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「渡辺直美 (20) in 東京ドーム」。あのライブを超えるライブは、この先もう見られないんじゃないだろうか〈徳井健太の菩薩目線 第270回〉

2026.02.28 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第270回目は、渡辺直美の東京ドーム単独公演について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 去る2月11日、直美がピン芸人として史上初となる東京ドーム単独公演「渡辺直美 (20) in 東京ドーム」を開催し、超満員の4万5000人を動員した。しかも、当日何が行われるかは非公開。それにもかかわらず、VIPうにょ席(アリーナ最前列)100000円、通常指定席12000円、追加販売された注釈付きS席12000円は瞬く間に売れ、配信チケット4000円も飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。

 第267回『菩薩目線』、「主催に才能やカリスマ性、責任感と話題性があれば、お笑いでも音楽でも福袋的ライブは成功するはず」でも触れたように、僕はカリスマが主催するライブであれば、たとえシークレットでもチケットは売れるし、お客さんは必ずついてくるものだと思っている。直美はそれを証明し、ライブの可能性が無限であることを教えてくれたような気がした。なにより、素直に僕は彼女のパフォーマンスに感動した。

 ありがたいことに、僕たち平成ノブシコブシは、『ピカルの定理』仲間ということで、彼女の公演にゲストとして参加させてもらった。コント、音楽、ミュージカルを交えた直美にしかできないステージを間近で見ていて、冗談抜きで「これ以上のライブってあるのかな」と思ってしまった。きっと彼女は謙遜して、「もっとすごいのありますから!」って笑うんだろうけど、その余韻はすさまじく、家に帰った後も、「あれを越える空間ってあるんだろうか……サザンのライブとか?」なんて具合に妄想し続けた。

 音楽やお笑いやスポーツの世界は、興奮、熱狂を生む。だけど、音楽のライブを観に行って、腹を抱えて笑うことはないと思うし、お笑いを観に行って全員が「Don’t look back in anger」を歌うような瞬間はやってこない。スポーツも熱狂こそ生むけど、スポーツ‟ならでは”の感動に包まれる。音楽は音楽で、お笑いはお笑いで、スポーツはスポーツで、それぞれ独立した喜びや面白さがある。

 だけど直美のライブは、もう全部が詰まっていた(ように僕には思えた)。音楽的な熱狂、お笑い的な面白さ、スポーツ的な興奮――きっと彼女は、「これをやってほしい」というファンの願いを120%で返すから、異常なハッピー空間を作り出せるのだと思う。‟歩くコールアンドレスポンス”。ミュージシャン属性を持つからなんだろうな。芸人の多くは、人を笑わせたいとは思うけど、「ハッピーにさせたい」「笑顔にさせたい」とは思わないから。

 直美の芸風は、分かりやすい発明品があるわけじゃない。人の曲で踊って、人の歌を勝手に歌う。だけど、お客さんはともに楽しそうに歌って、笑って、熱狂する。これは、直美自体にとんでもないアイデンティティがあるからこそ成立するわけであって、俗っぽい言い方をすれば‟職業・渡辺直美”だからだろう。実際、ライブを終えた直美をバックヤードで待っていると、レディ・ガガの格好をしていた彼女は、レディ・ガガ以上の‟何か”に見えた。パロディでもものまねでもなく、それらを飲み込んでしまう直美の底のなさを見たというか。

 だけど、近寄りがたい雰囲気はなく、何も変わらない。昔から天真爛漫さは抜群だったし、びっくりするくらい‟弱み”を見せるのも変わらない。もしかしたら、それはウソかもしれないし、単にメンヘラ気質なだけかもしれないけど、「もうダメだ」とか「もう終わりだ」とか、まぁよく弱音を吐く。それを聞く度に、僕たちは「いや、全然ダメじゃないから」とレスポンスするんだけど、弱音さえもコールアンドレスポンスとして成立させてしまうんだから、なんて華々しいんだろう――直美がみんなを魅了してやまない要因だと思う。

 ゲストとはいえ、ほんの一瞬でも彼女の伝説に関われたことができてうれしかった。直美のことだから、また近いうちに僕らをアッと驚かせてくれるんだろうな。大爆笑を生むことができる人はいるけど、あの空間を作り出せる人は、やっぱり僕はいないと思う。

全国高校サッカー選手権を見て、サッカーとは愛と恩義のくり返しの文化だったことに気づく!〈徳井健太の菩薩目線 第269回〉

2026.02.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第269回目は、全国高校サッカー選手権大会について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 新宿区に拠点を置くJFL所属のサッカークラブ「クリアソン新宿」にハマって以来、サッカーの試合をよく見るようになった。年末年始に行われた第104回全国高校サッカー選手権大会もテレビで観戦してしまったし、何だったら関連する事前番組まで見てしまった。すっかりサッカーの虜。45歳を過ぎて、こんなにハマれるものがあるとは想像もしていなかった。

 事前番組では、決勝まで勝ち進んだ茨城県代表、鹿島学園の特集をしていた。なんでも、鹿島学園の選手の多くは大阪から入学してきた子が多く、準々決勝の大阪代表・興国高校との一戦は、特別な思いを抱えながらプレーしていたことが予想された。好きなことを続けるって、とても尊いことですよね。

 番組の中で鹿島学園の選手が、「僕のプレーで子どもたちに勇気を与えることができたら」といった話をしていた。まだ17歳、18歳の高校生が、です。僕はいまだに、「子どもたちに勇気を与える」なんて考えたことがないから、その言葉を聞いてシンプルにすごいなと感心した。しかも、鹿島学園を応援している子どもたちに話を聞くと、「鹿島学園の〇〇選手好きです!」と相思相愛。メッシ選手や三苫選手ではなく、鹿島学園の高校生を応援する――。僕はこの関係性に、自分自身が「子どもたちに勇気を与える」という発想にいたらない理由を覗いたような気がした。

