニュース』でeastern youthの話をしたら、神が細部に宿っていた。〈徳井健太の菩薩目線 第168回〉

2023.04.30 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第168回目は、初めてやったことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 私徳井健太が出演させていただいている『楽しく学ぶ!世界動画ニュース』。愛にあふれた素晴らしい番組だと思っています。おべっかなんかじゃない。心の底からそう思うんです。

 3月に放送された回で、「初めてやったことはありますか?」をお題にしたトークコーナーがあった。おなじく番組出演者であるいとうせいこうさんが、ライブシーンなどでおなじみの「騒げー!」というコール&レスポンスを、日本で初めて行った――と話されていた。

 実は、せいこうさんはインド映画の傑作『きっと、うまくいく』の字幕監修を務めたほどで、日本語への造詣がマリアナ海溝くらい深い。日本語ラップを語る上でも欠かすことができない人でもあるから、海外で叫ばれていた「scream!」を、「騒げー!」に和語変換したそうだ。「叫べ」ではなく、「騒げ」に変換するあたりが、海溝よりも深い由縁だろう。

 そんなレベルが違うエピソードの後に、いったい何を話せばいいというのか――。

 あれこれと過去に自分がやったであろう「初めてのこと」を絞り出した結果、人生でもっとも愛していると言っても過言ではないパンドeastern youthにまつわるエピソードがあることを思い出した。

 あれは19歳だったか20歳だったかのとき。NSCに入学するために田舎から上京してきた俺は、赤坂blitzで行われたeastern youthのライブに初めて行った。「夏の日の午後」という歌が始まると、どういうわけか俺は、そのイントロの合間に「オイ! オイ!」と叫んでいた。

 演奏が終わると、eastern youthのボーカル/ギターの吉野寿さんが、「そのオイっていうのやめてくんねーかな」と言ったことを、今でも覚えている。ダサいコールをしていたと、我に返った。

 はずだった。でも、今でも「夏の日の午後」が流れると、集まったファンたちは、そのイントロに合わせて「オイ! オイ!」と叫ぶ。いつの間にか恒例のシーンになっていた。

 番組で、「「夏の日の午後」のコールは自分が初めて言ったと思う」と話してみたものの、果たして本当に自分が最初にその掛け声を行ったのかは定かではない。だから、本放送でこのエピソードが使われるかどうかは籔の中だった。ところが、ふたを開けるとそのエピソードががっつりと使われるどころか、eastern youthのライブ映像まで流れていた。

 eastern youthもレコード会社も許可してくれたってことですか? もう、自分が初めてコールをしたかどうかなんて関係ない。高校卒業時に、お笑いの道に進むか音楽の道に進むか悩んでいた俺は、「圧倒的すぎてeastern youthにはなれない」と思い、お笑いの道を選んだ。

 eastern youthに会ったことはないけれど、その20年後に、バラエティー番組でウソかホントか分からないエピソードを話し、eastern youthの映像が流れた――、それだけで胸がいっぱいになってしまった。とても感動してしまった。

『楽しく学ぶ!世界動画ニュース』のスタッフ陣は、俺と同世代の人が多い。みんな、eastern youthを知っていたらしく、スタッフさんたちもeastern youthの映像を流したかったらしい。なんて愛のあるスタッフなんだろう。

 愛は止まらない。

このエピソードを紹介する際、より分かりやすくということで、俺が「オイ!」と声を上げる姿に、バンドメンバーが戸惑うといったイラストが流れた。

 実は、当初のイラストは、現メンバーの吉野寿さん、田森篤哉さん、村岡ゆかさんが描かれていた。受注したイラストレーターさんは、現在のeastern youthのライブ映像を参考に描いたわけだから、おのずと男性、男性、女性の姿になる。ところが――。

「徳井君が見たのは20年以上昔のことだから、今のメンバーじゃないよね。当時は全員男性のメンバーだったから、このイラストだと違和感があるよね?」

と演出を担うスタッフさんから相談された。イラストレーターさんに書き直してもらうのも申し訳がないということで、最終的に吉野さんだけいかして、ドラムとベースに関しては影で表現するイラストへと微修正されていた。

 神は細部に宿ると言うけれど、この番組のスタッフは宿らせようと頭を使う。汗もかく、足も動かす。それを愛と言わずしてなんと呼べばいいんだろう。素晴らしいスタッフたちに恵まれている。心からそう思うんです。

愛が責任を育てる。WBC栗山監督の手紙を、ひな壇に座るすべての若手芸人が欲している〈徳井健太の菩薩目線 第167回〉

2023.04.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第167回目は、WBCの侍ジャパンについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 人並みでしか野球を見ない私徳井健太も、大いに手に汗握り、夢中になってしまいました。WBC日本代表「侍ジャパン」の皆さま、優勝おめでとうございます。

 大会が終了しても、今なおさまざまなメディアで野球関連のニュースが取り上げられている。あれだけWBCが盛り上がったのだから納得ですよね。

 そんな中、栗山英樹監督が「侍ジャパン」に招集した選手全員に、自筆の手紙を手渡していたというニュースを知った。「あなたを招集したのはこういう理由からです」「あなたを起用したい場面はこういう瞬間です」。選手に寄り添う愛情あふれる栗山監督らしい手紙だったと聞く。

 招集されたものの、試合に出場しない選手もいた。「結局、出番なかったじゃん」なんて軽々しく言葉にするのは簡単だ。だけど、その選手も愛が詰まった手紙をもらっている。きっと、穿つように試合に集中していただろうし、自分が出場する一瞬のために準備していたんだろうなと思う。

 もし仮に、手紙がなければ、選手自身も「どうせ俺は使われないんでしょ」なんて高をくくって、試合に対する集中力だって散漫になっていたかもしれない。すべて俺の妄想だけど、きっとそうだっただろうなって。なぜか?

