【短期集中連載】〈日本で最も歴史の長いプロ格闘技・シュートボクシング40年史〉第5回 闘い方も身のこなしもトリッキーだった平直行
来る11月24日、東京・国立代々木競技場第2体育館で創立40周年記念興行「〜SHOOT BOXING 40th Anniversary〜S-cup×GZT 2025」を行うシュートボクシング。プロ格闘技団体として同じ名前では史上最長となる40年という長い歴史を振り返る。(文・布施鋼治/写真提供・一般社団法人シュートボクシング協会)
80年代から90年代にかけ、シュートボクシング(SB)を起点に時代を疾走した男がいる。ホーク級のトップランカーとして活躍した平直行だ。大人気の格闘技漫画『グラップラー刃牙』のモデルとなった人物といったほうが通りはいいかもしれない。
関わった競技はSBのほか、MMA、ブラジリアン柔術、K-1、シューティング(まだプロ化していない頃)、大道塾、正道会館、極真空手、ボクシングと数えきれない。現役の晩年はみちのくプロレスでインディペンデントワールド世界ジュニアヘビー級王者として活躍した時期もある。
まさに武芸十八班。どんな技を出すか分からないことから“格闘技のオモチャ箱”と呼ばれていたのも頷ける。
1987年1月31日のプロデビュー戦からトリッキーな動きで観客を魅了。見事なKO勝ちを飾ったが、続く第2戦ではトリッキーに動きすぎて逆にKO負けを食らってしまったのも、平らしいといえば平らしかった。
勝っても負けてもKO決着は、SBの創始シーザー武志が最も好むファイトスタイルだ。自ら積極的に攻めていないと、倒し倒されということにはならない。
シーザー引退後、SBのエースに収まった吉鷹弘の前に最初に立ちはだかったのも、この平だった。初戦となった1988年7月9日は延長戦の末、平がTKO勝ち。1990年8月26日、日本ホーク級王座決定戦として組まれた再戦では吉鷹が3RにTKO勝ちを収めリベンジを果たした。
再戦を迎えるまで、吉鷹は大村勝己、平、そしてロニー・ルイスという強豪を相手に3連敗を喫している。このときの途方もない試練がなければ、SBの屋台骨を支える吉鷹は生まれていなかったかもしれない。
筆者の脳裏には88年9月17日の後楽園ホールで行われた平VSロミサン・ソータニクンのシュートボクシングVSムエタイの一戦が記憶に残っている。試合前、ロミサンがムエタイの伝統的な儀式に則りワイクーを踊るリングで平は相撲の四股を踏む。
試合が始まり、ロミサンがムエタイの正攻法のリズムで対峙しようとすると、平はそれを無視するかのようにその場で制止して不動の構えを見せたり、胴回し回転蹴りを見せるなど格闘技のオモチャ箱的な世界観をぶつける。ムエタイのリズムを壊すためには、フルコンタクト空手のそれが役立ったという。
そして2Rにはロミサンの虚をつく形で繰り出した飛びヒザ蹴りでダウンまで奪ってしまう。このダウンや反則のヒップドロップがこのタイ人を本気で怒らせてしまった。最後の最後まで平は試合をかき回したが、ロミサンに2度ダウンを奪い返され、逆転の判定負けを喫してしまう。いまよりも打倒ムエタイのハードルが遥かに高い時代だっただけに、平の善戦は大いに評価された。
SBだけではなく、K-1やキックでも闘ったマンソン・ギブソンとの一騎討ち(90年7月1日)も記憶に残る一戦だった。マンソンがバックキックを出せば、平は胴回し回転蹴りで応戦する。マンソンが十八番のバックブローを放てば、平も同じ技でやり返す。しかも、試合開始早々、平が見せた構えはブルース・リー張りの右前の横構えだった。オーソドックスなら、左足を前に出し体は右45度に傾けるという正攻法と比較すると、全く異端のスタイルだ。
幼稚園時代にはアニメのタイガーマスクに感化され見様見真似でキーロックを仕掛け、小学校時代には校庭の端から端まで回し蹴りと後ろ回し蹴りを連続して蹴り続けられるワンダーボーイだった。その延長線上にロミサン戦やマンソン戦はあったのだろうか。
その後も従来の格闘技の価値観を破壊しながら、平はキャリアを重ねていく。キャリアの後半はSBを飛び出し、総合格闘技の世界へ。しかしながら、再びSBに舞い戻ってくるあたり、人生もトリッキーだった。
(第6回=11月1日掲載に続く)

