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ESPの工場見学で轟音ほとばしり、職人の愛に感服する回!〈徳井健太の菩薩目線 第232回〉

2025.02.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第232回目は、ESPを見学した話について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 ご縁をいただき、ESPの工場を見学させていただいた。こんなに愛がほとばしる会社があるなんて思いもしなかった。

 ESP(本社:千代田区神田錦町)は1975年に日本で設立された、高級ギターを中心とする楽器製造会社だ。世界初の本格的なオーダーメイド・ギターメーカーとして誕生し、エレキギターでは国内トップシェアを誇る。国内外のトップアーティストから高い信頼を得ているため、僕の中ではGibsonやFenderなどと並ぶ超有名ギターメーカー。そう言えば、北海道から上京したとき、音楽を演っていた友だちは、ESPの専門学校に入るために故郷をあとにしたっけ。

 世界的なメーカーだから、「大きな工場なんだろうな」と勝手に思っていた。ところが、埼玉県某所にあるESPの工場は、立派ではあるものの町工場のような雰囲気もあって、ちょうど昼休み中だった社員の人たちは、ヨーヨーで気分転換を図っていた。こんな牧歌的で、昭和の一コマみたいな風景が広がる工場なのかと、僕の期待はカミナリに打たれ、そのギャップに頭の中でギターの轟音が鳴り響いた。

 ESPはオーダーメイドでギターを作るから、僕は車を作るようにオートメーションで製造を担い、一部分だけを手作業で進めるものだと想像していた。でも、実際にはすべての工程が職人さんによる手作業で進められ、機械だけで手掛けられるというプロセスは一つもなかった。

 ギターのネックやボディーとなる木材が、メイプル剤を筆頭にたくさん並んでいて、選択された木材が削り出される。フレットを打ち、塗装し、ペグなどのパーツを取り付ける。それぞれの工程を分業で職人さんが担当し、そのひとつひとつは信じられないほど丁寧な手作業によって、魂が吹き込まれていた。

 僕が今まで楽器店で目にしてきたESPのギターは、こうやって生み出されていたのかと息をのんだ。案内をしてくれた方に話を伺うと、この工場だけで製造も修理も行うという。一体、今日だけで何度カミナリに打たれるのだろう。

 たとえば、湿度によってギターのネックは必ず反ってしまう。それを直すためには、高熱のアイロンのような機械で押し当てるしかないらしく、そうした不備をきたしたギターは、すべてこの工場でリボーンされるという。

 僕は途中から『タモリ倶楽部』よろしく、ロケをするようにギター製造についてあれこれと質問していた。いるだけで好奇心がわいてくる。なんでも、ここでギターの製造にかかわっている人は、ESPの専門学校出身者もいて、基本的に全員がギターが弾けるんだとか。

 職人さんたちのデスクに目をやると、一つとして同じものがない。「なんでデスクがみんな違うんですか?」と尋ねると、各々のテーブルは手作りだといい、自らのテーブルを作るところからスタートすると教えてくれた。おそらく、使えない木材を再利用して作っているのだろう。形も色もバラバラ。それぞれの個性が大爆発。だけど、ギターを作るという思いは一致する。なんて素敵な社風なんだろう。

「人によってはメタルを爆音で聴きながら塗装したりもしていますよ」

 そんな言葉を聞いて、僕の心はとてもウキウキした。自分の作業と向き合うために、その人が好きなものに包まれることを推奨する。音質チェックをするときは話は別だろうけど、それぞれがそれぞれの仕事をしているときは、各人が思い思いの音楽を聴きながらギターを作り上げる。

「こんなに愛にあふれた会社があるんですね」と感心する僕の声をよそに、黙々と目の前のギターと向き合っている職人さんたち。でも、案内してくれた方は、「振り向きこそしないですけど、きっと徳井さんの言葉を聞いて、スタッフも喜んでいますよ」と笑って話す。いえいえ、感謝を言うのは僕の方で、こんなに素晴らしい場所を見学させていただき、本当にありがとうございます。

 立場も業務も異なる。だけど、ギターを愛するという共通理念がある。“みんなちがって、みんないい”は、こういうことを言うんだろう。

「ここまで愛に満ちていたら、ライブパフォーマンスでテンションが上がったとはいえ、ギターをぞんざいに扱われるのは嫌じゃないですか!?」

 少し意地悪な質問だろうけど、聞いてみたくなった。「いやいや、大丈夫です」とESPは明るく返す。愛にあふれた組織は強く、かっこいい。ESPさん、とても勉強になりました。ありがとうございました。

線路内立ち入りによるまごつき、舞台袖からの鋭い眼光への考察【徳井健太の菩薩目線 第231回】

2025.01.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第231回目は、良いことと悪いことは交互に訪れるかについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 去年の話になりますが、うちの奥さんが主催を務めるライブを観に行った。主催というだけあって、何から何まで自分でやらなければならない。会場の手配はもちろん、演者、音響スタッフのブッキング。弁当やケータリングの手配に、ライブ構成、タイムスケジュール。ライブ終了後には物販も行い、完全撤収まで見守る。自分には、まるでできそうもないことだから、ただただ感心するばかりだった。

 ライブの最中、うちの奥さんのバンド「yesAND」のステージを見ている、自分たちの出番を終えたであろう演者の女性がいた。袖の奥から、鋭い眼差し――もはや睨んでいるとも形容できる眼光で、ジッとステージパフォーマンスをみつめるその姿は、とてもかっこよかった。

 僕たちお笑いの世界でも、袖から先輩の漫才を睨みつけるように見て、「学ぼう」「盗もう」といった青い炎をまとっている、まだ日の目を浴びない後輩たちがいる。そうじゃなきゃいけない。

 僕も若い頃、ハローバイバイの金成さん、ペナルティーのヒデさん、インパルスの堤下さんを袖から眺めては、ボケを輝かせるためにはどんなツッコミをしたらいいのか……なんて考えていた。まったく笑うことなく、ただ凝視する。もう一人の自分が袖の僕を見たら、家族を人質にでも取られたのではないかと疑うくらいに。畏怖の念を抱きながら、「すべれ、すべれ」と願いながら、僕は袖で舞台上をにらみつける。そんな思いは、ドカンドカンと弾ける爆笑に、結局、かき消されてしまうんだけれど。