 バラエティの現場にも、栗山監督からの手紙が届けばいいのに――。そんなことを思ったからだ。

 若手時代、どうして自分がバラエティ番組に呼ばれるのか、いまいち理解できなかった。もちろん、芸人として「その場を盛り上げてほしい」ということなんだろうけど、星の数ほどいる若手芸人の中からどうして自分が選ばれたのか、なぜ限りある出演者の枠に自分がいるのか、わからなかった。考えれば考えるほど「?」になるし、プレッシャーを感じるので、なるべく自発的に考えないようにしていた。

「盛り上げてくださいね」って指示は、先の野球でたとえるなら、「いいプレーをしてくださいね」ということ。それは前提として当たり前。知りたいのは、もう少し深いところ。どうして自分が選ばれたのか、その理由が嘘でもいいから欲しかった。

 「言わせるな。感じろ」ということなんだろうけど、若手からすれば、その一回が最後の一回になるかもしれない。「好き勝手やっていいよ」とざっくり掛けられた言葉を信じて、「好き勝手やった」ことで再起不能になったら、どうするのさ。「感じろ」だけじゃ、もう伝わらない時代です。

 平成ノブシコブシが呼ばれるとき、相方・吉村が呼ばれるのはなんとなくわかる。過去、俺は「そのバーターみたいになっているんじゃないか」とマイナスに感じていたこともあった。でも、嘘でもいいから「徳井を呼んだのはバーターじゃなくて、〇〇に期待しているから」という手紙をもらっていたら、集中力やモチベーションを高くして、現場に臨めていただろうなって。

「今日はアイドルさんが出演するので、スベる可能性があります。そのときに徳井さんが率先してアイドルさんのフォローをしてあげてください」――そんな手紙が届いていたら、アイドルに詳しい俺にしかできない自分の役割、求められているシーンは明確になる。アイドルがスベったら、 俺は1塁ベースからホームにサヨナラ帰還した周東佑京選手のように、その瞬間のためだけに、全身全霊をかけさせていただく。

 ひな壇に座っている若手芸人は手紙がほしいと思う。

 バラエティだけに言えることじゃなくて、社会そのものにも言えるのではないでしょうか。チームプレーを必要とするような作業や環境においては、指揮を振るうディレクター的ポジションは、それが手紙か何かはわからないけど、栗山監督的なメッセージを伝えた方が、間違いなく円滑に物事が進んでいくような気がする。やっぱり「愛」なんだと思う。しゃらくさいけど愛があるかどうか。

 子どもの頃、よくわからないまま「〇〇係」 というものを任されていた。なんとなくクラスで決めたことだから、そこに責任感なんてありません。ましてや子ども。だけど――。

 もしも、栗山監督から「徳井君はきっちりと物事を守ることができる子だから、クラスの電気を点けたり消したりすることが得意だと思う。君の誠実さが、教室のルクスを決めるんだ。君はでんき係の才能がある」と手紙を受け取ったら、俺は誰よりも率先して電気のオンオフをしていたと思う。

 責任は愛が育てるものなんだよね。責任のない現場は、愛がないってことなんです。

ヤングケアラーの問題とどう向き合えばいいのか考えてみた〈徳井健太の菩薩目線 第166回〉

2023.04.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第166回目は、ヤングケアラーの解決案について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 前回(「2023山梨コネクトヤングケアラーLIVE」)の話には、ちょっと続きがあって、今回はその点に触れようと思う。

 終盤に差し掛かるころ、「ヤングケアラーの問題に解決策はあるか」といった内容に話が及んだ。

 俺は二つしかないと思っている。

 まず一つが、ヤングケアラーという言葉を流行らせるということ。流行らせるというと語弊があるかもしれないけど、この言葉が一般化しない限り、ヤングケアラーの実情は伝わらない。となれば、理解する人も増えやしない。

 たとえば、「しつけ」という言葉は昔からあったけど、“虐待”や“ネグレクト”という言葉が浸透したことで、簡単に「しつけ」の一言で終わらせることがなくなったと思う。親は「しつけ」というけれど、はたから見れば「虐待」に見える。同様に、「あれってもしかしたらヤングケアラーなんじゃない?」、そんな言葉や感覚が定着するようになれば、取り巻く環境は変わってくるんじゃないのかな。

 もう一つ。それは、ヤングケアラーの当事者に対して、最低3回は土足で心の中に踏み入ってくるような人、ざっくりいえば理解者、支援者が増えてこないと厳しいのではないか。

 俺は、高校3年間、妹を養わなければいけないため、朝から新聞配達をしていた。学校に顔を出すのはいつも昼から。学校側には一切そういった理由は話さず、許可も取らずに昼から出席していたけど、どういうわけか何のお咎めもなかった。もしかしたら先生たちは、徳井家の事情を知っていたのかもしれない。でも、どんな形であれ放置に変わりはない。

 今でも思う。そんな異常な出席を繰り返す俺に、どうして先生たちは誰一人として話を聞いてこなかったのかなって。もしも、ちょっと踏み込んで、「徳井、どうして新聞配達をしなきゃいけないのか?」「なんでいつも昼からなんだ」と聞かれたら、おそらく俺は「余計なお世話だよ」、そう跳ね返していたと思うけど、万が一、「たった一度の高校生活だぞ。もっと相談できないか?」なんて何度もノックされたら、心が0.1ミリくらいは動いていたかもしれない。 

