鈴木寛の「2020年への篤行録」 第19回 英語が”できない”というあなたへ

2015.04.12 Vol.640
 新年度に入りました。大学キャンパスの桜は散ったものの、サークルの新入生勧誘・歓迎活動がピークに入り、一年のうちでも特ににぎわう時期です。新入生の皆さん、そしてこの春に大学を巣立って社会に出た皆さんの門出に際し、心からお祝い申し上げます。  元旦と並んで4月は目標を打ち立てる時期です。その一つで毎年のように挙げられる定番が語学の習得。先日、あるビジネス誌が「英語特集」を企画するということで、グローバル人材育成を推進する私にも取材の打診がありました。編集部の都合により、後日の取材は別の切り口になったのですが、「英語」はビジネスパーソンのニーズが根強い企画なのだと改めて感じました。NHKの英会話講座のテキストは4月が最も売れるという話を以前聞いたことがありますが、5月、6月と時間が経つたびに脱落者が増えていくのもまた年中行事。「英語が使えない」という日本人の悩みはなかなか解消されません。  実際、データで見ても、TOEICやTOEFL受験者の国別平均点数で日本が「アジアで最下位クラス」と嘆かれる通りの状況です。しかし、所詮は言葉です。日本人の能力が低いから英語が使いこなせないのではなく、語学教育も含め、英語を使いこなすための環境が整っていないのです。日本語よりも英語に言語構造が近いラテン系諸国でさえも同じこと。たとえばイタリアに旅行したことがある方なら、街中で英語を話せる人が少ないことに意外な思いをされたのではないでしょうか。  かくいう私自身も典型的な“受験英語”育ちで学生時代はナマの英語に触れる機会はほとんどなく、会話に自信を持てませんでした。英語の4技能(読む・聞く・話す・書く)のうち、読解に偏重していました。法学部在学中は、政治学の英語の原書を読むことはしていましたが、留学はしませんでした。その後、通産省に入ると、早朝出勤、未明帰宅が続く日々でしたので、英語の勉強時間をまとまって取ることもありませんでした。  しかし1992年、28歳の時にオーストラリアに1年間、赴任することになりました。当初は学生寮のような施設に住んでいましたが、「これではいけない。英語を使えるようになりたい」と一念発起し、今でいうシェアハウスに移り、同国出身の男性と女性(カップルではありません)と計3人で暮らしました。2人と日常的にコミュニケーションを取り続けるだけでなく、ネイティブである2人の会話も聞くことで実際の英語の使い方に慣れていきました。私たちはどうしても完璧な英語を話そうと力んでしまいますが、ネイティブでも日常会話は結構ブロークンです。「あなたは日本人ですか?」を英訳すると、教科書どおりなら主語と動詞の順番を入れ替えて「Are you Japanese?」と話すでしょうが、実際の会話では「You are Japanese?」と語尾を上げるだけでいい、という具合に“発見”があります。  もし、あなたがセンター試験の英語で180点以上も取れているのに、英語が話せないと嘆くのであればそれは「思い込み」です。受験英語をある程度、修得した日本人であれば、難しい論文の読解力は世界的にも高いものだと思います。ただし、「話す・聞く」の訓練は不足しているために、培った知識を引き出し、組み立てるまでの時間がかかってしまいます。私の場合はシェアハウスの生活で、会話の間の取り方、会話のつなぎ方を覚えることで実践的な使い方の基礎を身に付けられました。  語学は、意識して使う環境が無ければ、どの国の人でも身に着かないのです。1986年に社会人になった私より以前の世代は、円安のために学生が海外に行くのは1回がやっとという時代でした。しかし85年のプラザ合意の後の円高で海外旅行や留学に行きやすくなりました。バブル世代の後も円高は続き、慶応SFCや国際教養大学のように英語を使いこなす学部や大学も目覚ましく増えました。最近では、LCC(格安航空会社)の就航で安く海外にも行けますし、インターネットを通じてフィリピン人との会話レッスンをリーズナブルに受けられるなど、学生時代の私から見れば羨ましい環境が整っています。  4年制大学であれば春夏冬の長期休暇が年間に3か月ほどあると思います。1年以上の長期留学は難しくても、すべての休みを短期留学に充てることができたら4年間で12か月分、つまり学生時代の4分の1を海外で過ごすことも理論上は可能になります。独身の社会人の方であれば英語を使う外国人とシェアハウスするのもいいでしょう。私も世界が広がりました。受験英語は無駄ではありません。まずは「習うより慣れろ」の精神でトライしてみてください。 (東大・慶大教授、文部科学大臣補佐官)