 彼女が、実際にどういう気持ちで眺めていたのか、本意は分からない。だけど、そうした眼差しをおくるアーティストがいるライブ会場は、ギラギラに満ちていて、「世の中はこうじゃないと面白くない」と思わせるものだった。

『禍福は糾える縄の如し』という言葉がある。「人間の幸福と不幸は、より合わせた一本の縄の表裏のように、交互に来るものである。 災いが転じて福となり、福が転じて災いとなることがあるもので、人の知恵で計り知ることはできない」という意味だ。『鬼滅の刃』に登場する上弦の陸・妓夫太郎が口にするセリフでもある。

 良いことと悪いことは代わる代わる訪れるもので、「世の中はこうであってほしい」と思う出来事がある一方で、「こうであってほしくない」という出来事が起きる。

 山手線に乗っていると、線路内に人が立ち入ったというアナウンスが流れ、完全に電車が動かない状況に陥ってしまった。幸い、乗っていた電車がちょうどホームに到着していたので、その電車を降り、違う手段で目的の場所に行くこともできた。でも、「もしかしたらすぐ動くかもしれない」と思った僕は、状況を見守ることを選んだ。

 5分後、再び車内にアナウンスが流れた。

「現在、線路内に立ち入った人物を追っているのですが、取り逃してしまいました。引き続き、探していますのでお待ちください」。

 そんなようなニュアンスの言葉が届けられた。本当かどうかは分からないけど、「線路内に人が立ち入った」というアナウンスが流れたときは、痴漢の対応をしているという話がある。「取り逃がした」という、伝える必要があるのか分からない失敗の報告を耳にした乗客は、一斉にざわつき始めた。だけど僕は、線路内に人が立ち入った=痴漢の対応という説は正しいのではないかと思えて、なんとも言えない納得感を覚えた。と同時に、わざわざ取り逃がしたことを報告する真面目すぎる社会に違和感も感じた。

 しばらくして、電車はゆっくりと走り出した。結局、取り逃した人物を確保することはできなかったらしく、何事もなかったように次の駅へと向かう。

 揺れる車内で、やり場のない静かな怒りが湧いてきた。どうして線路内に立ち入った人――、あくまで仮説ではあるけれど、痴漢をした人のために、何千、何万の人が足止めを食らい、時間を奪われなければいけないんだろう。

 もちろん、被害に遭った方がいれば、その対応を最優先し、そのために止まることは当然だ。だけど、「取り逃がした」なら、その時点で電車は出発してもいいんじゃないだろうか。よく分からない言葉で濁され、本当の原因が不明なまま時間だけが過ぎ去る。真偽が分からないものは、我慢するしかないのか。

 混乱を避けるため、余計な詮索をさせないため、あえてそう言わざるを得ない理由が、鉄道会社にもあるのだとは察する。でも、よく分からない状況は、さらによく分からない状況を作り出すだけだと思う。蛇が、自らのしっぽに食いつくように、事態は一層笑えない状況になっていると感じるのは気のせいでしょうか。

 気持ちの良いことが世の中にはある。「これだよ!」ってテンションがあがることがある。一方で、気持ちの悪いことも世の中には蔓延している。2025年は、良いことが多い一年になりますように。

義理かお金か面白さ。そのどれかがあれば、どんなことでもやります【徳井健太の菩薩目線 第230回】

2025.01.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第230回目は、事前にギャラを知るべきか否かについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 慈善事業ではないけれど、ギャラが支払われないおまけの仕事――みたいなことがあったりする。メインの仕事に付随する仕事なので、そちらのギャラは発生しません的な。

 そんなわけだから、仕事をしたのに、「実はギャラがありません」と告げられて、がっくりと肩を落とす芸人は少なくない。それを回避するために、事前に「この仕事のギャラはどれくらいですか?」と聞くタイプの芸人は多い。

 フリーランス、自営業者の皆さんなら少なからず思い当たるであろう「事前にギャラを聞くか聞かないか」問題。不老不死と肩を並べる、人類永遠のテーマの一つだと思うんです。

 僕は、事前にギャラを聞くことはしない。だから、ギャラを聞くタイプの芸人に会うと、「どうして聞くのか」と尋ねる。

 すると、大体の芸人は、「以前、聞かないまま仕事に臨んで、割に合わないと思ったことがあったので、ある時期から聞けるときは聞くようにしている」といった答えが返ってくる。とても理に適っていると思う。

 では、どうして僕は聞かないかというと、想定していた以上にギャラが低かったら、テンションが低い状態でその仕事に望んでしまうことになりそうで。その逆もしかりで、想像以上にギャラが高いと、いつも以上に元気なあいさつをしたり、気持ちがかかりすぎたり……態度に出ないように配慮しても、 人間である以上、どこかでダダ漏れてしまうことが想像に難しくないからだ。ギャラによって、自分の気持ちにムラが生じるのが、なんか悔しいのかもしれない。

 そのため、後日送られてくる明細書を見て、「あの仕事はこれぐらいのギャラだったんだ」と、そのとき知る。想定していた以上にギャラが低かったり、割に合わないと感じたりすれば、次回以降はマネージャーに相談して可否を決めればいいだけ。契約更改がシーズン終了後に行われるように、終わった後に考えればいい。シーズン中は、試合に集中したいじゃないですか。

 菩薩目線の担当編集であるA氏もフリーランスなので、彼にも尋ねてみた。すると――、

「初めて仕事をする媒体がギャラについて言及してこない場合は、あえて原稿料は聞かないようにする。もちろん、書籍をはじめ大きな仕事であれば、事前に原稿料や初版部数などの確認はするけれど、雑誌やウェブメディアで一記事を書く場合は聞かない。後日、明細を見て、その金額で次を決める。“金にうるさいヤツ”という印象を与えかねないので、結果的に仕事の幅が狭まる可能性もあるし、もしかしたらものすごく優秀な担当編集かもしれない。だから、お試しの気持ちを持てるようにしている」

