長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その八)

2015.08.10 Vol.648
 靖国問題を完結させるにあたり、私の解決策を提示したいと思います。まず断っておかねばならないことは、私は「東京裁判史観」には立たないということです。東京裁判は事後法に基づくものであり、罪刑法定主義に反しています。インドのパール判事が喝破したように、これは勝者によって一方的に敗者が裁かれた正当性の疑わしい裁判です。よって、私たちがA級戦犯だとか、B級、C級などという分類に振り回される必要はありません。靖国問題の解決策として「A級戦犯分祀」という議論がなされますが、次はB級、さらにC級へと波及してしまうに違いなく、意味を見出せません。  私は、少なくとも満州事変以降、国策を誤り、国際秩序から大きく脱輪して行った戦争の指導者は、軍人であれ文民であれ、靖国神社にお祀りする理由はないと考えます。私はことさらその指導者たちの失敗を咎めようというのではありません。戦争を指導して兵士を戦地に送った高位高官は基本的に畳の上で亡くなっています。畳の上で亡くなった人々は靖国神社に祀られないのが原則です。「昭和殉難者」の中には、軍人でもない廣田弘毅元首相や松岡洋右元外相ら、本来は靖国に縁もゆかりもない文民までが紛れ込んでしまいました。  ですから、前回紹介したように、厚生省からA級戦犯の祭神名票が靖国にわたった時、当時の筑波藤麿宮司は、「戦争指導者を靖国に祀ることは明治以来の靖国の伝統を壊すことになる」と考え、合祀を見合わせました。同時に、そのまま放置するのも忍びないということで、日本に関わる戦争で命を落とした方々の魂を「怨親平等の精神」に則り敵も味方もおしなべてお祀りしようと「鎮霊社」を建立し、昭和殉難者をそこに祀ったのです。  私は、ここで、国家のために命を捧げた方々をお祀りするという国家的事業を一宗教団体に丸投げしてきたことの異常さについて、改めて問題提起したいと思います。戦後70年を経て、過去幾度か試みられて挫折した靖国の「国有化」を今一度真剣に模索すべき時が来たのではないでしょうか。そもそも宗教法人への国会の介入は憲法上禁じられていますので、現状のままでは、どの方をお祀りするかは靖国神社に委ねるほかなく、その意味では「分祀論」も机上の空論に過ぎません。国有化のプロセスに入って初めてどなたを慰霊対象とすべきかについて国会の慎重な審議に付されることになるのです。その暁には、きっと1975年(昭和50年)以来果たされていない天皇陛下「御親拝」を実現することができると確信しています。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その七)

2015.07.13 Vol.646
 靖国問題の話を続けます。なぜ、心ならずも戦場に斃れた兵士の魂が招かれる静謐な場所に、彼らを送りだした戦争指導者たる「A級戦犯」の魂が合祀され、内外からの喧騒に晒されることになってしまったのでしょうか。これは、靖国の祭神名票を作成する厚生省引揚援護局(終戦後、1954年4月に陸海軍省から第一・第二復員省を経て業務を引き継ぎ。後に援護局に改名)に勤務していた旧帝国軍人による「努力」の結果といえます。彼らは東京裁判について、事後法によって戦勝国が一方的に敗戦国を断罪したもので到底受け入れることはできないと主張。その不当な裁判で闘って獄死または刑死した指導者たちはこぞって「昭和殉難者」としてその名誉を回復すべきとして、遂には靖国合祀の祭神名票にその氏名を記載させることに成功したのです。  そして、1961年、厚生省援護局と靖国神社はA級戦犯を合祀する(が、外部発表は避ける)ことに合意したのです。それでも、実際の合祀判断を委ねられた旧皇族の筑波藤麿宮司は、容易に合祀を認めませんでした。ところが、78年3月、筑波宮司の急逝にともない就任した旧軍人(で陸上自衛官)の松平永芳宮司は、「東京裁判は占領中に行われたものであり、まさしく戦死と同じだ」として、就任わずか半年の10月17日、A級戦犯14柱を秘密裡に合祀しました。