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シン・ラジオのスマッシュヒット企画「並んだグランプリ」。皆さんは、並んだ話をしたくありませんか?〈徳井健太の菩薩目線 第245回〉

2025.06.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第245回目は、誰かに話したいことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 生きている以上、人間には“誰かに話したいこと”が、必ずあるのだと思う。

 bayfmで毎週月曜日から金曜日の夕方に放送されているラジオの帯番組『シン・ラジオ -ヒューマニスタは、かく語りき-』。火曜の最終週の「週替わりパートナー」として、僕は登場している。

 先日、「並んだグランプリ」と題して、人生で一番並んだときの話を募集した。火曜パーソナリティ(この番組ではヒューマニスタと呼ぶ)を務める鈴木おさむさんが、大阪・関西万博に行くという。きっと並ぶことになるから、リスナーの皆さんの並んだ経験を教えてほしいということで、募集することになったのだ。

 すると、過去一、メールが届いた。『シン・ラジオ』のリスナー年齢層は、思いのほか高い。この日、寄せられたメールも、僕にはピンと来ないようなイベントに並んだというものが多かった。特に、1985年に茨城県つくば市で開催された国際科学技術博覧会、通称「つくば万博」について寄せられるエピソードが多かった。

 このとき、「ポストカプセル郵便」なるものが大きな話題を呼んだらしい。郵政省(当時)が受け付け、16年後の2001年、21世紀の最初の年に配達を約束する――。このポストに投函するために、長蛇の列が出来上がったそうだ。リスナーからのメールには、「彼女と並んでポストに投函したけど、結局別れてしまった」とか「本当に届くのかワクワクして21世紀を待った」とか、一つ一つのエピソードが、とても人間的で輝いていた。

 休憩中、おさむさんと、「どうしてみんな、並んだエピソードをしたがったんだろう」と話した。最近あった出来事や、最近食べた美味しい食べ物。そういった話題は、さほど返信が多くない。ところが、“並んだ話”は信じられないくらい食いつきが良い。きっと理由があるはずなのだ。

 個人的な見解だけど、並んだ話というのはいろんな感情が絡み合っている。並んでまで食べたかったもの、並んでまで手にしたかったもの、並んでまで見たかったもの。それなのに、「大したことがなかった」とか「想像以上に興奮した」とか。並んでいる間は、天国と地獄の間をウロチョロする。気持ちが高揚したり、沈んだり、さまざまな工程を経て、やがて自分の番が回ってくる。だけど、そのことを誰かに伝えることはあまりない。

 僕自身、このコラムでバンクシー展に並んだことを書いたけど、振り返るとそれは、並んでまで見たかったのに、そのときに起きた一部始終に納得がいかなかった……そんなことを誰かに伝えたかった、いや、吐き出したかったのだと思う。誰かに話せる範囲で吐き出したくて仕方のない話が、人には絶対にある。その最たる例が、“並ぶ”という思い出なのかもしれない。

 この日、おさむさん自身も、並んだエピソードを話していた。中学生のとき、卒業旅行でディズニーランドに行ったという。ビックサンダーマウンテンが誕生して1年ほどだったから、皆がお目当てのマシーンに乗るために、長蛇の列をなしたという。おさむさんたちも、その列に並んで、今か今かと楽しみにしていたそうだ。

 2時間ほど並んで、あと少しというところで、何人かのヤンキーたちが口汚い言葉とともに割り込んできた。我が物顔で、ビックサンダーマウンテンに乗り込んだ。

 そのとき、おさむさんはものすごく嫌な気持ちになったそうだ。ずっと楽しみな気持ちを抱えて2時間も並んでいたのに、バカたちのせいでその気持ちが汚されたのだから、想像に難しくない。おさむさんは、割り込まれたこと以上に、ウキウキしていた気持ちが一転して不愉快な気持ちになってしまったことが許せなかったともらしていた。

「あのとき、せめて何か言えばよかった」

 今でも後悔がよぎるそうだ。並んだ記憶は、どうしてこんなに心の深くに根ざしているんだろう。並ぶなんてばかばかしい。だけど、並ばないと手に入れることのできない記憶があることも確かなのだ。

有象無象が混在したあの頃の新宿、花園神社例大祭にはまだあった!〈徳井健太の菩薩目線 第244回〉

2025.06.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第244回目は、花園神社例大祭について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 新宿、花園神社と言えば、11月に行われる酉の市が有名だろう。ただ、昨今は境内摂社に芸能浅間神社があるからか、鳥の市の雰囲気は、なんだかよく分からない“なんちゃって芸能感”をやたらと撒き散らすパリピ的な人が多くて、あまり好きではない。