 と話していた。A氏は、「主従で言えば、仕事を振られる側は“従”である以上、代わりはたくさんいる。そんな存在が、お金に重きを置く時点でどうかしている。自分が“従”から脱却してから、はじめて交渉のテーブルがある」とも付け加えていた。

 おそらく、世の中の大半の人は「聞くべき派」なんだと思う。自分の時間や労力を費やす対価なんだから、事前に知っておく方が精神衛生的にもいいだろう。でも、それって確かな実力や信頼がないといけないと思うし、そもそも、僕らは自営業者であって、社会的には不適合な人間だという自覚も少なからずあるのだから、そんな人間がギャラに嗅覚を研ぎ澄ますのはなんだか違うような気がしてしまう。

 金額に見合った仕事をしようと思うと疲れる。いや、分かっている。金額に見合うように仕事をするのもプロだろうし、こだわること自体は悪いことじゃないって。だけど、自分のモチベーションや疲労感を、お金という枠の中で完結させたくないという、よく分からないこだわりがある。やる気の主体性は、他の何かでありたいんだろうな。

 お金以外でも、きちんと自分のモチベーションを上げられる基準を作ることが大事だと思うんです。お金以外に必要なこと。僕の場合は、一つは義理。もう一つが面白さ。

 この3つすべてが揃えば最高だけど、仮に後日、明細書に記載された金額が想像以上に安かったとしても、その人にお世話になったとか、その人のプラスになれたとか、めちゃくちゃ笑ったなと感じられれば良い仕事じゃないかと思える。きれいごとで結構。お金では買えない自分の血と肉になるものがあることって幸せじゃないですか。

 逆に言えば、この3つのどれにも該当しないのであれば、断るという選択肢もあって良いのではないかと思う。お金は大事です。でも、お金ありきの判断基準になってしまうと、付き合う人間関係もお金第一の人たちばかりになりそうで。

『営業‐1グランプリ』を通じて。コスパやタイパのその先に、おもろいことなんて生まれるわけがねぇ【徳井健太の菩薩目線 第229回】

2025.01.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第229回目は、営業‐1グランプリについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 皆さんは、ご覧になっていただけましたでしょうか?

 そうです。今やBSよしもとの一大イベントになりつつある『営業‐1グランプリ』です。学園祭や企業パーティー、お祭りなどで観客を盛り上げる――営業。その出演回数ランキングを発表するだけではなく、各芸人が“営業虎の巻”を開陳する本企画に、僕たち平成ノブシコブシも出演致しました。僕は定期的に公営ギャンブル関連の営業に行きますが、相方である吉村は営業とはほぼ無縁の芸人。にもかかわらず、コンビ揃って登場させていただけるなんて本当にありがたいことです。

 番組の見所は一言では言い表せませんが、何といってもサバンナ・八木さんの無双っぷりは必見でしょう。自信に満ち溢れた八木さんの姿は、いかに人間は自信を伴うと覚醒するか……がよく分かると思います。

 もし、「まだ見ていない」という方がいましたら、YouTubeのBSよしもと公式チャンネルにて、『【完全版】営業-1グランプリ2024総決算スペシャル』( https://www.youtube.com/watch?v=S3r7y6_zRRE )から視聴できますので、すきま時間を埋めていただけたら幸いです。

 番組をご覧になった皆さんなら、営業でしっかりと結果を残す芸人たちの哲学や戦術は、実社会でも大いに役に立つことが分かるはずです。

 その一方で、僕が個人的に感じたことは、この番組の大きなテーマとして、古き良き吉本を伝承していこうといったことがあるのではないかということです。

“古き良き”という言葉だけ見れば、その聞こえは良いと思います。ですが、コンプラが叫ばれるこのご時世では、あまりに昔を懐かしむと、その行為そのものが老害認定されかねない。僕たちは必要以上に“古き”に対して過敏になって、昔と今を線引きしながら自分たちが過ごした過去と向き合っているような気がします。古き良きという言葉自体、どこか言いづらい雰囲気すらあります。

『営業-1グランプリ2024』では、「吉本から失われたもの 失ってはいけないもの」と題して、昭和・平成・令和三時代別の営業の歴史が紹介された。その中で、かつては大阪の各劇場に“お茶子さん”と呼ばれる世話役の女性が存在していたという証言が議題に上がっていた。

 お茶子さんは、劇場の雑務や世話係を務め、(主に芸歴の浅い)芸人たちにあいさつや礼儀、楽屋での立ち振る舞いを教えていたという。お茶子さんにかわいがられていた芸人は売れたといい、その筆頭格がさんまさんであるとも触れられていた。叱られながら、かわいがられながら、芸人として成長していく。その裏側に、お茶子さんが大きな役割を果たしていたと、諸先輩たちは異口同音に話していた。

 また、芸人とマネージャー間の業務連絡も、かつては口頭だった手段がメール、LINEに変わっていったとも紹介されていた。昭和の時代は、マネージャーが口頭で営業先について説明するため、「昨年はこういう客層のお客さんが多かった」「会場はこれくらいの広さ」といった詳細を確認することができたけど、現在ではLINEになったことで必要最低限の情報しか伝わらなくなった……便利になればなるほど、反比例するように解像度が低くなるというのは、なんだか皮肉めいた話だよねって。

「失われたもの」を聞くたびに、僕は何度も膝を打ちました。このままいけば、僕らはAIからスケジュールを教えてもらうことだってできるだろう。伝達だけならそれでいいかもしれない。でも、現場では人間が躍動している。だったら、無駄から生まれるものだって必ずあるはずです。それが時に、仕事の幅を広げてくれるから、仕事はどんどん面白くなっていく。

 自分一人で、「これはやりたい」「これはやりたくない」と仕分けしていたら、5年後も10年後も同じ枠の中に留まり続ける。幅を広げるためには、無用の用と言われるような、一見、意味のないもの。雑談なんか最たる例で、非効率的だからこそ磨かれるものがある。吉本興業はアナログであってほしいと勝手に思っているし、その感覚はやっぱり大事なのではないかと、『営業-1グランプリ2024』で再確認した。