 ヤングケアラーは、自分の境遇が大変だとは思ってはいない。そんなことを考える余白はなくて、心を殺しているから楽観もしなければ悲観もしない。あのとき話を聞いてほしかったって話じゃない。無の心を持ってしまったヤングケアラーに対して、土足で3回は心に侵入してくるような厚かましさがないと、心が息を吹き返さないということ。ヤングケアラーにとって、その厚かましさはやさしさになる……と想像してみる。

 解決策というほど効き目はないかもしれない。ただ、当事者だった俺なりに再考すると、ヤングケアラーへの処方箋は以上のようなことになる。

 厚かましいお願いだろうけど、その上で、物事を優劣で考える人が減ればいいなぁとも思う。

 世の中には、自分にはできて他人にはできないことがたくさんある。些細なことであっても、端から見れば「なんでそんなことができないんだ」って思うこともある。でも、それって絶対に自分は間違ってないと思い込んでいることでもある。その根底にあるのは、優劣で人やモノを判断してしまうから、そういった印象を抱いてしまうのではないでしょうか。

「そんなこともできない」のかもしれないけど、その人は「もしかしたら自分にはできないもっとすごいこと」はできるかもしれない。できないというのは、劣っているのではなくて、たまたまその人にとっては不得手なことにすぎないだけで、 一つの個性かもしれない。優劣で考えてしてしまう人は、実は自分が「劣」であるかもしれないということを、認識した方がいいんじゃないのって。

 かつての自分もそう感じていた一人だった。きちんとやれば普通にできるのに、「なんでそんな簡単なこともできないんだ」ってすぐに心の中でつぶやいてしまう人間。だけど、人の気持ちを考えることができない劣な人間だったんだなと顧みる。

 こうした認識が広まったとしても、すべてのヤングケアラーが救われることはない。やっぱり世の中は綺麗事だけでは回らないから。ただ、人は人に生かされて生きていく。そんな言葉を自分に言い聞かせていきたいなと考える。だって、もしかしたらヤングケアラーが加害者側に立っているかもしれないじゃない。自分の目に入らなかっただけで自分の振る舞いが人を傷つけているかもしれない。どっちが優で、どっちが劣か。そんなことは生きていく上で、たいして重要じゃないんだよね。

山梨コネクトヤングケアラーLIVEに参加して。心を殺していた10代の自分を振り返って。〈徳井健太の菩薩目線 第165回〉

2023.03.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第165回目は、「2023山梨コネクトヤングケアラーLIVE」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

「2023山梨コネクトヤングケアラーLIVE」に参加させていただいた。

 現在、山梨県では県民一丸となってヤングケアラーとその家族を支えていくため、「気づいてつながろう山梨コネクトヤングケアラー」をキャッチフレーズにさまざまな取組みを進めているそうだ。

 その一環として、去る2月に行われた前述のイベントに登壇し、自分の過去の体験や心境をいろいろとお話させていただいた。その模様は、3月31日までこちら(https://www.pref.yamanashi.jp/kodomo-fukushi/yc/connectyoungcarerlive2023.html)で視聴することができるそうなので、もしよろしければご視聴いただけると幸いです。

 イベントは、パネルディスカッションのような形式で行われ、 一般社団法人ヤングケアラー協会代表理事の方、山梨学院短期大学保育科の特任教授の先生、世間知らズ(いしいそうたろうが山梨県の住みます芸人)など、さまざまな立場からヤングケアラーを考えるというものだった。参加して感じたことは、あらためて自分の経験はかなりハードなものだったのではないか――ということ。

 ヤングケアラーといっても十人十色だ。自分のヤングケアラー体験を回想すると、母親の愛というものをまったく受けずに大人になってしまった、という表現がしっくりくる。と言っても、お涙頂戴とか同情してほしいとかそういう話をしたいわけじゃない。シンプルに自分がそんな境遇にいたんだなってことを、今一度客観視できただけのお話。そりゃ35歳ぐらいまで、愛や品とは無縁の人生を歩んできたよなって思う。

 当時の俺は、母親が放棄した家事や仕事をすべて引き受ける最中にいた。当然、妹の面倒を見て、学校へ通わせるという「お金」の問題もクリアしなきゃいけなかった。高校3年間は、新聞配達の仕事をして、学校に顔を出すのは昼過ぎという毎日。

 だけど、自分以外の家庭の事情など知る由もないから、我が家で自分がやっていることは当たり前のことだと思っていたし、一つ一つ淡々とこなしていくしかないから、とてもドライな感覚があり続けた。

 どんなことが起ころうとも、「心を閉ざせばいいだけ」。それが10代の俺のおまじない。今振り返っても、「聞いてください、僕はこんなに大変だったんです」なんて言う気もなければ、耳を傾けてほしいなんてことも思わない。ありのままを話すだけ。

ハライチ・岩井勇気の哲学者のような一言に、思考の「平行線」を感じたあの日。〈徳井健太の菩薩目線 第164回〉

2023.03.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第164回目は、感覚の違いについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ハライチ・岩井勇気がMCを務めるボートレースのラジオがある。ありがたいことに、そこそこの頻度で呼んでくれ、そのたびにラジオでいろいろと岩井と話をさせてもらう。

 岩井とは『ゴッドタン』の腐り芸人同士として轡を並べる仲だけど、必ずしも考えていることが合致するわけではない。勝手に俺は仲が良いとは思っているけれど、考え方が合う・合わないは別腹だ。