 クリアソン新宿の試合を見るようになってから、イベントなどで選手と接するようになった。その中で、サッカー選手の多くが「サッカー教室」(というイベント)を開催していることを知った。こうした「サッカー教室」は、連綿と受け継がれていて、今、「サッカー教室」に参加している選手たちの中には、自分が子どものときに「サッカー教室」で当時の選手たちと触れ合ったという人も少なくないという。

 サッカーは、サポーターを第一に考えている。少なくても僕にはそう映る。勝利したときの喜びを分かち合うのも、第一にサポーター。サポーターあってのサッカーであって、事細かに説明することは難しいけれど、「ファン」とは質感が明らかに違うのだ。

 例えば、海外を想定すると分かりやすいかもしれない。ストリートでサッカーをしているような、決して裕福とは言えない子どもたちは、道具すらままならない。裸足でボールを蹴ることだって珍しくない。そんな子どもたちが、いつからかサッカークラブに所属するようになる。

 もちろん天賦の才能もあるだろうけど、誰かがサポートしなければ、その子が上手くなることはないし、サッカーを続けられることもない。道具を与えてくれたり、アドバイスをしてくれたり、そうした‟街のサポーター”たちがいるからこそ、路地裏から才能が開花するんじゃないかと思うんです。

 施しを受けた子どもたちが、いつかプロサッカー選手になったとき、その収入の一部を路地裏に還元することだってあるだろう。そのサイクルがあるからこそ、ストリートからサッカーはなくならない。どうして世界各地でサッカーをする子どもたちがいるのかと言えば、丸い球さえあれば誰でもでき、その姿を地域や町が見守るカルチャーがあるからだ。

 極端な例かもしれない。だけど、ここ日本でも、サッカーを通じて地域貢献じゃないけど、地域と子どもたちがクロスするような試みが息づいている。少なくても僕は、その雰囲気をクリアソン新宿から感じ取るし、先の鹿島学園の選手と子どもたちの発言を見ても納得してしまう。持続可能な思いが共有され、還元されていくからこそ、まだ高校生なのに「子どもたちに勇気を与える」といった発言が生まれるし、子どもたちも地元の高校生を全力で応援する――。

 僕が、そんな発言にたどり着けないのは、お笑い芸人から何か施しを受けなかったからだと思った。別に恨んでいるわけじゃない。ただ、学生の頃、あれだけ夢中になったお笑いなのに、芸人たちから何かしてもらったことがないのは事実。そして僕自身、芸人になって子どもや学生に何かを与えた試しもない。そりゃ、サッカーとお笑いは違うだろう。けれど、こうしたサイクルが息巻いている文化って強いよねと思う。ないものねだりなのかもしれないけれど。

 お笑いにそんな要素はなくてもいいし、求められていないかもしれない。とは言え、今の時代はお笑いを通じて社会貢献的な視野がないわけでもない。この先、もしかしたら、「あのときイオンモールのイベントで〇〇さんと交わした瞬間があるから、私は芸人になりました」なんて人が増えたり、M-1チャンピオンが「子どもに笑いで夢を与えたい」と言ったりする未来が訪れるのかもしれない。そのとき笑いは、どう僕たちの日常に根差しているのか、それはそれで楽しみなのです。

コア受けな漫才も世帯受けな漫才もどちらも大事、「漫才万歳」!『M-1グランプリ』万歳!〈徳井健太の菩薩目線 第268回〉

2026.02.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第268回目は、‟ある思いやり”について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 12月にテレビ朝日周辺を歩いていると、いたるところに『M-1グランプリ』のポスターや看板が現れる。僕はそれを見るたびに、『M-1グランプリ』が年末の風物詩になったこと、そして街の景色を変えてしまうほどの一大イベントになったのだなと胸が熱くなる。

 その日、僕はライブを観に行くために、大江戸線の六本木駅へと向かっていた。大江戸線は地中深くにホームがあるため、エスカレーターに乗ろうものなら、その先が見えないくらいずんずんと地下に潜っていく。六本木駅に到着して地上を目指すために、再度果てしないエスカレーターに乗っていると、交差する下りのエスカレーターに乗っていた40代ほどの男性が中座、もっと言うと、かなりしゃがみ込むような状態で僕の方へ近づいてきた。しかも、その顔はどこか嬉しそうな感じが漂っていた。

 無数の人がエスカレーターを利用する中、その男性だけがしゃがんでいるわけだから、どうしたって目立つ。違和感を通り越して、不審。「まさか盗撮でもしているのか? こんなにたくさんの人がいるのに堂々と?」。すれ違う瞬間まで、その男性が降りてくる様子を目で追いながら、僕はよからぬことを想像していた。

 だけど、周りは一切とがめる雰囲気はない。それどころか、スマホを取り出し、その男性……ではなく、その背後をなにやら撮影している。何だろうと思って、視線を男性から後方へ移すと、しゃがんでいた男性の後ろには、『M-1グランプリ』2025のテーマである「漫才万歳」という大きな広告がドカンと掲げられていた。エスカレーターを上がってくる人の多くが、目に飛び込んでくるその看板を撮影するためにスマホを取り出し、思い思いに撮影していたのだ。なるほど。しゃがんでいた男性は、自分が広告に被らないようにかがむことで、撮影者に気を配っていたというわけだ。あの笑みも、気を遣うことに対する何とも言えないこそばゆさみたいなものだと思うと合点がいった。僕は誤解をしていたことを申し訳なく思うと同時に、素敵な人とすれ違うことができて、妙な高揚感を覚えた。

 しゃがんでいた人は、広告に気を配れるくらい周りが見えている人だから、きっと「しゃがむ」ことで、「盗撮や痴漢の疑いをかけられるような不審な動き」になっているだろうことは理解しているはず。リスキーな反応をされるかもしれないと分かっていながら、それでもこの時期だけに現れる『M-1グランプリ』の広告を優先し、自分はフレームの外に消える――、一時的にこの世界からいなくなる判断ができるなんて、きっと優しい人に違いない。