 あらためて説明すると、やっぱり懐古主義的な物言いをしているなって思います。自分でも古臭いことを言っているなと分かっている。だからなんだろう。こうした考え方を面白くおかしく伝えることが大切なわけで、『営業-1グランプリ2024』は、まさしく説教臭くならないようにパッケージしているのだからロックだなって思うんです。

 思えば、東京吉本の楽屋風景もだいぶ変わったような気がする。10年くらい前は、それなりに芸人たちが楽屋に溜まっていたけれど、今は空き時間を利用して様々なことができるようになったため、滞在し続ける芸人は確実に減ってしまった。『営業-1グランプリ2024』では、昭和の吉本芸人たちが楽屋で談笑している写真が紹介されていた。その写真を見ると、この馬鹿話からあのギャグやあのエピソードが生まれたのかななんてことが想像できた。この時間が吉本なんだなって。想像できるように――。僕も失わないようにしたい。

世は諸行無常、無力な自分を恨むたびに、バットマンの登場を待つ!【徳井健太の菩薩目線 第228回】

2024.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第228回目は、ぶつかり男について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 少し前に、駅構内などでぶつかってくるおじさん、通称「ぶつかり男」が話題になった。ぶつかり男は、主に女性に対して意図的にぶつかってくるわけだけど、先日それに近い体験に遭遇した。

 家から少し離れた歩道を歩いてたときのこと。その歩道は、大人3人が横並びで歩けるか歩けないかくらいの狭さ。車道は車の往来が激しく、とてもじゃないけど歩けない。荷物を抱えていた僕は、自転車を降り、押しながら歩いていた。横に広がる荷物を見て、「邪魔になったら申し訳ないな」と思いつつ、目的の場所へと向かっていた。

 すると、向こうから革ジャンを着た男性が歩いてきた。狭いとはいえ、通れないことはない。お互い立ち止まることなくすれ違う。その瞬間、自転車を押す僕の拳に何かが当たった。

「痛ッ」

 声には出さなかったけど、心の中で漏れるくらいの痛さ。ささいな痛さと言えばそれまで。でも、嫌~な違和感。「なんだろう」と思ったときには、すでに10メートルほど離れていたから何かを言うことはできなかったけど、どうやらその革ジャン男は、手に持っていたペットボトルを意図的に僕の拳にぶつけたようだった。

 彼は、ペットボトルを逆手で持っていた。手首をひねれば、向かってくる相手に対していつでもペットボトルを当てられる――まるでそれは、「たまたま当たってしまったんですよ」とでも言える逃げ口を準備しているかのようなペットボトルの持ち方だった。

 最初は、「どういうこと?」なんて疑問ばかりが浮かんできたけど、一分もすると段々と腹が立ってきて、二分後にはやり場のない怒りが頂点に達し、ムカついて仕方がなかった。僕が邪魔だったとしても、そんなことをする必要がどこにある? しかも、「たまたまですよ」と逃げられるような当て方。その姑息かつ用意周到な嫌がらせに、額の血管は千切れそうだった。

 探そう。

 荷物をしかるべき場所へ届けた僕は、革ジャン男が消えていった方向へと自転車を走らせた。街を塗りつぶすように執拗に探し回った。警察に突き出したかった。何かを立証できるわけじゃないけど、姑息な革ジャン男に後悔させたかったのだと思う。

 だけど、見つからない。分かっていたことだけど、一度街に紛れ込んだら、再度出会うことは難しい。不審者だったら見つけられるのでは? そう考えたものの、そもそもあんな男は不審者ですらないんだろう。不審の道を歩くような男であれば、子ども染みた姑息な手段は選ばない。極端な話、自らが不審であることを自覚しているなら、ある程度の覚悟が見えるはずで、僕もこんなに怒りをあらわにはしていないと思う。僕の怒りが収まらないのは、何とでも言える状況を作りつつ、自分のエゴのみを通し、そのためには平気で他者に嫌な思いをさせるクソのような魂胆が、街に潜んでいること。見つけ次第、僕は自転車でひいてやろうと思ったのだ。

 まだ、ピンポンダッシュのようなことをしている大人がいる。ぶつかり男にしても、僕が遭遇したペットボトルぶつけ男にしても、「世の中に対してピンポンして逃げる程度のことしかできないんだな」って割り切るしかないバカ者たちがいる。世の中には、何の意識もなく、道端にゴミを捨てることができ、保育園の目の前でタバコの吸い殻を捨てることに何の疑問も覚えない人たちがいる。実は、そんな人たちが少なくないことを考えると、世の中というのはゴッサムシティであって、バットマンの出現を待っている人は一定数いるんじゃないかと思案する。

 バットマンは無理でも、怖いおじさんくらいはいてもいいのにと思う。かつて街には、子どもたちを叱ってくれる「コラおじさん」がいた。「早く家に帰れ」とか「親が悲しむぞ」とか、やたらと僕たちにモラルや秩序を押し付けてくる怖いおじさん。「コラおじさん」は、もしかしたら街のバットマンだったのかもしれない。今こそ、ぶつかり男の数だけコラおじさんが必要で、双方がぶつかれば対消滅するのに。迷惑な人たちに対して、“触らぬ神に祟りなし”なわけがない。「コラ!」と叱ってくれる世の中であってほしい。

「ギャラを持っていかれる」ことに対して文句なんて一つもない。NSCで最初に教えるべきは、ボトルキープ理論だ【徳井健太の菩薩目線 第226回】

2024.12.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第226回目は、ボトルキープについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 考えれば考えるほど、ボトルキープは興味深い文化だなって思う。

「今までボトルキープしたことがないんだよね」

 と奥さんに伝えたら、「うそでしょ」と言わんばかりにぎょっとされた。北九州で生まれた彼女にとってボトルキープは当たり前だそうで、小さい頃にお父さんとお母さんと居酒屋へ行くと、決まってボトルキープが置いてあったという。

 奥さんは、「特に意味があったわけではないと思うよ」と断りを入れるものの、たしかにボトルキープはよくできているなと、僕は思った。もちろん、リーズナブルさはあるだろう。でも、安さだけを求めるなら、そのボトルをスーパーで買って家で飲んだ方が、もっと安上がりだ。