鈴木寛の「2020年への篤行録」
第16回 なぜ学ぶのか?「花燃ゆ」の松陰に思いを馳せる

2015.01.11 Vol.634
 あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いします。  若い頃にミュージカル劇団の音楽監督を務めた経験がある割に、普段はテレビドラマをあまり見ないのですが、NHKの大河ドラマだけは政治家時代から時折見てきました。2015年の大河は吉田松陰の妹、杉文を主人公に描いた「花燃ゆ」。松陰の生き様に、私も大きく影響されましたので、今回の作品には格別の思いで楽しみにしていました。  物語の冒頭で松下村塾が出てきましたが、まさにその場所が教育者としての私の原点です。20代の終わりに通産省から山口県庁に出向の折、現地を訪ねました。十畳と八畳半の二間しかない平屋建ての茅葺小屋に五十名もの塾生が学んでいたことにまず私は驚きました。ドラマでは久坂玄端と高杉晋作が「秀吉とナポレオンが戦をしたらどちらが勝ったか?」と議論していましたが、私も小さな畳の空間を眺めながら、ここで若人たちがどんなに白熱した議論をしていたのか思いを馳せました。それまでの私は法律立案や予算編成の仕事をしていて世の中は制度が作るものだと思い込んでいましたが、世の中を変えるのはそうした「制度」ではなく、「人」だということに気付きました。山口には2年ばかりの着任でしたが、その間、私は20回も通いつめては国づくりとしての人づくりを考えました。  ドラマでは、後の松陰こと寅次郎が山鹿流の兵学者のホープとして長崎や江戸に遊学していた時代から始まります。途中、叔父の玉木文之進からスパルタ教育を受け、学者としての基礎を叩きこまれた少年時代が回想シーンとして挿入される等、初回は教育者としての生い立ちをしっかり描いていました。そのため、登場人物の信念をセリフの中に投影し、物語の基礎を固めんとするばかりの骨太な描写が印象的です。とりわけ初回のクライマックスシーン。幕府によって禁書とされた「海防臆測」の所有者に名乗り出るように玉木たちが藩校の学生たちに呼びかけたところで、寅次郎と若き儒学者、小田村伊之助(後の楫取素彦)が禁書を持っていたことを打ち明けつつ、「人はなぜ学ぶのか?」熱弁を振るったシーンには感銘を受けました。 「知識を得るためでも職を得るためでも出世のためでもない。人にものを教えるためでも、人から尊敬されるためでもない。己のためじゃ 己を磨くために人は学ぶんじゃ」。寅次郎がこう言えば、伊之助も「お役に就くためでも、与えられた役割を果たすためでもない。この世の中に己がすべき事を知るために学ぶのです」と同調します。  折しも高校生にとっては受験、大学生にとっては期末試験のシーズン。当面はテスト対策の勉強に専念せざるを得ませんが、落ち着いたところでドラマでも見ながら「自分はなぜ学ぶのか?」と自問自答してみてください。違った視野から学問を考えるきっかけになると思います。 (東大・慶大教授、文部科学省参与)