 些細な善意は意味がないと言われがちだし、自分が褒められるわけでもないのに、誰かのために行動に移せる。無数の人が昇降するエスカレーターの中にあって、ただ一人周りに気を遣っていた、あの男性に幸あれ。そして、こんな瞬間をもたらすほどに、『M-1グランプリ』は道行く人、一人ひとりにとって無視できないものになったんだなと思った。

 もしかしたら、『M-1グランプリ』はお笑いそのものよりも大きな光を放つものになってしまっているのかもしれない。例えば、テレビで放送されるお笑い番組やバラエティ番組。最近では、世帯視聴率以上にコア視聴率が重視されることが珍しくないけれど、僕個人はどちらも大事だと思っている。とりわけ、世帯視聴率に対するこだわりが強い。自分自身にコア層のファンが少ないということもあるから、コアよりも世帯を意識してしまうんだろうけど、家族や友人と集まったときに、‟なんとなく知っている”‟なんとなく見る”といった存在があったほうがヘルシーだと思うんです。

 つい先日も居酒屋でこんなシーンに遭遇した。隣で話していた60代くらいのおじさんグループの一人が、「魚みたいな名前の漫才やるコンビ……あれって何っていうんだっけ? ホラ、俺たちと同じくらいの年で」と記憶をたどっていた。ひとしきり該当しそうなコンビ名を挙げたところで、ある一人が「錦鯉?」というと、「それだ!」と声を大にして笑っていた。お笑いファンにとっては、「錦鯉」は当たり前の存在でも、世間一般ともなればそんなものだったりする。だけど、それくらいの認知の人たちを笑かすのが芸人の仕事だし、腕の見せ所でもある。幅広い世帯に対してアプローチしていくことも、やっぱり忘れちゃいけないよねって。

 あの日、「漫才万歳」の広告を撮影していた人たちは、普段はそんなにお笑いに関心がないかもしれない。だけど、『M-1グランプリ』というスーパーコンテンツのおかげで、世帯もコアも融和した。しゃがんだ男性は、めちゃくちゃお笑いが好きで、『M-1グランプリ』のすごさを理解しているコアなお笑いファンのような気がした。その男性とすれ違うように写真を取っていた人たちは、世帯的な視点でお笑いを楽しんでいる人……だとしたら、交差する世界はなんて美しいんだろう。健全な社会に立ち会えた気がして、僕の足取りはスッと軽くなった。

コア受けな漫才も世帯受けな漫才もどちらも大事、「漫才万歳」! 『M-1グランプリ』万歳!〈徳井健太の菩薩目線 第268回〉

2026.02.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第268回目は、‟ある思いやり”について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 末の風物詩になったこと、そして街の景色を変えてしまうほどの一大イベントになったのだなと胸が熱くなる。

 その日、僕はライブを観に行くために、大江戸線の六本木駅へと向かっていた。大江戸線は地中深くにホームがあるため、エスカレーターに乗ろうものなら、その先が見えないくらいずんずんと地下に潜っていく。六本木駅に到着して地上を目指すために、再度果てしないエスカレーターに乗っていると、交差する下りのエスカレーターに乗っていた40代ほどの男性が中座、もっと言うと、かなりしゃがみ込むような状態で僕の方へ近づいてきた。しかも、その顔はどこか嬉しそうな感じが漂っていた。

 無数の人がエスカレーターを利用する中、その男性だけがしゃがんでいるわけだから、どうしたって目立つ。違和感を通り越して、不審。「まさか盗撮でもしているのか? こんなにたくさんの人がいるのに堂々と?」。すれ違う瞬間まで、その男性が降りてくる様子を目で追いながら、僕はよからぬことを想像していた。

 だけど、周りは一切とがめる雰囲気はない。それどころか、スマホを取り出し、その男性……ではなく、その背後をなにやら撮影している。何だろうと思って、視線を男性から後方へ移すと、しゃがんでいた男性の後ろには、『M-1グランプリ』2025のテーマである「漫才万歳」という大きな広告がドカンと掲げられていた。エスカレーターを上がってくる人の多くが、目に飛び込んでくるその看板を撮影するためにスマホを取り出し、思い思いに撮影していたのだ。なるほど。しゃがんでいた男性は、自分が広告に被らないようにかがむことで、撮影者に気を配っていたというわけだ。あの笑みも、気を遣うことに対する何とも言えないこそばゆさみたいなものだと思うと合点がいった。僕は誤解をしていたことを申し訳なく思うと同時に、素敵な人とすれ違うことができて、妙な高揚感を覚えた。

 しゃがんでいた人は、広告に気を配れるくらい周りが見えている人だから、きっと「しゃがむ」ことで、「盗撮や痴漢の疑いをかけられるような不審な動き」になっているだろうことは理解しているはず。リスキーな反応をされるかもしれないと分かっていながら、それでもこの時期だけに現れる『M-1グランプリ』の広告を優先し、自分はフレームの外に消える――、一時的にこの世界からいなくなる判断ができるなんて、きっと優しい人に違いない。

 些細な善意は意味がないと言われがちだし、自分が褒められるわけでもないのに、誰かのために行動に移せる。無数の人が昇降するエスカレーターの中にあって、ただ一人周りに気を遣っていた、あの男性に幸あれ。そして、こんな瞬間をもたらすほどに、『M-1グランプリ』は道行く人、一人ひとりにとって無視できないものになったんだなと思った。