 ボトルキープをする――。

 そうすると、「また来るからね」という意思表示になる。暗黙の了解としてのボトルキープ。コミュニティとしてのボトルキープは、一定の役割を果たしているということになる。あくまで僕個人の肌感だけど、ボトルキープは西日本の方が一般的なイメージがある。対照的に、東京でボトルキープをしているお店は、かなり限られるのではないかと思う。

 いま、東京で飲んでいると、なかなかコミュニティを感じられる機会は少ない。そこには、自分のことだけしか考えられない個人主義的な発想もあるだろうし、街が都市化していくにつれ、地域社会に対する関心の希薄化もある。飲みに行っても、個人的な趣味や嗜好で飲んでいる人が多く、コミュニティを考えて飲んでいる人なんて、一体どれくらいいるのだろうかと勘繰ってしまう。

 ボトルキープ的な考え方を、生きていく中に取り入れてみると面白いと思うんです。

 人間関係や仕事の中において、自分と輪をつなぐような“何か”はあった方が望ましい。酒場におけるボトルキープのように、何かがキープされているから、持ちつ持たれつ、そこに居場所が生まれる。

 例えば所属事務所。僕は吉本興業に所属しているから、当然ギャラの何割かは事務所に持っていかれる。それに対して、不平不満を口にする若い子たちも少なくない。

 でも、こう考えてみたらどうだろう。

 僕らが全く売れていない頃、僕らは売れている先輩たちの“持っていかれたお金”によって生かされていた。稼いでくれる人がいるから、無名で実力もない僕たちは一応所属という形になっていたし、その看板があることで、僕らも笑いが好きでい続けられたと思う。

「そうはいってもたかだか数百円のギャラしかもらえないじゃないですか?」なんて反論もあるだろうけど、本当は数百円ももらえないような杜撰でエゴにまみれた笑いしかしていない。もらえるだけでもありがたいし、もっと言えば劇場代や諸経費は事務所が持ってくれている。しかも、たった数百円でも、「こんなにウケたのに500円かよ」とか、「交通費を考えるとマイナスになる」とか話のネタにもなる。こんなことを笑って話せたり、いつかを夢見てチャレンジできるのは、誰かが稼いでくれているから。

 だから、自分たちがそれなりに売れ始めたとき、「割に合わない」と話すのは、僕には違和感に映る。持っていかれるお金は、ボトルキープのような存在で、それがあるから居場所があって、コミュニティが成立するのだと思う。

 こうしたことを理解するには、年齢を重ねていかないと分からないことかもしれない。吉本であればNSCの授業で伝えた方がいいと思うし、社会であれば高校や大学の授業で教えてあげてもいいんじゃないかなって思ったりもする。今は言葉で説明してあげないと分からない人が増えたから。

 極論かもしれないけど、常連だった僕が死んでしまったら、店の飲み仲間たちはいつか僕のことを忘れるだろう。別に思い出してほしいってわけじゃないけど、もし仮に「徳井さん」ってボトルが残っていたら――。そういうものがあるのとないのとでは、まるで世界は変わってくる。世の中、もっとボトルキープ的な発想があったら、人に対して優しくできたり、想像力が豊かになったりするんじゃないかなと、つくづく思う。

実際に、ライブでお金も時間も体力も使わない人の意見なんて聞かなくていい。選挙も、知恵も時間も体力も使わない人の意見なんて、反映されなくていいと思う〈徳井健太の菩薩目線 第225回〉

2024.11.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第225回目は、ネット選挙について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 今年は何かと話題になる選挙が行われた一年だったような気がする。ざっと振り返るだけでも、7月の東京都知事選挙、10月の衆議院選挙、11月の兵庫県知事選挙と印象的な選挙が続いたと思う。

 僕と奥さんは、選挙速報を見ながらあーだこーだと喋ることが好きだ。そのたびに、スマホやパソコンから投票できるネット選挙はアリかナシかみたいな話になる。僕は一般論的な意見同様に、「投票率も上がるだろうから導入してもいいんじゃないか」と話すのだけど、奥さんは「そうかなぁ」と首をかしげる。

「選挙に行きたくない、どこにも入れたくない、めんどくさいといった人たちに対して、ハードルを下げる必要はないんじゃない?」

 というのが奥さんの意見だ。さほど政治に関心のない人の意見を取り入れることで、民意が正しく反映されなくなるなどの意見はよく聞くけど、「ハードルを下げてしまう」という奥さんの意見はあまり聞かない意見だったから、僕は面白い意見だなと食いついた。

 奥さんは、シンガーソングライターでグラビアなどもしていたから、お客さんに対して、僕以上に一家言を持っている。

 例えば、インスタライブのような無料のイベントを開くと、「もっと肌を露出したほうがいい」といった意見が必ず飛んできたという。さまざまなことを言われるため、物は試しとやれる範囲のことは一応やってきたそうだ。ところが、そうやって意見を飛ばしてくる人ほどライブに来ないし、実際にライブに足を運ぶお客さんはもっと真剣に考えてくれるという。ふわふわしたクラウド上の意見や無料の意見は、少なくても自分にとってはプラスになるものでもなかったと教えてくれた。来てくれるお客さんは、シンプルに音楽や歌が好きな人や、自分のことを応援してくれる人ばかりだ、とも。

 たしかに、この視点は選挙にも言えることだと思った。わざわざ足を運んだ人の意見だからこそ聞く意味があるのであって、行く気がしないとかめんどくさい、ワカラナイなどと言っている人の意見を、便利にすることで半ば強制的に投票させる必要ってあるんだろうか? 「ハードルを下げる」ことと、「門戸を広げる」ことはイコールではないってことだと思うんです。

 新しいニーズを増やしたいからといって、ハードルを下げる。それって一時的には効果があるのかもしれないけど、中長期で考えると本当に意味があるのだろうか。物事は、やらないよりかは、ひとまずやってみた方がいいこともある。とは言え、ハードルを下げると、当然海千山千いろんな人が流入し、結果的にそのカオスと化した状態を整備するのに、余計な時間とお金がかかりそうでもある。「門戸を広げる」ために「ハードルを下げる」のは違う。分けて考えないといけない。