 花園神社例大祭は、毎年5月28日に最も近い土曜日を中心に、金曜日から月曜日まで4日間開催される。宵宮祭(金曜日18時~)、大祭式 (土曜日11時~)、神輿渡御 (日曜日10時~)、後宴祭 (月曜日18時~)という具合に、大祭と名が付くだけあって、想像以上に大規模なのだ。

 僕たち家族は、大祭式のお昼に行った。ほど良い混雑具合で、祭りに相応しい、活気に溢れているものだった。的屋の種類も多種多様で、令和の大都会新宿で金魚すくいなんかもある。金魚も、なんだか気持ち、ギラついてるように泳いでいると感じるほど、道行く人も金魚もせわしない。ふと視線を右に移すと、くじ引きの景品として、色あせた箱のPlayStationが飾ってあった。

 もちろん、祭りの主役である神輿も登場する。担いでいる人たちの雰囲気は、いま皆さんが想像している通りの人たち。さすが新宿のど真ん中にある花園神社だと、僕は気分が高揚していった。

 かつてこの場所では、「状況劇場」の主宰・唐十郎さんが創始した野外演劇・ 紅テントがあったからだろうか、境内の中だというのに、周辺で飲食店を営んでいるだろうお店が、臨時でテント居酒屋を出店していた。しかも、1軒、2軒じゃない。軒を連ねている。大祭のときにだけ出現する、まるでサーカスのような雰囲気。こんな空間が存在していたことを今も知らなかったことを大いに悔やんだ。そう、新宿に長く暮らしているというのに、僕は初めて大祭に足を運んだのだった。

 僕がもっとも驚いたことが、信じられないほどの喫煙率だ。祭りに関わる人や、出店している人たちのほとんどがタバコを吸いながら作業をしていた。僕は、ここが神社であることを今一度確かめるため、目を凝らして境内をぐるりと見渡してみたが、目に飛び込むのは間違いなく神社の境内であり、それに彩りを灯すように光るタバコの火だった。

 瓶ビールの瓶を受け取ったお姉さんは、くわえタバコで「あぁ、どぃうもゥ」なんてやっている。くわえているからうまくしゃべれない。お互いが聞き取れないだろう会話の応酬を見ていたウチの奥さんは、北九州生まれにもかかわらず、あまりに時代がスリップしている状況に、引いていた。祭りは見ている人を引かせてナンボである。エイサ、ホイサ。

 何か食べようかなぁと思って、臨時居酒屋の前でメニューを眺めていると、「入っていきなよ」とお店の人からすすめられ、僕らはなすがままに店の中に入ることにした。店の中なのか?

 注文を見ていると、会計は後払いだという。こういうときは、だいたいキャッシュオンだと思うので、後払いと聞き、若干の不安がよぎった。でも、我々は祭りの抵触者なのだから、郷に入らなくてはいけない。間違っても、「これ、ぼったくられないか?」などと思ってはいけないのだ。

 僕らは、ビールとメンチカツを頼んだ。メンチカツは(3個)と書いてあったので、家族3人で食べるにはちょうどいい量だと思った。

「ひいよゥ(はいよ)」

 目の前にメンチカツが届き、箸を伸ばし、口に運ぶ。コロッケだった。もう1個食べてみると、それはハムカツだった。メンチカツは1つしかなかった。

 これを詐欺と言うなかれ。祭りである。祭りに日常を求めてはいけない。会計が明朗会計だっただけでも御の字じゃないか。東京のど真ん中にカルチャーショックを体験できる場所がある。なんて素晴らしいことだろう。

 年に1回しか行われない。だけど、確実にそこにある。文化や伝統がどんどん消失していく時代にあって、僕たちの五感を刺激するものが存在する。人を選ぶかもしれない。ただ、僕は来年も行くし、皆さんもぜひ体験してほしい。

天才型は他人にも気を遣え、努力型は他人を慮れない……かもな説〈徳井健太の菩薩目線 第241回〉

2025.05.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第241回目は、オンとオフについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 うまく説明することはできないけど、僕は飲食店の個室を利用したりタクシーに乗ったりすることがあまり好きではない。メシを食べるなら、できるだけ個人経営の雑多なお店に入りたいし、移動も電車の方が好き。「なんで自分はそうなんだろう」なんて考えながら、その日も丸ノ内線に乗っていると、ひらめくように僕なりの答えが降ってきた。

 僕は平均点を満たすものや利便性の高いものに興味がそそられない。その理由は、自分の欠点と関係している。例えばタクシー。めちゃくちゃトークスキルのある芸人であれば、そうした空間でも面白いトークをするだけの材料を集められる才能があると思う。でも、残念ながら僕にはそんなアンテナがないから、タクシーに乗って誰かに伝えたい話があるとしても、せいぜい愚痴の類になってしまう。これではなかなか「笑い」につながらない。