鈴木寛の「2020年への篤行録」 第15回 世代別選挙区導入の論議を

2014.12.07 Vol.632
「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」。有名なチャーチルの名言ですが、これは第二次世界大戦終結から2年後の1947年の下院演説で語った言葉でした。独裁体制のナチス・ドイツ相手に苦闘し続けた体験、そして冷戦期の始まりでスターリン体制のソ連が新たな脅威になりつつある国際情勢が、こういう皮肉めいた言い方で民主主義を評させたのでしょう。  この言葉の前段には「民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない」。チャーチルは先見性に優れていた政治家です。早くからナチスの脅威を予告し、首相になる前の政権が宥和的な外交政策を取ることについて反対していました。やがてその予測は的中し、国の危機感が高まったところで彼は政権の座に就くわけですが、独裁国家に大戦で勝利した後、今度は民主主義の機能不全をまるで予見していたかのような言葉に彼の達見ぶりを見て取れます。  議会制民主主義は民意を反映した政治を行い、独裁的な権力行使を抑制することにメリットがあるわけですが、現代社会のように社会が複雑化し、有権者の価値観が多様化してくると、その世相を反映したように議論が堂々巡りになり、意思決定が滞る、あるいは自分たちの利益を適格に代弁する代表者がいなくなる、という事態に陥ります。まさに民主主義の弱点です。かつて日本の国会で衆参の多数派が分かれた「ねじれ国会」もそうですし、近年では米国議会が連邦債務の上限引き上げを巡って紛糾し、デフォルト寸前まで至ったのが典型的な事例でしょう。そして今は人種を巡る問題で全国的な暴動に直面しています。  日本でも衆議院が解散し、総選挙が2日からスタートしました。この原稿が掲載される頃には選挙戦は中盤でしょうか。しかし争点が見えづらい選挙と言われ、報道各社の世論調査を見ても解散に納得しない方が6、7割に達します。若者は財政や社会保障制度破たんの可能性を含め、本音の議論を聞きたいのに、各政党は多数派の高齢世代のマーケティングに終始しています。それがまた若者を失望させ選挙から遠ざけてしまう負の連鎖になっています。  地域別で利害を調整する意味で選挙区がありますが、いっそのこと東大の井堀利宏先生が提唱する年代別選挙区の導入により、各世代の利益を代表する議員を送り出すようになれば政治への関心も回帰するかもしれません。ネット投票を自宅で出来るようにするようにもなれば、選挙の風景は一変しそうですが、まだまだ五里霧中です。しかし、この国に彷徨っている時間は無いのですが。。。 (東大・慶大教授、元文部科学副大臣、前参議院議員)

鈴木寛の「2020年への篤行録」 第13回 東京オリンピックのソフトレガシー

2014.10.13 Vol.628
 先日、神戸新聞から「関西で東京オリンピック・パラリンピックについてできることとは?」というテーマのコラムをオファーされました。私は神戸の出身で、その地元紙からのたっての願いということで喜んでお引き受けしました。しかし反面、そういった種類の原稿を書く依頼が来た背景を考えると、2020年東京オリンピック・パラリンピックに期待を寄せる「温度差」「地域差」を感じてしまいました。  どうしても東京との距離が心理的にあるのでしょう。加えて、私も半分は関西人の気質があるので、よく分かるのですが(笑)東京に対する関西独特の対抗意識も影響しているのかもしれません。しかし、改めて言うまでもなく2020年の大会は、東京だけでなく、日本を挙げてのプロジェクトです。都民だけでなく、全国民が一体となった機運が生まれなければ、世界中に大会の熱を伝えることはできません。  心の距離を埋めて、オリンピック・パラリンピックを「自分事」にしてもらうには、どうすればいいのか、私なりに思案しコラムを書いてみました。東京の読者の皆さんが、神戸新聞を読む機会はほとんどないでしょうから、概略を説明しましょう。関西の方々が今一つ乗り気になれない要因として、国際的なスポーツ大会開催の意義を、インフラや経済効果のような「ハードレガシー」でしか位置付けられないような、高度成長期の価値観にとらわれているのではないかと指摘しました。そこで私は、大会がもたらす「ソフトレガシー」にもっと目を向けるように提案しました。ソフトレガシーとはスポーツを通じた社会教育基盤や、心身の健康を保つためのコミュニティのことです。  1964年の東京オリンピックに際し、日本中に誕生したのが日本スポーツ少年団でした。野外活動やレクリエーションを通じて、子どもたちの健全育成をしてきました。あれから半世紀が経ち、Jリーグ創設があって地域の総合型スポーツクラブが各地に誕生し、スポーツ基本法制定による後押しも加わって、スポーツのコミュニティが着々と増えてきました。今度は2020年大会を機に、ライブでリアルタイムに各国選手団の活躍を見ることができますから、そうしたソフトレガシーの基盤はさらに整う流れになります。キャンプ地は、全国1700の自治体どこにでも可能性はあります。2002年のサッカー日韓W杯では、カメルーン代表のキャンプ地となった大分・旧中津江村が話題になりました。 「見る」だけでなく、「する」レガシーもあります。コラムでは関西の事例として、元ラグビー日本代表の平尾誠二さんが理事長を務めるNPO法人「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構」(神戸市)を紹介しました。この法人は名門・神戸製鋼ラグビー部の人材や地域のリソースを総動員して、ラグビーの指導から指導論・人材育成の座学まで幅広い層の人たちに展開しています。  開催地である東京でもソフトレガシーの意義を見落としています。多摩地区ではしばしば「オリンピックの効果が実感できない」という声を聞きますが、キャンプ地に関していえば地方よりも立地条件は恵まれています。選手団との交流は街の歴史に誇るべき出来事になり、触発された子どもたちの視野を大きく広げるきっかけになるのです。 (東大・慶大教授、元文部科学副大臣、前参議院議員)