 分かりやすくすれば良いと思う。

 選挙であれば、行く気がしないとかどこに入れていいか分からないと言っている人がいるなら、分かりやすくしてあげればいい。よく分かんないから足が重くなる。だったら、その目詰まりを解消してあげれば、多少なりとも足取りも軽やかになるんじゃないんだろうかとも思う。そう思っていたのだけれど、この一年の間に、動画の切り抜きやTikTokなどによって、その“分かりやすさ”が利用できるものだということが明らかに……。選挙って難しい。

「もうダメや、あかん!」とチャンス大城さんが本番中に叫んだとき、僕は心から笑ったしうれしかったし、安堵した〈徳井健太の菩薩目線 第223回〉

2024.11.10 Vol.Web Original

 浜名湖ボートの仕事で、パチスロ界隈ではレジェンド的なライターであるういちさんと一緒になった。僕たちが狂ったようにパチスロをしていた時代、ういちさんの文章を読んでいない人はいないというくらいの存在で、パチスロ界のダウンタウンといってもいいほどの巨星だ。現在、ういちさんはボートレースのフィールドでも仕事をしているので、僕は偶然にもういちさんと仕事をすることになったのだ。

 この現場に、たまたま吉本の若手コンビも参加した。話を聞くと、2人とも東京の難関私立大学出身者だという。

 僕はかれこれボートレースを何十年もやっているけど、意外にも要領を掴むことが難しいクセのある公営ギャンブルだと思っている。それこそ始めたての頃は、どうやって勝負していいのか四苦八苦したものだ。ボートレースに興じた経験はないと話していたその若手コンビも、「どうやってやるんですか?」と恐る恐るベットしていた。ところが、時間が経つにつれ、僕とういちさんの話を一つ聞くと、十を知る。呑み込みがとても早く、「なるほど。つまり、こういうことですね」なんて具合で、買い目をすぐに理解してしまうのだ。

 あまりに賢い若手を見て、僕とういちさんは少し打ちひしがれた。ういちさんは僕より少し年齢が上だけど、僕らが若かった頃、こんなに賢くて若い奴をギャンブルの世界や芸人の世界で見たことなんてなかったからだ。右も左もダメ人間ばかりで、一を聞いても、その一すら理解していないような奴しかいなかった。

 その中でも、僕らは比較的賢いと思われるようなタイプで、ここまで何とか生きてこれた。でも、今は本当に頭の良い人があらゆるジャンルに登場して、「ダメ人間は行き場を失くしてしまうかもしれないですね」と僕は口をすぼめた。なんだか背中に寂しさを感じた日だった。

 その数日後、ABEMAの競輪の仕事でチャンス大城さんと一緒になった。大城さんは、企画の中で比較的勝利を重ね、この日も余裕を持って勝負に臨んでいた。ところが、最終レースを前に急にテンパり始めて、「もうダメや。あかん……あかん!」。事態が飲み込めない僕らをよそに、

「なんでこんな最後に失敗してもうたんやー!」

 そう叫んだ。まだ最後のレースは始まっていないのに?

「大城さん、落ち着いてください。最後のレースはこれからです。最後の失敗はまだしてないです。手元にポイントもたくさんあるじゃないですか。めっちゃ勝てる可能性が高いですよ」

 説明する僕を制止して、「あかんねん」としか大城さんは発しない。一体何があかんねん。最終的に、大城さんは意味がわからない賭け方をして自爆した。

 僕は、大城さんの姿こそ未来に残していくべき芸人の無形遺産だなと確信した。賢いよりも面白いが見たい。賢いは紐解ける。だけど、この面白さは紐解けない。

 少し前、NSCの合宿に僕たち平成ノブシコブシはMCとして参加した。合宿には芸歴5年目くらいの若手もいて、その一組にイチゴがいた。彼らは、今年配信されたYouTubeの「吉本興業チャンネル」のネタバトル企画「100×100」という大会で優勝したコンビだ。その企画でMCを担当した僕は、以来、イチゴの存在が気になって、顔を合わせたときは近況を聞くような関係になっていた。

 ボケのイクトは、浮かない顔で「大学お笑いばっかですよ。俺らなんて全然人気がない」と話していたけど、お前らなら大丈夫だよ。僕は、お前らのような持たざる者こそが、大きな風穴を開けてくれると信じている。たしかに賢さはないかもしれない。だけど、答えのないことを恐れずにやれるお前らのような笑いこそ、腹の底から笑ってしまうことを知っているから。

天才、元巨人軍元木さんに聞く、本物のスターとは!講座【徳井健太の菩薩目線 第222回】

2024.10.31 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第222回目は、チャンスの考え方について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 品川庄司の庄司さんが、こんなことを話していた。

「自分に打席が回ってくるとき。前のバッターがアウトだった場合、自分のハードルは上がるけれど、その分、目立つことができるかもしれない――。でも、これは普通の考え方で、『前のバッターがホームランを打つ。そして、次の打席の自分も連続してホームランを打つ。そうすれば、もっと目立てる』。これが本当のスターだよ」

 先日、ボートレース浜名湖で、元読売ジャイアンツの元木大介さんと2人きりで生配信をする仕事をした。予想をしながら、合間にトークもする。その中で、「ボート以外の話もたくさんしてほしい」とスタッフさんから言われていた僕は、庄司さんの言葉を元木さんにぶつけてみることにした。

 すると元木さんは、「そりゃそうだよ。だって、コスパ良くない?」と答えた。元木さんの考えを要約すると、次のようなことになる。

 例えば、同点で迎えた9回裏ツーアウトで走者がいないとき。ヒットを打っても、スポーツニュースで取り上げられることはない。一方、同じ状況で満塁だった場合、ヒットを打てば必ずスポーツニュースで使われる。ヒット一本の意味は変わらないのに、テレビに映るか映らないかといった視点で考えると、同じ一本でもコスパはまったく違うものになる。

「さすがスターだな」と僕はうなった。たしかに、1985年の阪神タイガースバックスクリーン三連発は、バース、掛布、岡田が三者連続でホームランを打ったから、伝説的な映像として繰り返し流れる。仮に、違う回にそれぞれがホームランを打っていたら、すべてのホームランが取り上げられていたかどうかは分からない。同じホームランなのに、立て続けにバックスクリーンに打ち込んだから今も語り継がれる。

