【短期集中連載】〈日本で最も歴史の長いプロ格闘技・シュートボクシング40年史〉第10回 シュートボクシングのためなら死ねる

 来る11月24日、東京・国立代々木競技場第2体育館で創立40周年記念興行「〜SHOOT BOXING 40th Anniversary〜S-cup×GZT 2025」を行うシュートボクシング。プロ格闘技団体として同じ名前では史上最長となる40年という長い歴史を振り返る。(文・布施鋼治/写真提供・一般社団法人シュートボクシング協会)

「S-cup2006」を制した緒形健一

「S-cup2006」で緒形健一が11年ぶりの日本人優勝

 2006年、S-cupを2連覇中の“シュートボクシング(以下SB)の絶対王者”アンディ・サワー(オランダ)に一矢報いた日本人シュートボクサーがいる。同年11月3日、東京・両国国技館で開催された「S-cup2006」で優勝したSB日本ファルコン級(後のスーパーウェルター級)の緒形健一(シーザー)だ。この世界トーナメントでの日本人優勝は1995年の第1回大会以来、11年ぶりの快挙だった。

 緒形は「厳しい現実は夢を叶えるためにある」という言葉を具現化するようなキャリアを重ねていた。勝負の世界ではちょっとでも有名になれば“名前があって弱い相手”を選ぶ輩もいるが、緒形は真逆でいつも「もっと強い相手を」とリクエストするような性格だった。

 デニー・ビル、ラモン・デッカー、シテサック、シェイン・チャップマン。プロ6戦目から拳を交わした海外の強豪は枚挙にいとまがない。それゆえにケガも多く、デニー戦では鼻骨を、シティサック戦では眼窩底を、チャップマン戦では試合中にアバラ骨が折れ肺に突き刺さった。医者から引退を勧められたことは一度や二度で済まない。

 山口県の実家に住む母が大病を患い入院したときには高額な治療費を捻出するため、朝3時から夕方まで働き、それから夜10時過ぎまで練習するというハードな日々を送った。その代償として緒形はストレスと過労で倒れ病院へ搬送された。青春の蹉跌。緒形はグローブを置き、故郷に帰ろうと考え始めた。その矢先、SBの創始者シーザー武志の母からかけられた「人生は死ぬための心構えをするもの。男は男らしく、女は女らしく、精一杯生きなさい」という言葉に深く感銘を受け思い止まった。

 そして「負けたら引退」と覚悟を決めて臨んだギルバート・バレンティーニ戦(1998年4月26日・横浜アリーナ)で勝利を収め、現役続行の意志を固めた。

優勝後に名言

 もっとも、S-cup2006決勝でサワーと当たったとき、緒形の勝利を予想する者はほとんどいなかった。無理もない。2002年11月4日、ワンマッチでの初対決時には4度もダウンを奪われた揚げ句、完敗を喫していたのだ。このときサワーは「緒形はライオンハートの持ち主」と高く評価しているが、そのときの緒形と重なり合わせると、軽々しく「リベンジを」とはいえない実力差を感じた。

 しかも、このトーナメントではダマッシオ・ペイジ(アメリカ)との初戦から試練が待ち受けていた。1R、左ボディーで先制のダウンを奪ったまではよかったが、すぐ右のスイングフックでダウンを奪い返されてしまったのだ。しかし、この一撃で目が覚めたのだろう。続く2R、緒形はボディーブローでペイジに引導を渡した。

 続く準決勝は同門の後輩・宍戸大樹(シーザー)との初対決となった。世代交代を世に問う大一番で、緒形は宍戸の気持ちを真正面から受け止めるかのようにパンチの打ち合いにも応じたうえで判定勝ちを収めた。

 そして迎えたサワーとの決勝戦。勝負のクライマックスは1Rに突如訪れた。緒形が放った渾身の右ストレートが絶対王者のアゴを打ち抜き先制のダウンを奪ったのだ。その後、緒形はピンチらしいピンチを迎えることなく、試合終了のゴングを聞いた。

 最後まで接近戦に強いサワーを懐に入れないように、ストレート系のパンチを多用していたことが勝因だった。3-0の判定勝ちが告げられた瞬間、緒形は勝利の雄叫びをあげた。試合後、緒形は「シュートボクシングのためなら死ねる」という名言を口にし「もっと団体を大きくするために」と自らスポンサー回りをしていることを明かした。

 その後も緒形はケガと闘い続け、2010年になると引退を決意する。本人は現役続行の意志を固めていたが、ドクターストップがかかってしまったのだ。現在はシュートボクシング協会代表として活動する傍ら、大会の運営を担うシーザーインターナショナルの代表取締役として団体の屋台骨を支えている。
(第11回に続く)