鈴木寛の「2020年への篤行録」
第11回 大人も夏の自由課題をしてみませんか?

2014.08.18 Vol.624
 子どもたちや学生の夏休みは終盤に入りました。近年、ヤフーの天気情報の検索件数が8月の終わりにかけて急上昇すると聞いたことがあります。小学生や親たちが、サボっていた宿題の絵日記の天気を調べるからだそうです。  昔は、お天気を毎日記入させることが日記を習慣づけるためのインセンティブになっていました。要領のよい子どもは図書館に通って新聞のストックからその日のお天気を調べて帳尻を合わせていましたが、中には絵日記の天気欄に適当に雨と記入する子もいました。そういうときは、新学期になって担任の先生から、クラスみんなの前で「君のおうちだけ雨が降っていたのかな?」と皮肉まじりに叱られて恥をかいてしまうわけですが。そんな場面も、インターネット時代になってもう見られなくなりそうです。  しかし、大学生や社会人のあなたも、宿題を積み残した子どもたちを笑ってはいられません。人生常に勉強です。夏休みは単なる骨休みではなく、ルーティンワークから解放されることで日頃できないことに取り組んだり、思考を巡らせたりできる貴重な時間です。そういうわけで大人たちの中でも、とりわけ学校の先生たちには率先していただきたいのですが、見識をアップデートできていない方が意外に多いようです。  この夏、私立学校で先生方の研修会に招かれてお話する機会か何度かありました。私は、「今教えている子どもたちはこの先70年、80年と生きていかねばならない」「200年ぶりの歴史の大転換が起きている中で彼らがどう生き抜き、自分たちの手で歴史をつくっていけるように教師として何ができるか考えてください」といったお話をしました。講演時は、私が何のお話をしているのか今一つ反応が鈍いようにも思えたのですが、後日、続々と講演の御礼を兼ねたメールが送られてきて、「こういう話は初めて聞いた」「頭をガツンと叩かれた思いだ」といった感想が寄せられました。  こうした先生方は、決まりきった既存のカリキュラムを経験則に基づき、通り一遍で教えていたのかもしれません。しかも講演先はいわゆる進学校の関係者。日頃優秀な生徒を教えているはずの先生方ですら、油断していると日常に意識が埋没し、自己研さんが後回しになってしまうのです。  思い出してもみてください。これをお読みのあなたが中学高校を卒業してからの間だけでも、歴史や物理で一大発見があって教科書の内容が書きかえられることも度々でした。さらに大事なのは、過去の現象がアップデートされるだけでなく、予測不能な未来を生き残るために自分の頭で考える力です。そのためにも歴史や哲学、はては地球、宇宙、生命といった壮大なテーマから不変の真理とは何か、読書を通じて自分に問いかける作業が大切です。プロイセンの宰相ビスマルクが「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と語ったのはまさに至言です。  そういう意味では、進学校で勉強に飽き足らず、社会問題への意識が高い若者たちのほうが行動的です。最近では、高校生でも積極的にプロジェクト・ベースト・ラーニングに取り組んだり、NPO活動を始めたりする生徒も増えました。彼らは知識こそありませんが、感受性が高いので時代の行く末を自分の手でつかもうとしているのです。  来年の夏は、そうした意識の高い若者たちと大人がコラボレーションする場所も作ってみたいと考えています。残り少ない夏休みシーズン、まずは溜めこんだ宿題に追われる小学生を他山の石として、大人のあなたもご自身の自由課題を設定してはいかがでしょうか? (東大・慶大教授、元文部科学副大臣、前参議院議員)