 もしかしたら、『M-1グランプリ』はお笑いそのものよりも大きな光を放つものになってしまっているのかもしれない。例えば、テレビで放送されるお笑い番組やバラエティ番組。最近では、世帯視聴率以上にコア視聴率が重視されることが珍しくないけれど、僕個人はどちらも大事だと思っている。とりわけ、世帯視聴率に対するこだわりが強い。自分自身にコア層のファンが少ないということもあるから、コアよりも世帯を意識してしまうんだろうけど、家族や友人と集まったときに、‟なんとなく知っている”‟なんとなく見る”といった存在があったほうがヘルシーだと思うんです。

 つい先日も居酒屋でこんなシーンに遭遇した。隣で話していた60代くらいのおじさんグループの一人が、「魚みたいな名前の漫才やるコンビ……あれって何っていうんだっけ? ホラ、俺たちと同じくらいの年で」と記憶をたどっていた。ひとしきり該当しそうなコンビ名を挙げたところで、ある一人が「錦鯉?」というと、「それだ!」と声を大にして笑っていた。お笑いファンにとっては、「錦鯉」は当たり前の存在でも、世間一般ともなればそんなものだったりする。だけど、それくらいの認知の人たちを笑かすのが芸人の仕事だし、腕の見せ所でもある。幅広い世帯に対してアプローチしていくことも、やっぱり忘れちゃいけないよねって。

 あの日、「漫才万歳」の広告を撮影していた人たちは、普段はそんなにお笑いに関心がないかもしれない。だけど、『M-1グランプリ』というスーパーコンテンツのおかげで、世帯もコアも融和した。しゃがんだ男性は、めちゃくちゃお笑いが好きで、『M-1グランプリ』のすごさを理解しているコアなお笑いファンのような気がした。その男性とすれ違うように写真を取っていた人たちは、世帯的な視点でお笑いを楽しんでいる人……だとしたら、交差する世界はなんて美しいんだろう。健全な社会に立ち会えた気がして、僕の足取りはスッと軽くなった。

主催に才能やカリスマ性、責任感と話題性があれば、お笑いでも音楽でも福袋的ライブは成功するはず〈徳井健太の菩薩目線 第267回〉

2026.01.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第267回目は、シークレットライブについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 前回の『菩薩目線』で、ライブはもっと福袋的な見せ方があっていいと触れました。例えば、「ライブハウスの店長オススメのバンド3組」とか、そのライブハウスにゆかりのある有名アーティスト〇〇がオススメする「今、見るべきバンド3組」とか。その際、演者の名前はあえて出さない。「この人がオススメするんだから面白そう」というお客さんの興味、その一点突破に思いをかける。

 昨今、ハズレを引きたくない人が増えているから、こうしたシークレットライブは悪手になるかもしれない。だけど、音楽ファンを信用するという意味においては、やってみる価値はあるのではないかと思うんです。というのも、お笑いの世界では、昨年8月に似たようなことを実際にやっているから。

 きっかけは、はんにゃの金田と小薮さんの口論だった。といっても、酒の席で金田が一方的に「東京の方がすごい」とまくし立てた結果、小藪さんが「だったら白黒つけようやないか」と腰を上げただけなんだけど。その一部始終は、YouTubeチャンネル『ざっくりYouTUBE』で確認できるので、まだご覧になっていない方は時系列を追ってみると面白いと思います。

 ベロベロとはいえ、「大阪すごいですけど、東京の方がすべてにおいて上なんで」などと言ってのける、金田のよく分からない根拠はどこから来るのか分からないけど、こうして去る8月、『東京芸人vs大阪芸人 どっちがおもろいか見てるお客さんの投票で決める!!』と題したライブが、ルミネtheヨシモトで行われることになったのだ。

 このライブは、先鋒戦から大将戦まで――つまり、東京から5組、大阪から5組が登場し、対戦するというものだった。しかも、東京からは「くまだまさしさんが参戦する」「大阪からは天竺鼠が参戦する」という情報以外はシークレット。当日、残りの8組は誰が登場するのかまったく分からないままチケットが売り出されたにもかかわらず、飛ぶ鳥を落とす勢いで完売。この背景には、YouTubeで小薮さん、そして金田が定期的に「東京VS大阪」を煽っていたことも大きいけど、何にしてもやり方次第でシークレットライブは、話題性や購買力を向上させることができる――。物語に加え、小藪さんと金田というブランド力があるからこそ、秘匿性が話題性へと裏返ったのだ。

「一体、誰が登場するんだろう?」。そんなワクワクが渦巻いている中に登場したのが、我々、平成ノブシコブシである。金田から直接オファーがあって、僕らは受けることにしたものの、実は僕たちですら誰が東京代表として選ばれているのか、そして小薮さんが誰を大阪代表にしているかも知らなかった。だからなのか、僕らも妙な緊張感を抱えながらルミネに向かったし、何とも言えない高揚感を覚えながら出番を待っていた。

 幕が開けると、大阪代表はチュートリアル、笑い飯、NONSTYLE、ちゃらんぽらん富好、天竺鼠。瀬下にいたっては、このライブが本格的な復帰の場というサプライズ。対して、東京代表は僕たち平成ノブシコブシ、ザ・パンチ、インポッシブル、くまだまさし、品川さんと脇田さんの即席コンビ・シナガワッキー。どう考えても弱すぎます。僕だって、こんなこと言いたくない。でも、小藪大阪最強打線に対して、我々金田東京軍の線の細さったらない。金田、そりゃないって。東京代表の芸人は、みんな、「たぶらかされた」と思ったに違いない。

 大将戦は、シナガワッキー VSチュートリアルだった。M-1王者であるチュートリアルさんに、即席コンビが立ち向かうって……。竹やりを持たされた品川さんと脇田さんのことを思うと、僕らは袖で、無能な指揮官をうつろな目で見つめるしかなかった。金田ぁ、金田よ。