 ラジオでは、美術の話になった。俺も岩井も美術館に足を運ぶことが好き、この点では一致した。だけど――。

 つい先日、俺は「エゴン・シーレ展」を観に行った。その作家のバックグラウンドや頭の中というものをなんとか理解しつつ、その上で各作品を素人なりに咀嚼する。

 エゴン・シーレは、裸の少女を含め女の子の絵をたくさん描き残している。彼は、 未成年少女(14歳)と一晩を明かしてしまい、誘惑や淫行の疑いで逮捕されるという背景を持つ。

 そういったことを考えると、彼は性的な目を持ちながら筆を握っていたのかななんて考えてしまう。エゴン・シーレは何を思って、少女の絵を描き続けていたのだろうかと夢想する。

 そのことを岩井に伝えると、「そういうのは要らないんですよ」という。岩井は油絵を描くから美術に関しては一家言を持っている。彼が言うには、その絵が死に瀕した作品だろうがなんだろうが関係ない。絵は絵であると主張する。

 バックボーンを考えてしまう俺は釈然としない。

「だったらM-1で考えよう。たとえば、ラストイヤーのコンビの漫才のネタと、まだまだチャンスのある2~3年目の漫才では、気持ちの入り方が違うだろ。背景は重要でしょ」

 と反論すると、岩井は「そんなのは関係ない。ネタはおもしろい方が勝つべきだと思う」と譲らない。このままでは平行線になると分かったから、その話はやめたけれど、今もずっと喉に刺さった小骨のように気になって仕方ない。

 多分どっちも正解だと思う。どっちも間違っていない。目玉焼きに醤油をかけるか、ソースをかけるか、一生相いれないのと一緒。

 豪打でとどろかせた往年の名選手が引退試合を迎える。その最後の打席、ピッチャーは礼節を重んじ、全球ストレート勝負でバッターへと投げ込む。こうしたシーンに胸が熱くなる人もいれば、ペナントレースの一試合であることに変わりはないのだから、「真剣勝負をするべきだ」と主張する人もいる。

 子どもの頃から世話になった大好きな婆ちゃんが作ってくれた肉じゃが。その肉じゃがが、まったく同じ味でコンビニ商品として再現されていた――。「コンビニでいいじゃん」なんて言われたら、俺は「味の話をしているんじゃない。大好きだったおばあちゃんが作ってくれた。そこに意味があるんだ」と泣いてしまうに違いない。

 こんな二人を絶対にめぐり逢わせちゃいけない。

 昔、岩井と人が死ぬときの話をしたことがあった。『ゴッドタン』の収録の合間だったと思う。話は、子どもや奥さんに財産を残したいかという点に及んだ。

 残すことは当たり前だと思う俺に対し、岩井は哲学者みたいなことを言い始めた。

「自分が死んだ後の世界ってなくなるじゃないですか。60億人みんながみんな、自分の映画を見ている感覚だと思う。死ぬということは、その自分の映画が終わるだけ。俺が死んでしまったら徳井さんがいたかどうかは証明できないんですよ。残さなくていい」

「いやいや、それはおかしいだろう。お前にも親がいて、子どもができるときが来るかもしれない。そうすると子どもの人生を考えるだろ?」

「でも、その確証は持てないですよね?」

 めぐり合っちゃいけないのにめぐり合ってしまった。気がつくと板倉さんが、「お前らの言ってることは平行線になるだけだからもうやめろ」と割って入っていた。ありがとう板倉さん。

 以前、そんな話をしたことを、岩井と美術館の話をしながら思い出していた。久しぶりにまためぐり合ったら、やっぱり何も変わっていない、お互いに。

 岩井の考え方が、わからないでもない。

 ドラマを見ていて、そのシーンに脚本家がどんな思いを込めて書いたかなんて、観ている視聴者は想像しない。そう考えれば、絵もまた同じかもしれない。作家の思いなんて、想像しただけ無駄かもしれない。

 だったら、これはどうだろう。やっとの思いで自分の足で登頂した富士山、その山頂で食べるカップラーメンは、いつもと変わらないカップラーメンの味がするんだろうか?  

 そんなことをグルグルグルグルと考えている。「意味ないからやめた方が良いですよ」、そう嗤う岩井の声が聞こえてくる。

変わらないから「安心感」が生まれる。マンネリは美しくて尊い。〈徳井健太の菩薩目線 第163回〉

2023.03.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第163回目は、マンネリについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 マンネリは不変――。

 先日、『水曜日のおじさんたち』(ニコニコチャンネル)にゲスト出演させていただいた。同番組は、『水曜どうでしょう』ディレクターの藤村忠寿さんと嬉野雅道さんによる台本なしのフリートーク番組。前半部分に関しては、無料で視聴できるので、是非ともご覧になっていただけたら幸いです。

 話はもちろん『水曜どうでしょう』に及んだ。番組を作る上でもっとも大事にしていることは、「マンネリ化すること」だと話されていた。

 思わず俺は、「どういうことですか?」と聞いた。

 今まで長く続いてきた番組は、水戸黄門にしろ、男はつらいよにしろ、徹子の部屋にしろ、すべてマンネリ化していて必ずフォーマット化が決まっている、と。

 だから、「最初からマンネリ化する番組を作りたいと思っていた」と水曜日のおじさんたちは教えてくれた。若い時代は破壊衝動があると思う。テレビ業界も幾度となく新しい試みをしてきた。だけど、マンネリ化するのは「続いている(=人気がある)」ことが大前提で、いずれ「不変」へと昇華する可能性を秘めている。

 ああ、これって俺たち芸人にも言えることだなと感じた。 

 芸人は飽きられることを恐れるあまり、新しい自分を見せようと、良くも悪くも努力する。でも、必ずしもそれが良い方向に作用するとは限らなくて、ときにフォームを崩し、自分を見失ってしまう。全部壊れていく。

 最初から変わらないものを目指す。目からウロコだ。

 人間って何か新しいことをしたがるし、新しい刺激を求め続ける。当の本人は、新しいことにチャレンジしたことで満たされるものがあるかもしれない。だけど、その周りにいる人や見守っている人はどうだろう?