 限られた情報しかない環境を苦手とする僕は、気が付くと雑多でいろんなものがごちゃまぜになっているようなワケのわからない空間や場所を好むようになっていた。ここなら有能なアンテナがなくても、何かしら変なものを拾うことができる。鋭い視点を持ち、なおかつワードセンスに長けた芸人であれば、1を見て1を語ることができるだろうけど、僕は10を見て、1を語れるかどうか。タクシーに10回乗って、ようやく面白い話を1つ生み出せるかどうかの人間だから、情報量が交通渋滞を起こしているくらいの場所じゃないと安心できない。だから利便性が高く、スマートな場所が苦手――そんなことを丸ノ内線に乗りながら考えていた。

 僕は、昔から乗り換えが大好きだった。

 違う路線に乗り換えた瞬間、それまでとは明らかに違う人種が車内を占有している。どうして突然20代前半の若者が増えたのだろうと思っていると、「△△大学駅前」といった駅に停車し、合点がいく。僕が分析好きなのも、こうしたところによるところが大きく、詮索しがいのある空間やお店を好むのも、AとBとCの情報を勝手に集めて、「〇〇だからだ」なんて推論したいからだと思う。結果、少ない情報量から質の高い言説をアウトプットすることが苦手になってしまったのかもしれない。

 ここからは僕の極論を披露したい。

 人間は、この2つのタイプに大きく分けられるのではないか。個室やタクシーといった利便性が高く、機能的な空間が好きな人と、情報まみれとも言える闇鍋のような非利便的な空間が好きな人。そして、それは裏を返せば、前者は周囲に対して気を遣ってしまう人であり、後者はあまり周りを気にせずマイペースな人じゃないのかなって。どうして、個室やタクシーが好きな人が周囲に対して気を遣う人なのか? 

 仮に、気を遣うタイプが居酒屋で飲んでいたとする。そのお店は雑多で個室はない。常連もたくさんいるから、ある瞬間を境に話しかけてきたりする。そうしたとき、そのタイプは周りと波長を合わせようとする。一方、僕のような後者のタイプはいつもの調子と変わらないから、話しかけられてもマイペースにお酒を飲むだけ(話に付き合うかどうかも分からない)。

 気を遣う人は、マイペースにお酒を飲んでいる僕に対しても、「もっと愛想良くしたほうがいいんじゃない」と気を遣うだろうし、話しかけてきた酔客に対しても気を遣うから二重に気を遣うことになる。頭のリソースを多分に使うことになるから、できればそうした空間は避けたいと思うようになっても不思議ではない。

「オンとオフの切り替え」なんて言葉がある。実はこれって、周囲に対して気を遣ってしまう(オン)とタクシーなどのプラベートスペースが約束されている空間を好む(オフ)ってことなんじゃないだろうか。オンとオフがないって人は、僕のように雑多な空間に苦手意識がなく、気を遣わない人。こう考えると、僕が急にかしこまった空間のように感じるタクシーが苦手な理由も分かる。強制的にオフ世界に閉じ込められて、何をしていいか分からないのだ。

“感覚情報のゲーティング”と呼ばれる、情報の取捨選択を自動的に見分けてフィルタリングする脳の働きがあるらしい。雑音が多い場所では、それだけ多くの情報を脳が処理していると言われ、このとき必要か必要じゃないかを脳が選別するという。数多く意識に入ってくるということは、それだけ多くの情報を脳が処理しているから、人によってはめちゃくちゃ疲れてしまう。これがストレスになるかならないか……が、オンとオフの正体なのではないか。オフを求める人は、タクシーだったり、個室だったり、自分の精神衛生を考慮して、定期的にそういう場所を求めているのではないのかなって。求めていない僕は、無理やりオフ的な環境を作られるほうが、ストレスになるのだろう。

 利便的な空間が好きな人って、実は誰よりも気遣いの人なのかもしれない。あくまで極論。これも、僕なりの雑多な環境から拾い集めてきた推論。軽い気持ちで受け止めてやってください。

世は諸行無常、無力な自分を恨むたびに、バットマンの登場を待つ!【徳井健太の菩薩目線 第228回】

2024.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第228回目は、ぶつかり男について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 少し前に、駅構内などでぶつかってくるおじさん、通称「ぶつかり男」が話題になった。ぶつかり男は、主に女性に対して意図的にぶつかってくるわけだけど、先日それに近い体験に遭遇した。

 家から少し離れた歩道を歩いてたときのこと。その歩道は、大人3人が横並びで歩けるか歩けないかくらいの狭さ。車道は車の往来が激しく、とてもじゃないけど歩けない。荷物を抱えていた僕は、自転車を降り、押しながら歩いていた。横に広がる荷物を見て、「邪魔になったら申し訳ないな」と思いつつ、目的の場所へと向かっていた。

