【短期集中連載】〈日本で最も歴史の長いプロ格闘技・シュートボクシング40年史〉第3回 格闘技のイメージを変えたSBのニューカマーたち

 来る11月24日、東京・国立代々木競技場第2体育館で創立40周年記念興行『〜SHOOT BOXING 40th Anniversary〜S-cup×GZT 2025』を行うシュートボクシング。プロ格闘技団体として同じ名前では史上最長となる40年という長い歴史を振り返る。(文・布施鋼治/写真提供・一般社団法人シュートボクシング協会)

シュートボクシング三羽烏の大江慎、平直行、阿部健一(左から)

立ち技格闘家の悪しきイメージをSBの若手選手たちが払拭

 シーザー武志が優勝するホーク級リーグ戦が進む中、フレッシュマンクラスではのちにシュートボクシングのチャンピオンとなる阿部健一、大江慎、平直行、香取義和らニューカマーが続々とデビューした。

 出身も格闘技のベースもバラバラな彼らの第一の共通項はシーザージム所属だったこと。シーザージム生え抜き第1号としては大村勝己が旗揚げ第2戦で、双子の香取兄弟の弟・信和が第3戦ですでにデビューしていた。

 第2の共通項としては、みな外見が“隣のお兄さん”だったことが挙げられる。当時のキックボクシングはいわゆるコワモテ系が多く、髪形はパンチパーマで正装は白いスーツに白いエナメルシューズというパターンが多かった。話せばいい人もいたが、“人は見た目が10割”とする一般大衆からすれば近寄りがたい存在であったことは確かだった。

 そうした立ち技格闘家の悪しきイメージをシュートボクシングの若手は完膚なきまでに払拭してみせた。アベケンのニックネームで知られる阿部は88年4月3日に行われた初めてのシーザー抜きの大会でメインイベンターに抜擢され、2回の延長戦の末、アメリカのキックボクサーをKOで打ち破った。

 のちに国際式ボクサーに転向し、1990年度には全日本ライト級新人王に輝く。その後、無差別級で争われたトーワ杯カラテ・ジャパン・オープンの第1回大会に参戦。体重差が33㎏もあった内田弥(正道会館)との一戦で阿部がKO勝ちを収めた一戦は格闘技史上に残るベストバウトとしても知られている。阿部は他団体でも活躍するシュートボクサーのパイオニアといってもいい。

 現在は地元千葉で健闘塾というグローブ空手の空手塾を主宰。後進の育成に余念がない。9月2日、都内で行われたシュートボクシング40周年記念パーティーにも阿部は元気な姿を見せていた。

 大江は左ミドルキックを武器に16歳4カ月でデビュー。美少年だった大江とは対照的に対戦相手はパンチパーマでヒゲ面というコワモテのルックスだったが、大江はジャーマンスープレックスで投げダウンを奪ったかと思いきや、その後もバックドロップやフロントスープレックスを決め、場内を興奮の坩堝へと誘った。この一戦に感動し、のちに格闘技雑誌の編集者になった者もいる。現在ゴング格闘技で健筆を振るう熊久保英幸氏だ。

 88年5月21日には大津亮一と全日本カーディナル級王座を争い、延長2回に及ぶ激闘の末、判定勝ちを収め第3代王者となった。シーザーも大江の倒しにいく姿勢を高く評価する。
「ある日、箸を持つ大江を見たら左手で持っているの。練習ではずっとオーソドックスだったのにね。大江に“お前、なぜ左構えで(右足を前に出す構え)やらないの?”と聞いたら、以前いたスーパータイガージムでそう教えられたっていうんだよ。すぐにサウスポーに変えさせましたよ」

SB史上初の双子王者・香取兄弟

 その後、UWFインターナショナルに所属しISKA世界フリースタイル世界ライトウェルター級王者に君臨した。私生活では“最後のWWWA王者”中西百恵と結婚。長女の睦月まるは7人組のアイドルグループ『キミと永遠に』として活躍中だ。父である大江も得意のトークを活かしシュートボクシングや女子プロレスの名解説者として名を馳せる。

 格闘兄弟はシュートボクシング史上初の双子王者となり(その後、双子王者となったのは現在の山田ツインズ)、大村は現在、シュートボクシングの審判部長を務める傍らシーザージム新小岩で後進の育成に余念がない。

 振り返ってみれば、ホーク級リーグ戦の出場メンバーはベテランが多かったが、関西在住の高野剛は私生活では高校生で、東京まで自転車で来るようなバイタリティーの持ち主だった。のちにシュートボクシングの初代レディース王者となる藤山照美(大阪)と結婚する鈴木淑成(同)も関西組だったが、格闘技特有の3K(汚い・臭い・きつい)とは程遠い二枚目だった。80年代半ばからシュートボクシングがリードする形で、立ち技格闘家のイメージは変わっていったのだろうか。
(第4回=10月28日掲載に続く)