 水戸黄門は必ず勧善懲悪のストーリーで、必ず最後に印籠を出し、悪党を懲らしめて一件落着する。このフォーマットがあるから、必ずその時間帯はTBSにチャンネルを合わせる人たちが大勢いた 。マンネリって、変わらないからこそ安心感を与えることができる。ハズレを引かせない。

 若いころなら、いろいろな新しいチャレンジに対して、その結果を反芻できるだけの時間も体力もあるかもしれない。でも、歳を取ると、なかなかしんどい。

 ということは、ある程度の年齢になると、「刺激なんていらないよ」。そう言ってもらえるものも作り出さなきゃいけないんじゃないのか――なんて自問自答した。

 ミュージシャンにしたって、今でもトップアーティストに君臨している多くが、昔も今もさほど変わらない音楽を続けている人たちだ。それってアーティストが同じ路線の音楽をやり続けているということに加えて、そのファンも変な刺激を求めていないってことでもある。その信頼関係って愛おしい。 

「週刊少年ジャンプ」にしても、努力・友情・勝利という三大原則が根底にある。ずっと変わらない。なのに、『鬼滅の刃』のようなメガヒットが生まれる。変わらないから信頼が生まれる。新機軸とか新たなチャレンジとか言い出したら、それはもう危険信号なのかもしれない。

 では、自分の身に置き換えて、これから徳井健太は変わらないままで居続けることができるのか? と問われるとすごく難しい。変わらないっていうことはものすごく勇気がいる。変わることも変わらないことも勇気がともなう。

 自分に求められている役割だってあるだろう。俺の仕事は、半分ぐらいが裏方的なポジションを担うもので、業界的にもそういう役割を期待していると思う(自分自身も楽しんでいるけれど)。自分が自分に思っているキャラクター性と大きな乖離はないから、「嘘はついてない」。そういう意味では自然に仕事ができていて充実感もある。でも、ロケの仕事だって増えてほしいし、そうなるとまた違う自分のキャラクターが誕生しそうで、「変わらない」なんてこととは無縁のようにも思う。

 あのときの加藤(浩次)さんの言葉がよみがえる。

 パンサーの向井(慧)が、「MCをやるとき、クイズ番組の答える側になるとき、ロケ行くとき、ドッキリを受けるとき、全部キャラが違うんです。どうしたらいいですか?」と相談したら、

「お前恋人といるとき、家族といるとき、友だちといるとき、後輩・先輩といるとき、全部顔違うだろ? 同じヤツって嘘ついてるだけだよな。だから違うくてもいいんだよ」

 狂犬の言葉は、いつだってビリビリ、心に響いてくる。きっと無理やり変えてしまうから良くないんだろう。あくまで自然に切り替えられるようになったら、「変わらないまま、変わること」ができるんだろうな。マンネリ化する自分を楽しんでいきたい。

活気って愛なんだ。センスよりも活気を意識してみませんか?〈徳井健太の菩薩目線 第162回〉

2023.02.28 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第162回目は、活気について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 仕事で福岡へ行く機会があったので、“鉄板焼肉”というソウルフードを初めて食べてみた。その名の通り、鉄板の上で焼かれた肉とキャベツとニンニクが、これでもかというほどジュージューと音を立てている。

 これをそのまま食べても十分おいしいんだけど、“鉄板焼肉”の食べ方には流儀があるらしい。まず、鉄板の端っこに専用の木の棒を置き、傾斜を作り出す。すると、傾いた鉄板を流れるように、肉やキャベツの旨汁が鉄板の谷へと流れていく。そこに特製の辛味噌を溶いて、そのタレとともに肉やキャベツを食べるという具合だ。

 お世辞抜きで、マジでうまい。昭和の佇まいを残すその店は、のれんをくぐることに少しの勇気がいるけれど、異様な熱気に包まれ、次々とお客さんが押し寄せる。地元でも有名な超人気店だった。

「お味噌汁は何杯でも無料なんで召し上がりください~」

 そんな言葉にすら活気がまとっている。いや、活気だらけなんだ。スタッフであるおばちゃんたちは、方々のお客さんに対して、「おいしい!?」とか「味噌汁飲んでね!」なんて声をかけ、まるでお客さんを鼓舞するかのように立ち居振る舞う。ワールドカップで見たアルゼンチンのロッカールームみたいだ。

 うまいし安いし優しい。その多幸感を生み出しているのは、この店の活気に他ならない。

 お笑いをやってきて、活気というものをあまり大事にしてこなかったように思う。そもそも、平成ノブシコブシでいえば、相方である吉村が活気担当みたいなところがあるから、自ら活気を意識するということがなかった。

 でも、この地元から愛される人気店を体感して、活気ってあるにこしたことがないんだなと痛感した。お客さんに楽しんでもらうための明るさや声の大きさ、元気さって、実はそれだけでお金を出す価値がある。

 あいさつも同じだ。「こんちわー」ではなくて、「こんにちは!」と声をかけた方が気持ちがいい。自分にそれができているかと問われると、なかなか自信を持てないけれど、そういう意識が頭の片隅にあることが大事なような気がする。