私は、ここから靖国神社は本来の性格を変質させてしまったと考えています。  もちろん、この合祀が明らかになった翌79年4月以降も、鈴木善幸首相までは終戦直後の吉田茂首相以来毎年行われてきた靖国参拝は続けられました。しかも、同年12月に大平正芳首相が靖国参拝後に中国を訪問した際も熱烈歓迎を受けており、80年代半ばからにわかに批判を始めた中国や韓国の姿勢はきわめて(国際)政治的な色彩を帯びていることは間違いありません。一方、終戦の年を皮切りに数年おきに8たび靖国神社御親拝を続けられた昭和天皇は、75年11月21日を最後に御親拝を中止されました。これをもって昭和天皇のご心中を推し量ることは困難ですが、2−7年おきに御親拝をなさって来られた経緯に照らすと、(「富田メモ」の真偽に拘わらず)79年4月にA級戦犯合祀が報じられた以降に何らかの異変が生じたと考えるのが自然だと思います。  本来、国のために命を捧げた兵士たちのための静かな招魂の場だったはずの靖国神社が、内外の批判と喧騒の中に放り込まれ、天皇陛下の御親拝をも阻んでしまったことは余りにも残念なことです。次回は、保守政治家としての私なりの解決策について明らかにしたいと思います。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その六)

2015.06.07 Vol.644
 国会では、いよいよ戦後最大の安保法制改革をめぐる議論が始まりました。私も45名の与野党議員で構成される安全保障法制特別委員会の委員としてこの歴史的な議論に参画することとなりましたが、本コラムで前回までに辿って来た我が国の対外政策に関する近現代史の出来事を思い起こしながら、真剣勝負の審議に臨んでいます。  さて、前回予告したように、今回から3回にわたって「靖国問題」について論じてみたいと思います。靖国神社の起源は、幕末の動乱で命を落とした勤王志士たち、とくに安政の大獄以来の徳川幕府による弾圧に斃れた同志たちの霊を鎮めるために行われた1862年の京都霊山における招魂祭にまで遡ります。そして、幕府権力への抵抗のシンボルとなっていた神道様式で追悼儀式を行うことで討幕への誓いを新たにしたとされます。(三土修平『靖国問題の原点』日本評論社、2005年)この招魂祭が、明治維新の後「招魂社」という神社となり、維新政府の手で明治12年6月に別格官幣社という社格を付与され「靖国神社」と改称されたのです。  その後「昭和戦争」(満州事変、日中戦争、大東亜戦争/太平洋戦争の総称)を経て、今日では約260万余柱の英霊が祀られていますが、ここで大事なことは、靖国神社の本来の性格が「招魂」にあるという点です。心ならずも戦場に送られ尊い命を落とした兵士の魂が再び集まる場なのです。したがって、戦場に臨む兵士たちは、決死の覚悟を決め「靖国で会おう」と言って散って逝かれたのです。ですから、基本的に軍人といえども兵士を戦場へ送った将官クラスの人々は、どんなに武勲を挙げても、戦場ではなく「畳の上で死んだ者」として扱われ、靖国には祀られていません。それは、東郷平八郎元帥(日露戦争時の連合艦隊司令長官)であれ阿南惟幾将軍(終戦時の陸相)であれ同じです。  しかし、戦後のある時期に、この靖国神社には、戦場に送られた人々ではなく、兵士を戦場へ送った戦争指導者たちが祀られてしまったのです。これが、極東軍事裁判(東京裁判)で判決を受け死刑執行された「A級戦犯」であり、「昭和殉難者」と呼ばれる人々なのです。この中には、軍人のみならず、本来靖国神社とは無関係であるはずの文民の廣田弘毅元首相・外相や平沼騏一郎元首相、松岡洋右元外相らまでもが含まれていました。1978年10月の出来事です。これは、東京裁判の不当性を訴える当時の靖国神社宮司松平永房氏の強引な合祀決断によるものでした。それは秘密裏に行われましたが、翌年の4月に新聞紙上でスクープされ、国民のみならず全世界が知るところとなったのです。(つづく)(衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その五)

