鈴木寛の「2020年への篤行録」
第10回 サッカーW杯にみたメディアの病理

 サッカーW杯・ブラジル視察から戻ってみて、「サッカーは人生の縮図」というイビチャ・オシム元日本代表監督の言葉を身に染みて感じます。ブラジル視察の感想を東京ヘッドラインの読者向けにメディア論の視点から述べさせていただきます。

 本郷にあるサッカー協会のオフィス前に行くと、十数人の男性が暑い中、外にたむろしている光景が目に入ります。サッカー協会を担当するスポーツ紙や一般紙の記者たちです。協会に大きな動きがありそうな時は、ここにテレビカメラのクルーも加わって、「メディアスクラム」が出来ることもあります。彼らは、大仁邦彌会長や、原博実技術委員長ら監督の後任人事のカギを握る幹部の方々がビルに出入りするところを待ち構えています。

 そして、「ぶら下がり」といって、例えばビルの前に横づけされた車から関係者限定の室内に移動するまでの間、取り囲んで取材してきます。時にはICレコーダーを突きだし、「人事は決まりましたか?」等と、その場で回答が出るはずもない無意味な質問を繰り返します。スポーツの記者さんたちは割とカジュアルな服装が多く、永田町・霞が関で出くわすスーツ姿の政治部記者とはカルチャーが違うようにも思いますが、やっていることには大差ありません。官房長官の記者会見で、目の前の記者たちが質問もせずにパソコンに一生懸命打ち込んでいる場面をテレビで見たことがありませんか? 以前は永田町くらいかと思いきや、最近は企業の社長会見、スポーツの記者会見の現場にも広がりつつあります。

 いまはネットの動画中継もあるので、会見に出てきた人物の発言を書き起こすくらいなら、その現場にいなくても出来る仕事です。記者会見に出席する記者は、利害関係のない第三者、ジャーナリズムの体現者としてのウォッチャーの役回りを担っているはずです。以前の発言と変化やブレが無いのか? ほかの関係者の話していることと矛盾は無いのか? あるいは事実関係に誤りがあるのか? 問題が何も無くても、せっかく現場にいるわけですから臨場感を伝えることだけでも意義があるというものです。残念ながら無心に「キーパンチャー」に徹する記者たちの姿から、思考力は一切感じられません。

 これでは当然、まともな分析記事を書ける記者があまり育ちません。日本代表の敗戦総括をせずに、新監督の人事ばかりを報じているだけでは、読者・視聴者に考える材料を提供できません。4年前、ザッケローニさんの就任発表当日には、あるスポーツ紙がザッケローニさん就任を特報し、もう一紙は別の人物を挙げる誤報をしました。発表を先取りすることを「特ダネ」扱いし、本質的な報道をしていない典型的な事例です。

 それにしても、本郷の地元住民や近隣の会社関係者がいぶかるような「から騒ぎ」は、代表監督の後任問題が落着するまで続くのでしょうか。日本人がサッカーを本質的・多角的に考えられるようになるには、メディア側の意識改革も必要です。あるいは他業界と同じく、既存のメディアに刺激を与える、新規参入も待ち望まれます。
(東大・慶大教授、日本サッカー協会理事、元文部科学副大臣、前参議院議員)