 すると、向こうから革ジャンを着た男性が歩いてきた。狭いとはいえ、通れないことはない。お互い立ち止まることなくすれ違う。その瞬間、自転車を押す僕の拳に何かが当たった。

「痛ッ」

 声には出さなかったけど、心の中で漏れるくらいの痛さ。ささいな痛さと言えばそれまで。でも、嫌~な違和感。「なんだろう」と思ったときには、すでに10メートルほど離れていたから何かを言うことはできなかったけど、どうやらその革ジャン男は、手に持っていたペットボトルを意図的に僕の拳にぶつけたようだった。

 彼は、ペットボトルを逆手で持っていた。手首をひねれば、向かってくる相手に対していつでもペットボトルを当てられる――まるでそれは、「たまたま当たってしまったんですよ」とでも言える逃げ口を準備しているかのようなペットボトルの持ち方だった。

 最初は、「どういうこと?」なんて疑問ばかりが浮かんできたけど、一分もすると段々と腹が立ってきて、二分後にはやり場のない怒りが頂点に達し、ムカついて仕方がなかった。僕が邪魔だったとしても、そんなことをする必要がどこにある? しかも、「たまたまですよ」と逃げられるような当て方。その姑息かつ用意周到な嫌がらせに、額の血管は千切れそうだった。

 探そう。

 荷物をしかるべき場所へ届けた僕は、革ジャン男が消えていった方向へと自転車を走らせた。街を塗りつぶすように執拗に探し回った。警察に突き出したかった。何かを立証できるわけじゃないけど、姑息な革ジャン男に後悔させたかったのだと思う。

 だけど、見つからない。分かっていたことだけど、一度街に紛れ込んだら、再度出会うことは難しい。不審者だったら見つけられるのでは? そう考えたものの、そもそもあんな男は不審者ですらないんだろう。不審の道を歩くような男であれば、子ども染みた姑息な手段は選ばない。極端な話、自らが不審であることを自覚しているなら、ある程度の覚悟が見えるはずで、僕もこんなに怒りをあらわにはしていないと思う。僕の怒りが収まらないのは、何とでも言える状況を作りつつ、自分のエゴのみを通し、そのためには平気で他者に嫌な思いをさせるクソのような魂胆が、街に潜んでいること。見つけ次第、僕は自転車でひいてやろうと思ったのだ。

 まだ、ピンポンダッシュのようなことをしている大人がいる。ぶつかり男にしても、僕が遭遇したペットボトルぶつけ男にしても、「世の中に対してピンポンして逃げる程度のことしかできないんだな」って割り切るしかないバカ者たちがいる。世の中には、何の意識もなく、道端にゴミを捨てることができ、保育園の目の前でタバコの吸い殻を捨てることに何の疑問も覚えない人たちがいる。実は、そんな人たちが少なくないことを考えると、世の中というのはゴッサムシティであって、バットマンの出現を待っている人は一定数いるんじゃないかと思案する。

 バットマンは無理でも、怖いおじさんくらいはいてもいいのにと思う。かつて街には、子どもたちを叱ってくれる「コラおじさん」がいた。「早く家に帰れ」とか「親が悲しむぞ」とか、やたらと僕たちにモラルや秩序を押し付けてくる怖いおじさん。「コラおじさん」は、もしかしたら街のバットマンだったのかもしれない。今こそ、ぶつかり男の数だけコラおじさんが必要で、双方がぶつかれば対消滅するのに。迷惑な人たちに対して、“触らぬ神に祟りなし”なわけがない。「コラ!」と叱ってくれる世の中であってほしい。

ホーキング博士とタイムトラベルのせいで巨大夫婦喧嘩。後悔を公開。【徳井健太の菩薩目線 第221回】

2024.10.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第221回目は、タイムトラベルについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 東京で開催される花火大会を観に行きたいと思いつつ、小さい子どもを育てている僕らにとって、人ごみの中を進むというのはなかなか腰が重い。でも、やっぱり刺激的な花火を子どもに観させてあげたいって気持ちがわいてくる。

 どうしたものかと一考した僕たちは、我が家のベランダから「神宮花火大会」を、頑張れば観られるのではないかと考えた。“頑張れば”という言葉が出てきている時点で、かなり雲行きは怪しいんだろうけど、「やらない後悔より、やる後悔」なんて言葉もある。ベランダにちょっとした食べ物を持ち込んで、そこから花火を鑑賞しよう――。そう提案した僕は、ベランダに勢い勇んで飲み物や料理を準備した。

 その日はとても暑く、夕方だというのにベランダは、うだるような熱が充満していた。だけど、あとちょっとしたら花火が始まる。僕は勢いよく、缶ビールのふたを開け、夜空が彩られるそのときを待った。