2015.04.13 Vol.640
 前回は、満州を舞台にした「昭和戦争」の発端について日露戦争直後まで遡って考えてみました。まさしく明治の元勲伊藤博文が予言したとおり、満州に居座り続けた日本は、やがて(コミンテルンの巧妙な策謀により煽られた)中国のナショナリズムに絡め捕られ、大陸の泥沼から足を抜けぬまま「二進も三進も行かなくなって」しまい、開戦時の海軍トップ永野修身軍令部総長の言葉「このままでは油が切れて、じり貧だ(から開戦あるのみ)」に象徴されるように確たる見通しもないまま、無謀な対米英戦争に突っ込んで行ったのです。終戦時に海軍大臣を務めた米内光政元首相が「じり貧を避けんとするため、ドカ貧にならぬように」と諌めましたが後の祭りでした。  東條英機内閣による戦争指導がどれほど杜撰であったかは、猪瀬直樹氏の名著『昭和16年夏の敗戦』に詳しいですが、太平洋戦争開戦時の昭和天皇と杉山元陸軍参謀総長との以下のやり取りを読めば誰の目にも明らかでしょう。  時は昭和16年9月6日。御前会議で最後の国策を決定する場面で、昭和天皇は杉山総長を叱責します。  昭和天皇(以下、天皇)「日米開戦になったら、どのくらいで収拾がつくのか」  杉山総長(以下、杉山)「約3カ月で収拾してみせます」  天皇「あなたは日中戦争を始めるときの陸軍大臣だった。その時2カ月で収拾すると言っていた。しかし4年経った今でもやっているではないいか」  杉山「中国大陸は奥が深うございまして」  天皇「大陸は奥が深いと言うなら太平洋はもっと広いではないか」  結果は、周知のとおり惨憺たる敗北でした。日本列島は一面焼け野原となり、2発の原爆や無差別絨毯爆撃をふくむ戦争犠牲者は300万人を超え、しかも、海外戦地における戦没者の約7割は餓死。小説・映画『永遠のゼロ』で若い世代の皆さんも涙した特攻では4000人以上の有為な若者たちが陸に海に散って逝きました。  この悔しい歴史の教訓を正面から受け止めねばなりません。このような歴史を繰り返さぬためにも先の戦争の総括は重要です。戦後70年の節目の年にあたる今年、なお一層その意味を深く噛み締める必要があると思います。この視点で、今回から3回にわたって「靖国問題」を考えてみたいと思います。  国家のために命を落とした方々をどのようにお祀りするか、それを国家指導者がどのようにお参りするか。これは、すぐれて国内問題です。外国からとやかく言われる筋合いではありません。しかし、問題の本質は、本来「心ならずも戦場へ送られ尊い命を落とした兵士の魂が招かれる」神社だった靖国に、戦争指導者たち(つまり、兵士を送り出した人々)が「昭和殉難者」として合祀されていることにあると考えます。(つづく)(衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その四)

2015.02.09 Vol.636
 国際連盟の常任理事国入りを果たし、悲願の「一等国」に上り詰め、得意の絶頂にあった帝国日本。それが1920年代初頭をピークに坂道を転がり落ちて行った最大の要因は、大陸中国との関係悪化であり、その主舞台は中国の東北地方「満州」でした。そして、そのきっかけは、政治的には大正4年(1915年)の大隈重信内閣による「対華21カ条要求」であり(ちなみに、今年は100周年)、軍事的には田中義一内閣における満州某重大事件(いわゆる「張作霖爆殺事件」、1928年)といえます。忘れてはならないのは、前者が中国人民のナショナリズムを爆発させ、後者がその後の満州事変、日中戦争へと日本を駆り立てた動乱の導火線となっただけでなく、帝国日本と欧米列強(事実上の国際社会)との衝突を決定的にした事件であったということです。その後の泥沼が敗戦へとつながって行ったことは論を俟ちません。  じつは、朝河博士による警世の書が世に出る3年前に、明治の元勲・伊藤博文が帝国日本の悲惨な末路を見抜いていました。