 金田はひどく反省していた。でも、結果的に金田の小薮さんに対する根拠のない一言がなければ、この興行は実現しなかったわけで、その一点だけでも金田はスーパーファインプレーをしたと思う。当日、誰が登場するかも分からないのに、たくさんのお客さんが来て、「面白い」と言ってくれたのは、金田の野心があったからじゃないか。

 それに、このフォーマットはいろいろなことができそうじゃないか。小薮さんがオススメする大阪若手5組VS金田がオススメする東京若手5組の「東西若手死闘編」とか。あるいは、「テレビ向きじゃないけど見て損のない東西芸人地下闘技場編」とか。そういった可能性があることを示したという意味で、僕は『東京芸人vs大阪芸人 どっちがおもろいか見てるお客さんの投票で決める!!』はとても素晴らしいライブだったと思うし、その第一回目に登場することができてうれしかった。

 それなのに、金田はそこまで考えていないから困った。しかも、ひどくダメージを負ったようで、「もうやりたくない」らしい。自分で始めた物語を、自分で終わらすスピードが早すぎるだろ。お前の無鉄砲の発言が奇跡みたいなライブを作ったんだから、そんな簡単にやめるなんて言うなよ。何も考えずにやってみたらいい。東京芸人の監督がはんにゃ・金田ってところを含めて面白いんだぜ。だから、次回はもうちょっと策を練ろうな。

鹿鳴館、ありがとさよなら。けれど、ライブハウスで得たアタリハズレは終わらない!〈徳井健太の菩薩目線 第266回〉

2026.01.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第266回目は、ライブハウスについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ライブハウス『目黒鹿鳴館』が、45年の歴史に幕を閉じた。若い頃は、よくビジュアル系のバンドを見るために通っていたことを思い出す。なじみのある場所が、また一つ消えたと思うと、何ともやりきれない寂しさを感じる。

 ライブハウスは、僕にとってとても大切な場所だ。若い頃に訪れていたライブハウスは、そのどれもが無造作にフライヤーが置かれていて、対バンなんて当たり前。ライブハウスは、自分が知らないバンドと出会える貴重な場所でもあった。

 お金はないから、もったいない精神でアタマからケツまでいる。すると、僕のお目当てのバンドが登場する前に演奏していたバンドの音楽に食らってしまって、そのままCDを購入し、家に帰って聴き直すなんてこともあった。金がないのに何を散財してんだか。だけど、書店と一緒で、セレンディピティのある場所。目的と動機が良い意味でかけ離れた稀有な場所だから好きだった。

 今は、なかなかそういう空間に巡り会うことができなくなったと感じる。僕がおじさんになったからかもしれないけど。コロナ禍のとき、ライブハウスの経営は危機に直面したから、推し活的なライブも増えた。それ自体は悪いことじゃないけれど、なんだか似通ったバンドやグループが集まる傾向が強くなって、先述したような偶然の出会いは減ったように感じる。それに、ライブ演奏後に、そのまま物販をすることも珍しくないから、それを目的に来たファンたちは、ステージで演奏している他の知らないグループを見ることなく、物販ブースへ向かってしまう。そういった光景を眺めていると、時代の流れをとても感じるようになった。

 今、ステージで歌っているバンドやグループ――から発売されたものではない、他のバンドのTシャツを着た人が、ステージを見つめている姿は、とても有機的だ。この人たちは、出会いを大切にする人なんだなって。

 僕たちだってそうだ。ルミネで大トリを務める中川家さんを目的に来た人が、その前座である平成ノブシコブシをたまたま見て、「意外とノブコブって面白いじゃん」なんて思ってくれたら、めちゃくちゃうれしい。今日来てくれてありがとう。

 SNSやAIの力で、自分の好みに近いバンドやグループを簡単に探すことができるようになった。機械にオススメされるのは、もう常態化していて、ハズレを引かないための取捨選択がしやすくなったとも言える。たしかに、そういった判断は、生活における合理的な部分に関しては有意義なことだよね。

 だけど、音楽やお笑いって、合理的であるものなんだろうか。もっとあやふやで訳がわからなくていい。非合理で結構。何が出てくるかわからないから面白いんじゃないの。

 合理的な感性ってのは、お互いに矛盾している状態のような気がするんです。自分が好きなものに関しては余白を作りたいじゃないですか。「これはいいな」「これは合わないな」って飲み込む余白。僕は、そんなことを考えている人がそれなりにいるんじゃないのかと思いたい。もし一定数いるのなら、ライブハウスという場所はものすごく底力を持っている空間なのではないかと思う。偶発性を自分から取りに行ける場所って最高じゃないですか。

「俺も知らなかったけど、あのバンド、意外とよかったね」

 なんて言える瞬間は尊いんです。自分が選んだんじゃなくて、誰かが選んだものを共有して価値を見出す。そういう福袋的な時間って、もっとあっても良いと思うのに。ハズレを引きたくないという意見は分かるんです。でも、「音楽が好き」であれば、たとえそれがアイドルグループであろうが、ロックグループであろうがクラシックであろうが、見て損はなかったと思えるはず。ハズレって、結局、自分次第なんだから。

秋田からの便り、疲れてるんなら寝るな! 走れ、食え、推せ、エナジー浴びろ!〈徳井健太の菩薩目線 第265回〉

2026.01.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第265回目は、「働く」の対義語について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 営業の仕事で秋田へ行ったときのお話。

 今回はガリットチュウさんと一緒だったため、僕らは空港からジャンボタクシーに乗って市街地まで向かっていた。運転手のおっちゃんは、まぁまぁの爆音でラジオを流していて、僕は「ここが東京じゃない」ことを理解しながら車窓の景色を眺めていた。