 たとえば、ロケ番組。「すいません……今ロケをやってるんですけど」と断りから入ってしまうのと、「こんにちは! 今、テレビで〇〇をやってるんですけど、お話いいですか!?」では、その後のリアクションがまったく変わってくる。

 断りから入ってしまうと相手は身構えてしまう。でも、後者のようにこちらから飛び込むように活気を伝えると会話のキャッチボールが成立しやすくなる。すべては活気次第なんだ。

 ちょっと想像してみる。ものすごく活気にあふれたお祭りに遭遇したら、なんだか楽しくなって、財布の紐も緩みそうじゃないか。でも、何やら儀式めいた厳かなお祭りだと、萎縮してしまって、楽しもうなんて気持ちにはなれない。

 活気って愛だ。だから、どんなお店にも、どんなジャンルにもあった方がいい。でも、ただ単に声を出して盛り上げればいいって意味ではない。活気と喧騒は別物。静かなスペースでも、たくさんお客さんがいて独自の楽しみ方をしていれば、言葉として矛盾しているかもしれないけど静かな活気を感じる。

 年齢を重ねてくると、結局、センスよりも活気が大事なんだなっていうことがわかってくる。年を取るからこそ活気が必要だ。若い頃は、自分のセンスを見てくださいよ――なんて気持ちもあって、活気の部分に対して斜に構えてしまったり、おざなりにしてしまったりすると思うけど、活気って愛なんだからあった方がいい。

「あいつは元気しか取り柄がない」と言われている人が、なんだかんだで仕事でそれなりに結果を残しているのは、そういうことなんだろう。「なんであんなセンスのない奴が」と釈然としない気持ちになるかもしれない。だけど、活気に勝るものはない。ほんの少し活気を自分の中に宿してみるだけで、現状って変わってくるものだと思う。

 定期的に自分の中に活気を取り入れていこうじゃありませんか。活気を宿すためには、活気のある場所へ足を運んでみるのが手っ取り早い。 飲食店に行くにしても、イベントに出かけるにしても、活気があるという視点で選んでみると、きっと発見がある。

「ほどほどに」とか「ちょうどいい」とか、そういうことがわかってくると、快適な時間って増える〈徳井健太の菩薩目線 第161回〉

2023.02.20 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第161回目は、満腹について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

“まんぷく”という感覚がよくわからなかった。

 奥さんは、「まんぷくと睡眠不足と金欠は恐怖だ」という。

 私徳井健太は、メシというのは DEAD OR ALIVEだと思っている。「美味いか不味いか」という話ではない。ゼロか100。「空腹」か(これ以上食べられないというくらいまで)「腹に詰め込む」かという意味での DEAD OR ALIVE。「腹八分」という意味がまったく理解できなかった。そういう発想がないのだ。まだ食べられるのに、箸を置くということを考えたことがなかった。

 だから、食わないことも平気だ。水分さえ摂取できれば、丸1日、何も食べなくても我慢できる。その代わり食べるときはたらふく食べる。

 飲食店に行けば、片っ端から食べたいものを頼んで、「もう食えない」ってところまで食べ続ける。バイキングへ行けば、下見もせずに食べたいものが目の前に現れたら、配置など考えずにどんどんと乗せていく。鍋を食べれば、食べたいか否かの感情なんかないまま、とりあえず最後は〆の麺を注文していた。そういうものだと思っていた。

 なんでそうなったんだろう。

 少し考えてみると、ヤングケアラー時代にあまりメシを食うことができなかったから、メシがあるときにたらふく腹に詰め込んでおく――そんな行動が頭にも体にもこびりついてしまったのかもしれない。一度癖になったものは死ぬまでつきまとう。よほどのことがない限り、修正したり改善したりすることはない。 

 つい先日、まんぷくが3大恐怖の一つである奥さんから、「あんまり言いたくないんだけど、私は食べるのが嫌なんだ」と言われた。考えたことがなかった。宗教に入信しているのに「神様なんかいない」――。そう告げられるような一言だった。

 ゆっくり食べてみて、自分がどれぐらいでお腹がいっぱいになるのかやってみた。

 驚いた。今まで食べていた半分ぐらいで、お腹がいっぱいになるじゃないか。それどころか食事の後にだるくならず、快適な時間を過ごすことができた。体重だって落ちてきた。新しい神様を見つけた気分だった。

 今まで自分がメシを食った後に出てくる感想といえば、「もう無理」とか「苦しい」ばかりだった。食べる前はあんなに楽しみにしていたのに、食べた後はいつも苦しみに変わっている。A5ランクの牛のように、食わされるが如く食べていた。いつか出荷されると思っていたのかもしれない。 

 ゆっくり食べるようになって一か月くらいが経っただろうか。居酒屋へ行くと、すっかり2~3品からスタートすることが定着化してきた。それらを完食すると、自分たちの腹と相談しながら何を食べたいか吟味して、追加注文をするようになった。メシから食事へ。“〆の〇〇”の意味もようやくわかってきた。どうしてわざわざ「〆る」なんて言葉を使っていたのか不思議だったけど、 42年間生きてきて、初めて「ああ、〆るってこういうことか」と理解できた。ご飯を食べるって、こんなに楽しいことだったんだね。

 ゼロか100 か。無意識で極端な選択を取る40年だったと思う。

 昔、相方である吉村から「何のネタをやるかは徳井が決めてね」と言われたことがあった。任せられた気分になった俺はうれしかった。1日3ステージあるような現場では、自分たちのモチベーションが下がらないように、いつもあれこれ入れ替えてネタを選んでいた。