 遠くの方でドンドンと打ち上がる音がする。「始まった!」。ドンドン、ドンドン。だけど、一向に光は見えない。硝煙が空を覆い、ベランダを不穏な空気が包む。僕たち一家のテンションも、硝煙と比例するようにモヤがかかっていくような気分だった。

 空は見えるのに、花火は見えない。ビールは、自然の摂理に従うようにぬるくなり、いよいよ子どももぐずり出した。室外機から放たれる50℃の熱風に、奥さんも不機嫌になっていく。誰もいない部屋に送られる快適な風の対価である、焦げるような室外機の熱風を浴びながら、「冷房を止めて観るくらいの覚悟が必要だったのかな」と僕は首をひねった。部屋に、戻ろっかな。

 だけど僕は、自分から言い出したアイデアだったこともあって、安易に部屋の中に入ろうとは言えなかった。人間というのは恐ろしい。クソのようなプライドほどしがみついてしまう。完全に僕のミスだというのに言い出すことができず、イライラだけが募っていく。暑すぎる。「戻ろう」。限界を迎え、僕たちは最初から花火なんてなかったかのように、そそくさと完璧な涼しさに包まれる部屋へ戻ることにした。

 しばらくは何をして、何を話したか記憶にない。気が付くと、僕と奥さんはタイムトラベルについて話をしていた。暑さで脳が、まだやられていた証拠だ。

 世界的な学者であるホーキング博士が、生前、タイムトラベルにまつまる次のような実験をしている。

“タイムトラベラーがいるかということを確かめるためにパーティーを企画し、その後、「こういうパーティーを私は開催していた」と招待状を公開する”

 するとどうなるか? もし未来人が、この招待状の存在を知ったなら、一人くらいはタイムマシンに乗って、ホーキング博士が主催するパーティーに駆けつけるのではないか――。

 とんちとも皮肉とも言えるホーキング博士のパーティーには、結局(当たり前?)、誰も来なかった。ということは、タイムトラベルは存在しないのではないか。「そうホーキング博士は投げかけたんだよ」。僕が奥さんに話すと、

「やり口が気に食わない」

 と、彼女は世界的な博士を一蹴した。花火鑑賞がうまくいかず、お互いに苛立っていたこともあって、僕はムッとした。

「そう思う人もいるだろうけど、全員が全員、『ムカつくから行かない』ってわけはないじゃん。地球が滅びるその日まで、俺たちが死んでも未来人はいるわけだから、1人くらいもの好きがいて、冷やかしに来てもいいだろ」

 僕らは、何一つ自分たちの生活に関係ないタイムトラベルについて、久々に口論になった。

「私だったら、そんな偉そうなパーティーに絶対に行かない。何様? そんな博士のパーティーに行ってたまるかって私だったら思う」

 彼女は、私が行かないんだから未来人も行かないと一向に譲らなかった。未来ではなく、今を生きている人なんだなと思った。だけど、無性にムカついた僕は、何の根拠もないのに「来る!」の一点突破に賭けた。双方ともに水を掛け合う時間が続いた。本当にタイムトラベルが存在するんだったら、僕らの家系の未来人がやってきて、「神宮花火大会は絶対にベランダで見たらダメだよ」って、昨日の僕に言っているはずのに。博士のパーティーには、誰もやってこないって、途中から気が付いていた。その代わりと言っては何だけど、早くベランダに、秋よ、やってこい。

変わらないから「安心感」が生まれる。マンネリは美しくて尊い。〈徳井健太の菩薩目線 第163回〉

2023.03.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第163回目は、マンネリについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 マンネリは不変――。

 先日、『水曜日のおじさんたち』(ニコニコチャンネル)にゲスト出演させていただいた。同番組は、『水曜どうでしょう』ディレクターの藤村忠寿さんと嬉野雅道さんによる台本なしのフリートーク番組。前半部分に関しては、無料で視聴できるので、是非ともご覧になっていただけたら幸いです。

 話はもちろん『水曜どうでしょう』に及んだ。番組を作る上でもっとも大事にしていることは、「マンネリ化すること」だと話されていた。

 思わず俺は、「どういうことですか?」と聞いた。

 今まで長く続いてきた番組は、水戸黄門にしろ、男はつらいよにしろ、徹子の部屋にしろ、すべてマンネリ化していて必ずフォーマット化が決まっている、と。

 だから、「最初からマンネリ化する番組を作りたいと思っていた」と水曜日のおじさんたちは教えてくれた。若い時代は破壊衝動があると思う。テレビ業界も幾度となく新しい試みをしてきた。だけど、マンネリ化するのは「続いている(=人気がある)」ことが大前提で、いずれ「不変」へと昇華する可能性を秘めている。

 ああ、これって俺たち芸人にも言えることだなと感じた。 

 芸人は飽きられることを恐れるあまり、新しい自分を見せようと、良くも悪くも努力する。でも、必ずしもそれが良い方向に作用するとは限らなくて、ときにフォームを崩し、自分を見失ってしまう。全部壊れていく。

 最初から変わらないものを目指す。目からウロコだ。

 人間って何か新しいことをしたがるし、新しい刺激を求め続ける。当の本人は、新しいことにチャレンジしたことで満たされるものがあるかもしれない。だけど、その周りにいる人や見守っている人はどうだろう?