 いやおうなしにラジオの音が耳に入ってくる。この日は、どうやら脳の専門家なのか学者なのか分からないけれど、「疲れ」をテーマに番組が進行しているらしかった。

「皆さんは疲れているときってどうしていますか? おそらく、多くの人が休養しますよね」

 こんなようなことを話していたと思う。さらに耳を傾けると、「皆さんは、‟働く”の対義語が‟休養”だと思っていませんか?」と話者は続けた。そりゃそうだろう。働いたら休むまでがセットじゃないか。脳内で、一人つっこみながら聴いていると、その話者は、「それは間違いです」と切り出した。僕の意識が、冬の秋田の原風景からラジオにグッと向かうことが分かった。

「働いて疲れたとき、一番大事なことは活力なんです。人は疲れたときこそ活力を浴びなきゃいけません。自分が活力の出ることをやってもいいし、誰かの活力を受けるかたちでも構いません。休むだけでは疲れは取れません」

 おいおい、ホントですかい、この話は。話を要約すると、平日にたくさん働いたとして、週末にその疲れを取るために大人しくしていてもさほど効果はなく、推し活だったり、美味しいものを食べたり、サイクリングやジョギングをしたり、とにかく自分が活力を感じられるものに触れなさいという。

 僕は妙に納得した。めっちゃ分かる。僕も、疲れているときこそエナジーを浴びたくなる。例えば、仕事を終えてクタクタに疲れているのに、どういうわけか煮込み料理を作りたくなる。昔からそうで、何かを煮込んで見守りたくなる。野菜を切って、肉を入れて、黙々とぐつぐつと煮える料理を待つ。奥さんは、「疲れてるんだから休めばいい」と言うけれど、煮込み料理を作ることで何とも言えない充実感を感じ、僕の心はよみがえる。

 そう言えば、有吉さんも「疲れているとトンカツを揚げたくなる」とテレビで話していたことがあった。勝手に共感していたけれど、なぜそうしたくなるのかはまったく解明することなく、45歳になってしまった。まさか北国で出会ったラジオで、その謎が解けるなんて思いもしなかった。そうか、僕は無意識のうちに、疲れを消滅させるために、「活力を浴びる」という行為をしていたのか。

 このロジックに倣うなら、どうして僕が外食するときに、個人店を選びがちなのかも説明できる。個人店のおじさんやおばさんが、自らの稼ぎを得るために作るものは、良くも悪くもこだわりがある。僕にはそれが、ときにハズレを引くとしてもエナジーに感じられ、生きている実感を得られるのだ。

 疲れているときに飲みに行きたくなるのも、結局、そういうことなのかもしれない。疲れているからといって、そのまま寝てしまったり、「インスタントな料理でいいや」と妥協することは落とし穴……疲れを癒すことにはつながらないのだろう。「今日はめっちゃ頑張った!」と思うから、「軽く飲みにいこう!」と活力を浴びたくなって、自分のお気に入りの店に向かう。せっかく活力を浴びようと思っているのに、やる気のないバイトが作る料理じゃ疲れは取れそうにない。こうして飲み屋には常連文化というものが形成され、活気が生まれていく――あれは、疲れを消滅させるための自分に対する‟推し活(力)”だったんだ。

「打ち上げ」もそうだ。どうして公演やライブ終わりのヘトヘトな状態にもかかわらず、わざわざさらに疲れかねない「打ち上げ」なるものがあるのか不思議だった。これも、「労働」を相殺するための活力としての「打ち上げ」と考えると合点がいく。労をねぎらう以上に、活力を注入したい。そんな人間の無意識の渇望が、「打ち上げ」という奇妙な慣習を作り出したのかもしれない。

 ‟疲れている”には、良い疲れと悪い疲れ、どっちもあるだろうけど、濃かったことにさほど変わりはない。疲れるくらい心身を削ったんだから、それ自体は肯定してほしいと思う。その疲れを癒すためにゆっくり休息をとることも必要だろう。だけど、それだけじゃ削られた心身は満たされない。休養したり反省したりする以上に、活力を浴びろってことなのだ。

 世の中、みんな疲れているはずなのにバカ騒ぎはなくならない。エナジーを浴びたいという欲求は絶対的なんだろうね。だから皆さん、自分の好きなことを見つけて、疲れをやっつけちゃってください。

 

天才秀才が集結する早稲田学祭の放つエナジー、フュージョンの演奏と未来に物憂げな秋〈徳井健太の菩薩目線第264回〉

2025.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第264回目は、学際(後編)について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 エナジーを喰らいたくて、僕らは早稲田大学の学祭を訪れた。1年前、某大学の学祭を訪れた際、僕は行ったことを後悔するくらいのヘラヘラ学祭を目の当たりにして、「こんなもんじゃない」と約束した。1年越しの復讐エナジー。早稲田の学祭は圧倒的で、僕はその様子に感動を覚えていた。

 古い校舎の2階では、7つのバンドサークルがそれぞれの教室で演奏していた。自分の趣味や感覚に合わせて7つの教室を行き来する。早稲田の学祭には、小さなフジロックが存在していたのです。

 僕らは、フュージョンサークルの教室に足を踏み入れてみた。フュージョンを聴く機会なんてなかなかないし、ましてや、それが学祭の舞台ともなれば、僕らが勝手に求めているエナジーを浴びることができるんじゃないかと思ったからだ。

 フュージョンの文化なのか、演奏している彼らのこだわりなのかわからないけど、教室はすべての明かりをオンにしている全明点。イスがずらりと並んでいて、お客さんも丸見え。ライブハウスとは正反対のまぶしい空間で、ギターやベース、ピアノ、ドラムが心地よく演奏されていた。

 曲が終わると、バンドの1人が、「この中で弾きたい人いたら、こっちに来てどうぞ一緒に弾いてください」と語りかけてきた。

 弾けるかい。

 学生バンドとは言え、どっからどう見てもバカテク。案の定、この中に混じって、自分の腕前を披露する猛者は現れなかった。中心となって場を盛り上げるバンマスらしき人は、30歳前後に見えて、もしかしたら院生、あるいは留年しているのかもしれない。僕はふと、フュージョンがこだまするなかで、彼らの将来を想像してしまった。