 3年間ぐらい続いたある日、吉村が「疲れたから今日は鶴でいいでしょ」と言ってきた。それを聞いた俺は、ネタ選びに関して考えることをやめた。決めてねって言ったのに。以来、俺たちは鶴しかやらなくなった。  

 今だったらこう思える。極端な選択は、相談すればすべて解決できただけの話じゃないかと。相談を放棄してきた人生。だから、「ちょうどいい」がわからなかった。

「ほどほどに」とか「ちょうどいい」とか、そういうことがわかってくると、快適な時間が増える。ご飯をゆっくりと噛みしめながら食べるだけで、「ちょうどいい」がわかる。つまりそれって、あらゆることにも言えることなんじゃないか。ゆっくりと噛みしめるようにやってみる。そうすると、きっとすべての「ちょうどいい」がわかってきて、快適な時間が増えるんじゃないだろうか。

「私はこんなことができるんですよ」と何でもかんでも詰め込むと、かえって長所が消えてしまうよね〈徳井健太の菩薩目線 第160回〉

2023.02.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第160回目は、足し算には限度があるという持論について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 近所に、ハンバーガー店がある。オープンしたのは、今から1~2年前だったと思う。新宿区に似つかわしくない、アメリカンな雰囲気が漂う、まるで下北沢にありそうな小洒落た外観が特徴的なお店だ。

 前を通り過ぎると、いつも人がいなかった。ガラガラだ。だからなのか、お店に入る勇気がわかず、近くを通るたびに、中を伺うように通り過ぎるのが、ルーティンになっていた。

 その日は、あまり遠くで昼飯を食べる気になれなかった。ふと頭に思い浮かんだのが、くだんのハンバーガー店だ。意を決して、というほど大げさじゃないけれど、これも縁だと思い、いつも中の様子をうかがうだけだったお店に飛び込んでみることにした。

 ドアを開けようとしたその瞬間、「キッズルームあります」という張り紙があることに気が付いた。何度も通り過ぎていたのに、まるで気が付かなかった。中に入ると、二段ベッドが置かれた子ども部屋のようなスペースが設けられていて、その店で働いているだろうスタッフさんの子どもさんと思しき小学生が遊んでいた。

「へぇ~こんな場所があったんだ」。

 このあたりは集合住宅も多く、家族連れも多い。飲食店にこういったスペースがあるなら、きっと子育て世代にとっては重宝するに違いない。なのに、ガラガラなのはどういうことなんだろう?

 ああ、きっとご飯が美味しくないんだ。入店し、すでにお店の看板らしきハンバーガーを注文していた自分にとって、いまさらそんな推理をしたところで意味なんかない。これから無慈悲に登場するハンバーガーを食べるしかないのである。

 実刑を言い渡された被告人のような気持ちで、目の前に置かれたハンバーガーにガブリとかぶりつく。ところが……。

 これが見事に美味い。「大変おいしゅうございました」、そんな多幸感に抱かれながら食べ終わると、「だったらなんでガラガラなんだ」。放置してた疑問が、鎌首をもたげてきた。

 きっとご飯が美味しくないんだろう。そんな不信感が脳のリソースを支配していたからか、よく見りゃこの店内、情報量が多すぎる。多すぎるんだ。

 延々と画面から流れている映像は、映画『セブン』を思わせる猟奇的なドラマだし、壁には手描きでジョーカーやらお尻を出した女性が描かれている。アメリカンな照明が怪しさを増幅させ、その空間にキッズルームが同居する。こりゃ、ヤバい。間違い探しのような内観になっている。

 食べたら美味しいハンバーガーと家族連れに優しいキッズルーム併設のお店。なのに、自分の趣味嗜好をまぶしすぎてしまったがゆえに、何を売りにしているのか見えなくなってしまったお店。大食いチャレンジメニューでもないのに、ドカ盛りしすぎて、食欲が失せてしまうどんぶりってあるよね。

 もしも、このお店が家族連れでも来店しやすいようなシンプルな内装にして、「お子さんがいらっしゃる方でも安心して食事ができます」と貼ってあったら、かなり印象は変わると思う。「キッズルームあります」だと、なんだか「冷やし中華始めました」みたいだし。

 素晴らしい武器を持っているのに、魅せ方を間違うとエラいことになってしまう。このハンバーガー店を見ていると、つくづく足し算をしすぎてしまう危うさを痛感してしまう。ハンバーガーが美味しいんだから、味に集中できるようにすればいいのに。なんでジョーカー。なんで猟奇的な映像を流すのさ。

 若手芸人にも似たようなことが起こる。「俺はこんなことができるんですよ」と何でもかんでも詰め込んで、結果、グダグダになってしまうケース。若気の至りだから気持ちはわかる。でも、自分のやりたいことよりも、求められているのは、お客さん目線に基づいた引き算の発想だよね。

 足し算をしすぎてしまう人ってどんな人なんだろうかと、ちょっと考えてみた。振り返ると、相談をしたがる人に、そういう人が多いような気がする。相談することはとても大切なことだと思う。でも、「相談する」と「相談したがる」は、まったく似て非なるもの。後者は、あれもこれも取り入れて、積載量が超過していることに気が付かない。だから沈んでしまう。

「売れたい」。その気持ちを叶えるために、「ネタさえよければいい」と考えがちだ。かつての俺もそんな風に考えていた。だから、ネタの完成度を上げるためにあれもこれもと取り入れる。

 でも、買ってくれる人がいないと、どんなに美味しいものを作っても、売れることはない。見せ方を変えたり、出店する場所を変えたり、どうしたって工夫は欠かせない。今あるものから引いていく。自分の「個」を貫きたいならなおのこと。