鈴木寛の「2020年への篤行録」
第10回 サッカーW杯にみたメディアの病理

2014.07.21 Vol.622
 サッカーW杯・ブラジル視察から戻ってみて、「サッカーは人生の縮図」というイビチャ・オシム元日本代表監督の言葉を身に染みて感じます。ブラジル視察の感想を東京ヘッドラインの読者向けにメディア論の視点から述べさせていただきます。  本郷にあるサッカー協会のオフィス前に行くと、十数人の男性が暑い中、外にたむろしている光景が目に入ります。サッカー協会を担当するスポーツ紙や一般紙の記者たちです。協会に大きな動きがありそうな時は、ここにテレビカメラのクルーも加わって、「メディアスクラム」が出来ることもあります。彼らは、大仁邦彌会長や、原博実技術委員長ら監督の後任人事のカギを握る幹部の方々がビルに出入りするところを待ち構えています。  そして、「ぶら下がり」といって、例えばビルの前に横づけされた車から関係者限定の室内に移動するまでの間、取り囲んで取材してきます。時にはICレコーダーを突きだし、「人事は決まりましたか?」等と、その場で回答が出るはずもない無意味な質問を繰り返します。スポーツの記者さんたちは割とカジュアルな服装が多く、永田町・霞が関で出くわすスーツ姿の政治部記者とはカルチャーが違うようにも思いますが、やっていることには大差ありません。官房長官の記者会見で、目の前の記者たちが質問もせずにパソコンに一生懸命打ち込んでいる場面をテレビで見たことがありませんか? 以前は永田町くらいかと思いきや、最近は企業の社長会見、スポーツの記者会見の現場にも広がりつつあります。  いまはネットの動画中継もあるので、会見に出てきた人物の発言を書き起こすくらいなら、その現場にいなくても出来る仕事です。記者会見に出席する記者は、利害関係のない第三者、ジャーナリズムの体現者としてのウォッチャーの役回りを担っているはずです。以前の発言と変化やブレが無いのか? ほかの関係者の話していることと矛盾は無いのか? あるいは事実関係に誤りがあるのか? 問題が何も無くても、せっかく現場にいるわけですから臨場感を伝えることだけでも意義があるというものです。残念ながら無心に「キーパンチャー」に徹する記者たちの姿から、思考力は一切感じられません。  これでは当然、まともな分析記事を書ける記者があまり育ちません。日本代表の敗戦総括をせずに、新監督の人事ばかりを報じているだけでは、読者・視聴者に考える材料を提供できません。4年前、ザッケローニさんの就任発表当日には、あるスポーツ紙がザッケローニさん就任を特報し、もう一紙は別の人物を挙げる誤報をしました。発表を先取りすることを「特ダネ」扱いし、本質的な報道をしていない典型的な事例です。  それにしても、本郷の地元住民や近隣の会社関係者がいぶかるような「から騒ぎ」は、代表監督の後任問題が落着するまで続くのでしょうか。日本人がサッカーを本質的・多角的に考えられるようになるには、メディア側の意識改革も必要です。あるいは他業界と同じく、既存のメディアに刺激を与える、新規参入も待ち望まれます。 (東大・慶大教授、日本サッカー協会理事、元文部科学副大臣、前参議院議員)

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