 この後、音楽で飯を食っていくんだろうか。演奏は間違いなく上手だし、この場にいる観客みんなが耳を傾けている。演奏をしている彼らは、あくまで音楽を趣味と割り切っているんだろうか。卒業後、一流と言われるような企業に就職する人もいるだろう。ダラダラと風来坊のように生きる人もいるだろう。だけど、この瞬間だけは音楽を愛していて、その愛が教室全体の細部にまで宿っていた。「どうなっていくんだろう」。僕は何か夢想空間にでもいるような気分になった。

「フーゥゥゥッ!」

 おおよそフュージョンのライブには似つかわしくないだろう、たった一人の歓声が上がった。奥さんだった。彼女は音楽に対して異常な愛情があるから、テンションが上がると「フーゥゥゥッ!」と歓声を上げてしまうらしい。「心が動いたり、めっちゃいい音楽を聞くと関係なく言ってしまう」と聞いて、僕はうらやましいなと思った。「フーゥゥゥッ!」がなければ、僕はずっとあの子たちのことを夢想していたかもしれない。歓声が僕を我に返らせたのだ。

 教室をあとにして、再び校内を歩いていると、「アイドルが『美味しくなぁれ』をやってくれますよ!」という売り声をしている出店に遭遇した。あちらでは、早稲田のお笑いサークルがネタを披露していた。芸人をゲストに呼ぶのではなく、お笑いサークルに所属する学生たちがひっきりなしに、客を前に奮闘している。僕らは、学生たちがエナジーを爆発させていればそれで満足だと思っていたけど、早稲田の学祭は、単にエナジーが爆発するだけではなく、それをどう還元させていくかといった小さな社会、小さな経営が渦巻いていた。その波をもろに喰らった僕らは、帰るときには心地よさを通り越した疲労と、それ以上の愛を感じていた。

 こんなエナジーに包まれながら学生生活を送るんだから、大学から外の世界に飛び出したとき、やっぱり地力が違うよなと思った。音楽をやるにしても、お笑いをやるにしても、上級生が下級生に対して質が高いだろうアドバイスを送ることだってできる。どう考えたって、プロ的な思考にたどり着くスピードが速い。社会に出てからアドバイスを受けて、それからものになるまで数年かかる人が多いことを考えると、大きなアドバンテージだ。

 企業の人事担当者は、学祭を見たほうがいいのではないだろうか。学内の日常が、どれくらい濃いものなのかを少しだけ覗くことができる祝祭空間。1年前のあのヘラヘラした学祭は、一体何だったんだろう。そう考えると、僕は来年、また違う学祭を訪れてみようと思った。

エナジー沸騰、早稲田学祭! 数多の出店に驚嘆しつつ、階段を上りフェス会場へ〈徳井健太の菩薩目線第263回〉

2025.12.20 Vol.Web Original

 

衝撃の事実! 悲報! 私は食事のとき、どうやら会話をしていないらしい!〈徳井健太の菩薩目線 第262回〉

2025.12.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第262回目は、食事中の会話について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 どうやら僕は、ご飯を食べているときはしゃべらないらしい。ご飯を食べていると、奥さんがポツリと「しゃべらないよね」と聞いてきたのが、ことの発端だった。

「いや、そんなことないんじゃない?」

 自分ではそう思ったし、そもそもその指摘は、相方である吉村に対してだったら分かる。あいつは後輩を連れてご飯を食べているとき、「一言もしゃべらない」そうだ。方々から、そんな証言を聞くたびに、僕は「ご飯を食べているときに話さないって、逆にどうやったらできるんだろう」と疑問に感じていたくらいだった。まさか、自分がしゃべっていない側だったなんて、意外、心外、想定外。ちょっと待ってくださいよって話なのである。

 よくある夫婦の会話のキャッチボールなので、この話題に重大性はない。だけど、「しゃべらない」という印象を与えているのは事実だろうから、僕は自分を分析してみた。例えば、家族と外食に出かけたときのことを思い返して、記憶をさかのぼる。すると、僕はご飯を食べているときにしゃべっている内容が、目の前にあるご飯のことについてにしか、ほぼしゃべっていないことに気がついた。

 なるほど、たしかにそうかもしれない。家族と虫捕りに行って、終始、昆虫の話ばかりをしていたら、それは「しゃべっていない」ということに等しい。僕は、奥さんの指摘通り、食中朴念仁と化していたのだ。

 さらに自分のことを深掘りしてみると、ご飯とお酒を一緒にとることが少ないということが思い当たった。お酒を飲んでいるときはご飯(系)を食べないし、ご飯を食べてるときはほぼお酒を飲まない。僕はご飯を作ることが好きだからか、ご飯に集中してしまうクセがあるようで、ご飯を食べるときはあれこれと、その料理について分析したり思案したりしてしまう。

 美味しい肉料理に巡り会ったら、「これはどこの部位なんだろう」とか「味付けは何だろう」とか、自分の中で気になることを言語化してしまう。一方、逆にアンテナに引っかからない――例えば、チェーン店だったりファミレスだったり、ある程度味が分かっているお店に行くと、あまり興味が湧かないからか口数は少なくなる。関心があろうが、関心がなかろうが、どちらにしても僕は「しゃべっていない」人に映る。これは難しい問題だ。

 しかも、菩薩目線『夫婦間、ごはん問題。小藪さん、またしてもストライク。また一つ次のステージへ!』で書いたように、子どもが小さいうちはファミレスやチェーン店を優先するという家族条約を締結している。家族や近しい人に対しては、そのあいだに生じるズレを補っていかないといけないと宣言した以上、これは反故にはできない。とは言え、そうしたお店にはなかなか愛着がわかない。だから、難しいわけです。