 ということは――。映像的な視点に立ったとき、甲子園の最後のバッターは、必ずしも悲観するものではないのかもしれないと思った。もちろん、最後の打者は悔しいに決まっている。でも、負けたチーム全員が悔しい。その中で、唯一、テレビを見ている人に分かりやすく悔しさを伝えられるのも、最後のバッターだけなんだ。同じアウトでも、結果として特別なアウトになっている。

 元木さんは、プロ野球は実力がある者だけが集まって、なおかつ運まで持っているような天才ばかりが集まっている世界だと話していた。強い人間しか生き残ることができないとも付言していた。

 甲子園の決勝の舞台で、松坂大輔がノーヒットノーランを成し遂げたとき、「松坂しか映ってないよね」と元木さんは言う。一方、田中将大と斎藤佑樹が投げ合った決勝は、最後、三振を奪った斎藤佑樹も、切って取られた田中将大も映っていたと続ける。これは、双方ともにそれだけの実力があるから映像として切り取られた……つまり、2人がプロ野球の世界に来たことは必然的なことだよね、そう元木さんは教えてくれた。

 お笑いもすごく似ているところがある。同じようにウケた笑いでも、映像で使われる笑いと、使われない笑いでは、雲泥の差がある。映像で使われるような笑いを繰り出せる人は、生き残れるだけの強さを持っている芸人だ。

 それだけじゃない。「コスパが良い」という元木さんの発想は、そっくりそのまま僕たち芸人にも当てはまる。自分がカメラに抜かれたときに会心の一撃を放てる人は、少ない燃費で高いリターンを得るわけだから、周りの人間を圧倒する。面白い人間ばかりが集まっているお笑いの世界でも、スターは一等星くらい分かりやすく輝いている。

 芸人の世界で、「チャンスに強い」というのはどういうことなんだろう。

 改めて考えてみると、僕個人は芸人にとってチャンスはピンチだし、ピンチはチャンスだと思っている。逆説的かもしれないけれど、ピンチの有無がチャンスの有無になることに鑑みれば、チャンスに弱い人というのは、ピンチをピンチのままにしてしまう人なんだろうなと思う。「ここで打てなかったらどうしよう」ではなくて、「ここで打ったらヒーローだよな」というマインドを持っている方がやっぱり強い。そういう人がチャンスをものにするし、前の打席の人も打ってくれるんだろうな。

赤ちゃんファースト、世界一のコスパ「カラオケパセラ」に天国があった!【徳井健太の菩薩目線 第220回】

2024.10.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第220回目は、「カラオケパセラ」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 赤ちゃんを育てていると、「行く場所を選ぶ」という人は多いのではないでしょうか?

 現在、僕たちは1歳の赤ちゃんを育てています。僕は、赤ちゃんと行動するときに、あまり難しく考えていないのですが、奥さんは気にするようで、ご飯を食べに行くにしても、「赤ちゃんがぐずったりしても大丈夫か」とか「赤ちゃん用のイスがあるか」といったことを考えています。

 僕は、赤ちゃんが泣いたからといって、周りに迷惑をかけているつもりもないし、彼が成長していく上で必要なことだと思っているので、周りの目を気にしない。まぁ、気にしないということを気にしているとも言えるので、ベクトルが違うだけで、奥さん同様、「気にしている」のかもしれない。

 皆さんは、「カラオケパセラ」をご存じでしょうか? 「知ってるに決まってんだろ」と目くじらを立てたアナタ。実はパセラは、東京、横浜、大阪にしかないということもご存じで? 

 新宿や渋谷、池袋、上野といった都心の繁華街に馴染みのある人であれば、「カラオケパセラ」は一般的でも、そうではない人からすればピンとこないかもしれない。東京に暮らす僕たちにとって、「カラオケパセラ」は当たり前の存在だけど、非東京では当たり前ではない、なんとも不思議な存在でもあるのです。

 知っている人にしか伝わらなくて恐縮ですが、「カラオケパセラ」と言えば、ハニートーストですよね? 僕もそのイメージが強く、若い頃にちょこちょこ通っていた――その程度のイメージしかありません。

 ところが調べてみると、“新宿の「カラオケパセラ」が子連れにとって使い勝手がいい”らしい。そこで先日、僕も奥さんもカラオケが好きなので、新宿の靖国通り店に三人で行ってみることにしました。

 結論から申し上げると、小さな子ども育てている人にとって新宿靖国通り店は、天国に一番近い場所でした。

 パセラを運営している親会社は、ホテルやレストラン、ウェディング&パーティースペースなど多角的な展開をしている。だからなのか、カラオケボックスとは思えないほどアメニティが充実していて、おむつまで無料……ひっくり返りそうになりました。プランに応じて利用できるものは変わってくるのですが、とにかく子どもが飽きないような工夫がいたるところに張り巡らされているのです。

 部屋に入れば、終始、キッズチャンネルが流れているし、子どもが遊べるような玩具も豊富。もちろん、ドリンクも無料です。「授乳中」というドアサインまで用意してあり、これをドアに掲げておけば、ホテルの「Please Don’t Disturb」よろしく、スタッフさんが入ってくることもない(ノックをすることもない)。ハニートースト一色だったパセラの思い出は、入店からものの10分程度で、子育て組の楽園として上書きされたほどでした。

――気が付くと、僕らは8時間もいました。

 料金は3時間パックと5時間パックがあるのですが、夫婦2人でまさか8時間も歌うなんて。どこのウッドストックだよって。

 子どもはキャッキャウフフと楽しそうにしているし、僕ら夫婦はカラオケで盛り上がる。こんなに気兼ねなく子育て世代が楽しめる場所が世の中に存在したのかと思うと、なんだかんだで僕自身、やっぱり「気にしないことを気にしていた」んだなと再確認しました。「お時間です」の電話がかかってこなければ、僕らは肉体が朽ち果てるまで、ストレスフリーのネバーランドに居続けたと思います。世界は、自分次第で広げられるんですね。