 あのハンバーガ店、気が付いてくれたらいいんだけどなぁ。味は美味しかったんだから。帰路につきながら、そんなことをぼんやりと考えていた。ごちそうさまでした。

売れるきっかけになったものは、その芸人の“売り”だと思う。平成ノブシコブシは、ロケをやったほうがいいんだよね。〈徳井健太の菩薩目線 第159回〉

2023.01.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第159回目は、平成ノブシコブシによるロケの意味について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 相方である吉村とロケに行ってきた。二人でロケに行くときは、そのほとんどが俺たち以外の出演者もいる現場だ。だけど、今回は久しぶりに平成ノブシコブシ二人っきりで、一泊二日のロケ仕事。場所は沖縄だ。

 1月28日に放送されたテレビ東京『土曜スペシャル 草刈らせてもらえませんか? 人情ふれあい草刈り旅 いざ絶景島へ』。俺たち二人が、最新の草刈り車に乗り込み雑草の処理に困っている場所を見つけ、人助け(草刈り)をする――。あまり耳にしたこともなければ目にしたこともないロケだと思うので、好きな人にはズドンと心の臓に刺さる番組になっているのではないかと思う。見逃した方は、見逃し配信でも視聴できるので是非。久しぶりの平成ノブシコブシオンリーのロケ、いかがだったでしょうか?

 元来、俺が思っていることの一つに、「売れたきっかけになったものは、その芸人の“売り”のポイント」ということがある。例えば、M―1をきっかけに売れ始めた芸人はずっと漫才をやった方がいいと思うし、キングオブコントできっかけを作った人はコントをやり続けた方がいいと思う。クイズ番組で結果を残せるようになった芸人は、クイズを続けた方がいい……などなど、なんだってオッケーだ。恩人のようなジャンルの仕事は、辞めない方がいいと思っている。

 自分たちのことを、決して売れている芸人だなんて思っていない。

 だけど、世に出るきっかけとなり、芸能界一周旅行をさせてもらえるようになった、俺たちにとっての恩人のような存在は何だったのか? そんなことを考えたとき、世界に点在するさまざまな民族にロケをした『(株)世界衝撃映像社』こそ恩人だと思う。

 この番組があったから、その後『ピカルの定理』のレギュラーに選ばれ、息も絶え絶えではあったけど、いろいろな番組に出させてもらう機会をいただいた。

 あまり自分たちからは口にしたことはないけど、心の中では「平成ノブシコブシは、ロケをやり続けるべきだ」と思っていた。できれば常識にとらわれないようなロケを。

 あれから干支が一周して、俺たち2人も随分と大人になった。そんなタイミングで、たった二人でロケをやらせていただけるという機会は、とても運命めいたものを感じたし、こういった機会を作っていただいたスタッフの皆さんには、感謝しかない。

 時間というのは面白いものだなと、つくづく思う。若い頃は、ロケへ行けば、お互いに衝突することが少なくなかった。でも、今回のロケはお互いにフラットに肩ひじ張らずにできたような気がする。

 それって、どこかお互いが芸人であることを放棄していたからかもしれない。と言っても、責任までは放棄しない。ロケをする中で、一緒に行動を共にする芸人やタレントがいれば、俺たちも芸人という役割をまっとうすると思う。だけど、今回は右を見ても左を見ても吉村しかいない。無理やりボケたり、無理やり目立つ必要はない。 仕事として一生懸命向き合うけれど、変に芸人ゲイニンせず、等身大のおじさん二人で臨めたというのは、歳を重ねたからこその妙技というか。

 過酷なロケだった。でも、懐かしい。『(株)世界衝撃映像社』を思い出すような疲労感を覚えながら、1日目のロケを終え、宿のベッドの上で寝転がった。ふと天井を眺めていると、「吉村とロケしてるんだなあ」なんて感じ入ってしまって、目が冴え、寝れなくなってしまった。明日も早朝からロケだというのに、俺は一体何をやっているんだろう。

「気分転換しよう」。何か曲を聴こうと思って、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』 椎名林檎Verを聴いた。真夜中だというのに、脳からドーパミンがドバドバと分泌されていたからだろうか、『木綿のハンカチーフ』の歌詞が脳天に響いてくる。

『木綿のハンカチーフ』は、地方から都会へと出た男性と地方に残された女性の遠距離恋愛の模様を描いた曲だ。明るい曲調もあって甘酸っぱい青春ソングのように聴こえるけど、よくよく最後まで歌詞を追うと、最終的に男性が別れを切り出すという残酷な歌でもある。一方的に別れを告げられた女性は、最後のわがままとして、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さい……それが、『木綿のハンカチーフ』の物語だ。

 俺たち2人がロケをした場所は、東京から遠く離れた沖縄だった。だからなのか、妙にこの歌詞の中に登場する二人の気持ちに没入できるところがあって、眠りにつくどころか、ますます眠りにつけなくなった。

 昭和の時代は、田舎を捨て、そして好きだった女性を捨てるぐらいの気持ちがなければ東京という世界では戦っていけないんじゃないのか。そんなメッセージが込められているのだとしたら、僕は旅立たなきゃいけない――。真夜中以上、早朝未満のトリップ感。時計を見ると、深夜の3時。明日は、 6時に起きなきゃいけないのに。

 平成ノブシコブシに、そんな覚悟はあったのか。そんな気持ちを持って東京から何百キロも離れた場所で、何を思ったのか。その模様を、是非皆さんに目撃していただきたい。2023年は、平成ノブシコブシのロケが増えたらいいな、なんて思う。増えなかったら、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さいな。

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