 水戸黄門は必ず勧善懲悪のストーリーで、必ず最後に印籠を出し、悪党を懲らしめて一件落着する。このフォーマットがあるから、必ずその時間帯はTBSにチャンネルを合わせる人たちが大勢いた 。マンネリって、変わらないからこそ安心感を与えることができる。ハズレを引かせない。

 若いころなら、いろいろな新しいチャレンジに対して、その結果を反芻できるだけの時間も体力もあるかもしれない。でも、歳を取ると、なかなかしんどい。

 ということは、ある程度の年齢になると、「刺激なんていらないよ」。そう言ってもらえるものも作り出さなきゃいけないんじゃないのか――なんて自問自答した。

 ミュージシャンにしたって、今でもトップアーティストに君臨している多くが、昔も今もさほど変わらない音楽を続けている人たちだ。それってアーティストが同じ路線の音楽をやり続けているということに加えて、そのファンも変な刺激を求めていないってことでもある。その信頼関係って愛おしい。 

「週刊少年ジャンプ」にしても、努力・友情・勝利という三大原則が根底にある。ずっと変わらない。なのに、『鬼滅の刃』のようなメガヒットが生まれる。変わらないから信頼が生まれる。新機軸とか新たなチャレンジとか言い出したら、それはもう危険信号なのかもしれない。

 では、自分の身に置き換えて、これから徳井健太は変わらないままで居続けることができるのか? と問われるとすごく難しい。変わらないっていうことはものすごく勇気がいる。変わることも変わらないことも勇気がともなう。

 自分に求められている役割だってあるだろう。俺の仕事は、半分ぐらいが裏方的なポジションを担うもので、業界的にもそういう役割を期待していると思う(自分自身も楽しんでいるけれど)。自分が自分に思っているキャラクター性と大きな乖離はないから、「嘘はついてない」。そういう意味では自然に仕事ができていて充実感もある。でも、ロケの仕事だって増えてほしいし、そうなるとまた違う自分のキャラクターが誕生しそうで、「変わらない」なんてこととは無縁のようにも思う。

 あのときの加藤(浩次)さんの言葉がよみがえる。

 パンサーの向井(慧)が、「MCをやるとき、クイズ番組の答える側になるとき、ロケ行くとき、ドッキリを受けるとき、全部キャラが違うんです。どうしたらいいですか?」と相談したら、

「お前恋人といるとき、家族といるとき、友だちといるとき、後輩・先輩といるとき、全部顔違うだろ? 同じヤツって嘘ついてるだけだよな。だから違うくてもいいんだよ」

 狂犬の言葉は、いつだってビリビリ、心に響いてくる。きっと無理やり変えてしまうから良くないんだろう。あくまで自然に切り替えられるようになったら、「変わらないまま、変わること」ができるんだろうな。マンネリ化する自分を楽しんでいきたい。

売れるきっかけになったものは、その芸人の“売り”だと思う。平成ノブシコブシは、ロケをやったほうがいいんだよね。〈徳井健太の菩薩目線 第159回〉

2023.01.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第159回目は、平成ノブシコブシによるロケの意味について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 相方である吉村とロケに行ってきた。二人でロケに行くときは、そのほとんどが俺たち以外の出演者もいる現場だ。だけど、今回は久しぶりに平成ノブシコブシ二人っきりで、一泊二日のロケ仕事。場所は沖縄だ。

 1月28日に放送されたテレビ東京『土曜スペシャル 草刈らせてもらえませんか? 人情ふれあい草刈り旅 いざ絶景島へ』。俺たち二人が、最新の草刈り車に乗り込み雑草の処理に困っている場所を見つけ、人助け(草刈り)をする――。あまり耳にしたこともなければ目にしたこともないロケだと思うので、好きな人にはズドンと心の臓に刺さる番組になっているのではないかと思う。見逃した方は、見逃し配信でも視聴できるので是非。久しぶりの平成ノブシコブシオンリーのロケ、いかがだったでしょうか?