 周りの目を気にすることもなければ、子どもに必要なものまで揃っている。入店したとき、各部屋の前に利用者のベビーカーがずらりと並んでいたのが印象的だったのですが、すでに保護者から絶大な支持を集めているんだなということが分かりました。大納得です。

 ちなみに、お酒も飲んでご飯も食べて8時間歌って、お会計は15000円ほどでした。お酒を飲まなかったらもっと安いはず。8時間はどうかしていると思いますが、3~4時間であればとてもリーズナブルに家族の思い出を作ることができると思います。

 僕たちは、「カラオケパセラ」をナメていた。すべての「カラオケパセラ」が、ファミリー向けに特化しているわけではなさそうなので、利用する際は事前に確認してから行くことがオススメですが、どうしてもっと知られていないのか、本当にナゾ。店舗によってはライブやイベントができるスペースがあったり、ダーツバーを有していたりと、違うジャンルに特化しているようで、日本の企業努力は恐るべしです。異様な進化を遂げるジャパニーズクオリティ。子育てに奮闘するママさん、パパさん。誰にも気兼ねすることなく時間を過ごせるネバーランドが、新宿にあったんです!

僕の思う『(株)世界衝撃映像社』で教え鍛えてもらった、ロケの極意!【徳井健太の菩薩目線 第214回】

2024.08.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第214回目は、テレビ番組の配慮ついて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 昼間、ボーっと情報番組を眺めていると、多数の飲食店が集うフードフェスティバルのような場所から中継が行われていた。なんでも、日本一のハンバーガーを決める「JAPAN BURGER CHAMPIONSHIP 2024」なる大会が、さいたまスーパーアリーナで開催されているらしく、出場しているだろうハンバーガー店のオーナーさんがインタビューに応じていた。

 僕は少し体を起こして見入った。というのも、話をしている「塩見skippers’(スキッパーズ)」という店名が気になったからだ。フリッパーズギターと関係あるのかな、スキッパーシャツに由来しているのかな。skippers’という響きがどこか親しみを覚え、とても良いネーミング……どうしてこの店名になったんだろう? そんなことを思いながら、アナウンサーの言葉を待っていた。

 だけど、待てど暮らせど店名の由来には触れない。でも、僕の疑問は氷解した。インタビューを受けているオーナーさんは、とても分かりやすいすきっ歯の持ち主で、前歯をモチーフにしているTシャツまで着用している。確実にこの店名が、取材に応じているオーナーさんの前歯に関係していることは明らかだった。その後、気になって調べてみると、やはり店名はすきっ歯に由来すると話している動画を見つけた。

 誰よりも近い場所にいたアナウンサーが、店名について触れることは最後までなかった。僕ら芸人だったら、おそらく触れていたであろうことを考えると、立場によってこうも話の内容は違うのかと、少し考え込んだ。

 言われてみればこのご時世、触れないことがもっとも無難ではあると思う。でも、ものすごくキャッチーでセンスのある店名だと感じた一視聴者の僕からすれば、気になって仕方ない。おまけに、どう考えても答えは明らかで、その上、めちゃくちゃおいしそうなハンバーガーを作っている。「面白いお店だな」なんて興味のよだれがダラダラと流れ出てしまっているわけだから、まったく触れないことにモヤモヤした。ましてや、自らTシャツで強調しているくらいだから、このお店を取材する以上は触れてあげてもいいのでは――。情報番組だから優先すべき話が他にあったとしても。

 例えば、聞き方次第でまったく導線って変わってくると思うんです。

「店名がすごくユニークでかっこ良いと感じたのですが、どうしてなんですか?」と振ってみて、取材に対応している人自らが打ち明ければ、“直接的”な聞き方にはならない。

 街でロケをするとき、やっぱり僕らは撮れ高を気にしてしまう。そのため、ちょっとピーキーだったり、尖がったりしていそうな見た目の人に話を聞きに行く。このとき、「お父さん、ヤバそうですね?」とか「お父さん、仕事してなさそうな見た目してますね」なんて聞いたら一発レッド。即退場。でも、「お父さん、日中から楽しそうですね。何されてるんですか?」と聞いて、その人自身が「昼から酒よ。酒最高」と話す分には問題ない。「え? こんな時間から? お仕事は!?」と聞き返して、「先月辞めた!」なんて言葉が返ってきたら、結果的にみんながハッピーエンドを迎えられる。

 アナウンサーにこういったことを求める必要はないと思う一方で、不特定多数の視聴者が見ているテレビ番組である以上、インタビュアーは視聴者のハテナや興味関心に対して最低限もがいた方がいいんじゃないとも思う。そのもがきを回避して、面倒なもの(になりそうなもの含む)をスルーしてしまうと、配慮というか、排除じゃんって寂しくなってしまう。

 自分自身、いつからこんなことを考えるようになったんだろうと振り返ってみると、『(株)世界衝撃映像社』に原点があるような気がする。番組では、僕らは海外ロケをする若手芸人という一つの駒に過ぎなかった。ディレクターが求めているのは、僕らの感想ではなくて、現地の人がどう思っているか――、「それを聞き出してくれ」と僕らは耳にタコができるくらい言われていた。僕らを通して、そこで暮らす人々の面白い姿や言葉を届ける。僕らは媒介者に過ぎない。

 どう考えても、「この料理でお腹がいっぱいになるわけない」と思うけど、自分の口から、「これでお腹いっぱいになるんですか?」なんて直接的な質問は言えない。 「本当はもっと違うものを食べたかったりしません?」、そう聞くことで、原住民の本音を引き出すように努めた。たくさん鍛えられた原点だったなって思う。

 主役は世界の人々だから、使われるのはその姿。自分のコメントが編集で切られることは当たり前だったから、「現地の人のコメントが生きているのは、自分の振りのおかげなんだ」と思うようにして、自分を納得させていた。よくタレントさんや芸人さんは、コミュニケーション能力に長けていると言われるけれど、一日にしてならずなんです。後天的に培われたものの方が分厚いのではないかと思う。

 聞き方次第で好転するし、暗転する。そんな思いもあって、もがくことから避けて、「触れない」っていうのはものすごくもったいないことだと思うんですよね。

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