 このことを菩薩目線担当編集のA氏に話すと、「ジョブチューンのジャッジ企画を見たらどうだ」と言われた。

「ファミレスやチェーン店がいかに企業努力をしているかといった背景がわかるから、興味のレーダー範囲が広がると思う。専門店以上の味を提供するファミレスも少なくない。ジャッジ企画を見よ」(A氏)

 なるほど。自分から興味の範囲を広げれば、食について話したい僕は、ファミレスでもチェーン店でも前のめりになれるかもしれない。見え方が変われば、愛が増える。身近にあるものって当たり前すぎて関心がわかないけれど、テレビ番組などでは、その裏側を紹介する企画も多い。いいじゃないか。ナイスアイデアじゃないですか。

 ……ただ、食について話をしていることになるので、結局、「しゃべっていない」人のままなのではないか? 食事中は、食のこと以外話すことができない、I am 改造人間です。

 でも、待てよ。そういえば、この前ココスに行って、とても感動したことがあった。ココスにも配膳ロボットがいるんだけど、僕はこれまで猫型の配膳ロボットしか存在しないものだと思っていた。ところが、僕らの前に現れたのは、猫じゃなくて黄色い何か……だった。

「アレ、何なんだろうね」

 そんな話をした僕は、初めてこのとき、料理以外のことを家族と話したのかもしれない。少しだけ関心の外側へ。ほんの少しでいいんです。

お台場行くなら「ザキッズ」。衝撃コスパと超革命的親子共有放任主義!〈徳井健太の菩薩目線 第261回〉

2025.11.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第261回目は、『The Kids』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ネタがなくなってきたら、ネタを探しに行かなきゃいけない。とは言え、理由がないと、なかなか人間の腰って上がらないものです。そういう意味でも、『菩薩目線』はありがたい存在です。『菩薩目線』のために何かをこしらえよう――。そんな気持ちになれるから。ありがたいことです、本当に。

 その日、僕らはお台場デックスにある「ザキッズ(The Kids) お台場デックス東京ビーチ店」へ行ってみることにした。 ザキッズは、 0歳児から遊べる全天候型室内遊び場で、YouTubeの動画を見ていて、気になっていた施設だった。

 巨大ジャングルジムをはじめ、ボールプールやすべり台、トランポリン、乗り物遊具各種、さらにはフリープレイゲーム機もあるらしい。これまでさまざまな子連れスポットについての感想を書いてきましたが、結論から言えば、この世でもっともコスパがいいスポットなのではないかと思った次第です。ヤバいです、ここ。

 僕たちは平日に行ったのですが、大人も子どもも(0~1歳は無料)1日遊び放題で1300円。事前チケットを購入した僕らは、さらに100円安い1200円という破格の待遇。土日祝日は、混雑が予想されるため3時間で1500円になるそうですが、何にしたって安すぎます。昨今、30分で500円くらいするキッズスペースも珍しくないことを考えると、何時間いても1200円というのは異次元の価格帯。でもね、ここの魅力は価格だけじゃないのです。

 遊具の充実さも素晴らしいのですが、僕が個人的に感激したのは、スタッフの対応。といっても、親切とか丁寧といった類の対応ではなく、「放っておいてくれる」という意味での対応に感心しました。

 キッズスペースでありがちなのは、係員さんが常に目を光らせていて、「それはダメです」「やめてください」と注意をする光景。安全面を考慮すれば仕方のない対応だと思うものの、腰を折られるというか、流れを妨げられるというか、とにかく「親子水入らず」になれない。輪の中に知らない第三者がいるって疲れるじゃないですか。

 ところが、ザキッズは自己責任でお願いしますではないけど、とにかく親と子どもで完結してくださいという雰囲気。これが僕らには心地よかった。子どもが自分でトライして転んだり、僕らはそれを見て新しい発見があったり、「遊び場」である以上、自分たちで考え、自分たちで学習することが大切だと思うんです。子どもも大人も。

 実際、ザキッズは子どもだけが遊べるスペースがたくさんあって、僕たち大人は入れない。子どもたち自身で遊びながら考える。僕らは見守る。しかも、「お台場デックス東京ビーチ店」には、マッサージチェアが置いてあって、僕は全身をほぐしてもらいながら、楽しそうに遊ぶ子どもたちを見ていた。もちろん、料金にインクルードされているから、追加でお金を払う必要もない。周りを見ていると、おじいちゃんと一緒に来ている家族もいる。

「おじいちゃん、一緒にトランポリンしようよ~」

「ごめんよ、おじいちゃんはそこに入れないんだ。マッサージチェアから見ているから遊んでおいで」

 おじいちゃんは取り残されることなく、自分の時間を楽しんでいた。こういう時間の使い方って幸せじゃないですか。そして、このあと僕たちは衝撃の事実を知る――。

≪ショッピングセンターでのお買い物等、入場後ご自由に出入り頂けます≫

 僕は急いでスタッフに確認した。きっと目は血走っていたと思う。

「はい。何度でも再入場できますよ」

 僕らは今、お台場にあるデックス東京ビーチ、アイランドモール3Fにいる。

「ということは、他の階に行ったり、何だったらデックス東京ビーチを出て、アクアシティお台場に行ってもいいってことですか?」

「はい。大丈夫です」

 僕らは井の中の蛙だったのだ。世界はもっと広く、自由だった。僕ら大人も放任されていいんです。「ザキッズ」をハブにして、映画を観に行ったり、ご飯を食べに行ったり、家族と個人、それぞれの時間の使い方ができる。お父さんが子どもを見ている。その間、おばあちゃんとお母さんはショッピングを楽しむ。二人が戻ってきたら、今度はお父さんが浜風にあたりながらコーヒーを飲みに出かける。

 誰かの時間と自分の時間を大切にできる場所って、夢のようじゃないですか。コストとパフォーマンスって、きっとこういう話のことだと思うんです。

 

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