 元来、俺が思っていることの一つに、「売れたきっかけになったものは、その芸人の“売り”のポイント」ということがある。例えば、M―1をきっかけに売れ始めた芸人はずっと漫才をやった方がいいと思うし、キングオブコントできっかけを作った人はコントをやり続けた方がいいと思う。クイズ番組で結果を残せるようになった芸人は、クイズを続けた方がいい……などなど、なんだってオッケーだ。恩人のようなジャンルの仕事は、辞めない方がいいと思っている。

 自分たちのことを、決して売れている芸人だなんて思っていない。

 だけど、世に出るきっかけとなり、芸能界一周旅行をさせてもらえるようになった、俺たちにとっての恩人のような存在は何だったのか? そんなことを考えたとき、世界に点在するさまざまな民族にロケをした『(株)世界衝撃映像社』こそ恩人だと思う。

 この番組があったから、その後『ピカルの定理』のレギュラーに選ばれ、息も絶え絶えではあったけど、いろいろな番組に出させてもらう機会をいただいた。

 あまり自分たちからは口にしたことはないけど、心の中では「平成ノブシコブシは、ロケをやり続けるべきだ」と思っていた。できれば常識にとらわれないようなロケを。

 あれから干支が一周して、俺たち2人も随分と大人になった。そんなタイミングで、たった二人でロケをやらせていただけるという機会は、とても運命めいたものを感じたし、こういった機会を作っていただいたスタッフの皆さんには、感謝しかない。

 時間というのは面白いものだなと、つくづく思う。若い頃は、ロケへ行けば、お互いに衝突することが少なくなかった。でも、今回のロケはお互いにフラットに肩ひじ張らずにできたような気がする。

 それって、どこかお互いが芸人であることを放棄していたからかもしれない。と言っても、責任までは放棄しない。ロケをする中で、一緒に行動を共にする芸人やタレントがいれば、俺たちも芸人という役割をまっとうすると思う。だけど、今回は右を見ても左を見ても吉村しかいない。無理やりボケたり、無理やり目立つ必要はない。 仕事として一生懸命向き合うけれど、変に芸人ゲイニンせず、等身大のおじさん二人で臨めたというのは、歳を重ねたからこその妙技というか。

 過酷なロケだった。でも、懐かしい。『(株)世界衝撃映像社』を思い出すような疲労感を覚えながら、1日目のロケを終え、宿のベッドの上で寝転がった。ふと天井を眺めていると、「吉村とロケしてるんだなあ」なんて感じ入ってしまって、目が冴え、寝れなくなってしまった。明日も早朝からロケだというのに、俺は一体何をやっているんだろう。

「気分転換しよう」。何か曲を聴こうと思って、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』 椎名林檎Verを聴いた。真夜中だというのに、脳からドーパミンがドバドバと分泌されていたからだろうか、『木綿のハンカチーフ』の歌詞が脳天に響いてくる。

『木綿のハンカチーフ』は、地方から都会へと出た男性と地方に残された女性の遠距離恋愛の模様を描いた曲だ。明るい曲調もあって甘酸っぱい青春ソングのように聴こえるけど、よくよく最後まで歌詞を追うと、最終的に男性が別れを切り出すという残酷な歌でもある。一方的に別れを告げられた女性は、最後のわがままとして、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さい……それが、『木綿のハンカチーフ』の物語だ。

 俺たち2人がロケをした場所は、東京から遠く離れた沖縄だった。だからなのか、妙にこの歌詞の中に登場する二人の気持ちに没入できるところがあって、眠りにつくどころか、ますます眠りにつけなくなった。

 昭和の時代は、田舎を捨て、そして好きだった女性を捨てるぐらいの気持ちがなければ東京という世界では戦っていけないんじゃないのか。そんなメッセージが込められているのだとしたら、僕は旅立たなきゃいけない――。真夜中以上、早朝未満のトリップ感。時計を見ると、深夜の3時。明日は、 6時に起きなきゃいけないのに。

 平成ノブシコブシに、そんな覚悟はあったのか。そんな気持ちを持って東京から何百キロも離れた場所で、何を思ったのか。その模様を、是非皆さんに目撃していただきたい。2023年は、平成ノブシコブシのロケが増えたらいいな、なんて思う。増えなかったら、涙を拭くための木綿のハンカチーフを下さいな。

歴史は「古代」からではなく、「近現代」から教えた方がいいと思うんだけど〈徳井健太の菩薩目線 第142回〉

2022.08.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第142回目は、歴史の教え方について、独自の梵鐘を鳴らす――。

芸人たちの打ち合わせ論、台本論。テレビの向こうのバカリズムさんから教わったこと。〈徳井健太の菩薩目線 第137回〉

2022.06.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第137回目は、台本について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 いろんなテレビ番組がある。その数だけ台本がある。

 台本をどう紐解くか。おそらく、タレントや芸人によって、その解釈の仕方は、これまたいろいろあると思う。

 台本がある。ということは、打ち合わせもある。その台本を確認しながら、番組ディレクターなどがあれこれと文字通り“打ち合わせ”をする。

 徳井健太の場合。楽屋に入ると台本が置いてあるので、必ず目を通す。流れを確認し、自分なりの答えを出し、収録に臨む。けど、その前に、打ち合わせがある。

 台本を一言一句追っていくような打ち合わせをすることがある。でも、それはすでに読んだ内容だから、正直なところ、もっとプラスアルファのある打ち合わせの方がうれしかったりする。

 たとえば、流れをかいつまみながら、特定の箇所を説明し、「ここでこういう盛り上げ方ができませんか?」などなど。せっかく大人が向き合っているのだから、写経のように、ただただ台本の文字をなぞるだけの打ち合わせは、気持ちがどんどん「無」に近づいていってしまうというか。写経だったら、それでいいんだけど。

 そんなふうに考えていたある日、それって「凡庸だったんだ」と気が付いた。

『ワイドナショー』を見ていると、打ち合わせはいるか、いらないかみたいな話をしていた。タイムリー。

 出演者の多くが、やはり杓子定規な打ち合わせであれば、あまり意味はないのではないかといった論調に傾いていた。バラエティでは、台本通りに書いてあっても、そうならないことが多々ある。どうなるかわからないことについて打ち合わせをするのは、“たられば”の世界。だったら、実際にやったほうが早いよねって。

 ところが、バカリズムさんだけは違う視点を持っていた。「打ち合わせは必要」。なんでだろう。

 めちゃくちゃ面白い台本、それこそ笑いを前面に押し出したようなバラエティの台本があったとき。その打ち合わせをするディレクターが、もしも台本を一字一句読んでいくタイプ、ものすごく真面目なタイプだったら、どうなるだろう。一見、お笑い風の番組だけど、実はそんなにバラエティ的な要素は求められていないのではないかと疑う、そうバカリズムさんは話していた。

 たしかに、バラエティ番組といっても多種多様だ。情報系もあれば、ゲストに俳優さんがくるバラエティもある。台本を開くと、とても楽しそうで、お笑い色が強いんだろうなとわくわくする。情報系だけど台本が面白いんだったら、俺は芸人感を出して収録に臨もうと決める。だけど、バッサリとカットされるというのは珍しいことじゃない。

 その逆もある。情報がメインなのに、ボケた部分が意外に使われていてびっくりするなんてこともある。そういうケースを振り返ってみると、打ち合わせをするディレクターが、台本に書いてあることをあまりなぞらずに、余白を感じさせるような打ち合わせをしていたような。

 バカリズムさんは言う。台本の内容と実際に打ち合わせをする人物とのシンクロ具合が重要なのであって、それを見極めるために打ち合わせという場は必要だ、と。目からウロコ。レベルが高い人の考え方ってすごい。

 たくさんの番組に出させてもらうようになると、芸人である俺たちは、打ち合わせで「面白いことやりましょう。どんどんやってください」なんて言われる。意気揚々とオンエアのふたを開けると、バッサリいかれ、よくわからない反省タイムへ突入する。「何がいけなかったんだろう」。でも、それは良い、悪いの話というより、合う、合わないの話でしかなく、そんなことを繰り返しているうちに、人間不信よろしく打ち合わせ不信になってしまう。「どうせ話が違うんでしょ」なんて思ってしまって、結局、自分なりの答えを出して、収録に臨む。言い方を変えれば、個人プレー。それでもいいかなんて走っていた。

 でも、番組はたくさんの人間がいて、作られている。理想を言えば、どんな番組でもチームプレーを心がけたい。その気持ちをズレさせないために、打ち合わせという場を有効利用し、フォーカスを合わせる。バカリズムさん、勝手に勉強させていただきました。ありがとうございます。

 芸人たちの台本論。芸人たちの打ち合わせ論。面白いかもしれない。

 たとえば、極楽とんぼの加藤浩次さん。伝説のバラエティ番組『めちゃ×2イケてるッ!』は、毎回ものすごい厚みの台本があったそうだ。めくると、命を懸けて、寝る間も惜しんで書かれていたことがわかるくらい真剣な台本だったという。だから――。

 加藤さんは、命を懸けてぶっ壊しにいったと話していた。命を削って作った台本VS命を削ってぶっ壊しにいく芸人。その死闘の数々が、極楽とんぼの名シーンとしてカメラに収まっているんだと思う。本気同士が対峙するから壊せる。ちゃんとしたものがあるから、壊す行為にカタルシスが生まれる。

 バラエティの現場って面白い。本気になるために、打ち合わせって大事なんだ。 

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