日露戦争「勝利」の翌年、当時朝鮮総督だった伊藤は、満州における日本の排他的な行動がやがて中国のみならず英米の反発を招くことを予知し深刻な危機感を抱いていました。日本は、門戸開放・機会均等・領土保全を錦の御旗にしてロシアと戦った。しかし、このまま日本が満州に居座り続ければ、結局はロシアを追い出し、代わって同じことを日本がやっているだけではないかと。伊藤は、桂太郎首相をして当時の国家首脳陣を一堂に会した「満州問題に関する協議会」を開催させたのです。そこでは、桂首相、加藤高明外相はじめ主要閣僚ほか、山県有朋や大山巌ら元老も顔をそろえ、満州をめぐる侃々諤々の議論が重ねられました。満州権益に固執する陸軍への伊藤の批判に対し、児玉源太郎参謀総長は陸軍を代表し、「我々は満州を日本のフロンティアとするために戦い、夥しい同胞の血を流してこの権益を確保したのだ」と反論。最後は伊藤の「国際秩序を重視しないと日本は世界から反発を受け中国から恨みを買って世界の孤児となり、二進も三進も行かなくなる」との結論で合意したものの、その後、実際には何だかんだ理屈をつけて満州からの兵力撤収を拒み続けたのです。  そこから、ワシントン海軍軍縮条約が締結され(1921年)、陸軍でも山梨軍縮(1922年)や宇垣軍縮(1925年)が断行され、幣原外交(1924-27年)が展開されるなど、国際協調路線を模索する動きもありましたが、最後は、大陸中国への侵略と南進による英米との衝突という愚かな二正面作戦を自ら選択し、まさしく伊藤の予言通り二進も三進も行かなくなり、ついに破滅の道へと突き進んでしまったのです。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
国家と安全保障を考える(その二)

2014.09.15 Vol.626
 前回は、日本の地政学的位置づけについて基本的な認識を述べた上で、他の島国と比較しつつ、日本が世界史の中でも稀有な存在であることを明らかにしました。国際政治学の泰斗である高坂正堯は、このような日本の特性に注目し、日本を「東洋の離れ座敷」とか、西洋文明をいち早く受容したアジアの国という意味で、極東ならぬ「極西」と呼びました。また、『文明の衝突』を著したサミュエル・ハンティントンは、日本を世界8大文明(西欧、東方正教会(16世紀ビザンチン帝国発祥)、中華、イスラム、ヒンドゥー、アフリカ、ラテン・アメリカ)の一つとして、日本一国のみで成立する独立文明と喝破したのです。  周知のとおり、大陸中国は、古来、周辺を朝貢国として属国化させ、東アジアから中央アジアに至る広範な領域をその影響下においていました。その強大な中国とわずかな距離の海を隔てて、毅然として対峙し続けた日本外交の要諦は、聖徳太子の時代から「和して同ぜず」。協調しつつも決して同化しなかったのです。  西の神聖ローマ帝国と並び称された東の隋帝国皇帝に対し、時の摂政聖徳太子が発した言葉「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」は、つとに有名です。まさに、日中対等を内外に闡明したのです。そして、翌年の国書にはさらに強烈な言葉が並びます。「東天皇、敬(つつし)みて、西皇帝に白(もう)す」。「天」という字は、古来中国では最上位を表す特別の語。聖徳太子は、平然と「自分の国は天皇で、貴国は(格下の)皇帝だ」と言い放ったのです。  以降、遣唐使を廃止した菅原道真しかり、日宋貿易を促進した平清盛しかり、元寇に立ち向かった北条時宗しかり。豊臣秀吉も、徳川家康も、伊藤博文も、陸奥宗光も。例外は、朝貢を通じて日明貿易で儲けた室町幕府三代将軍の足利義満くらいで、聖徳太子以来、じつに1500年にわたって日本のすべてのリーダーが中国に対し「和して同ぜず」の堂々たる外交を貫いたのです。  ところが、近代に入って、日本は中国大陸にのめり込んで行ってしまいました。私はこのことこそが、「失敗の本質」だと考えます。明治から大正にかけて、日清・日露の戦役に勝利し、国力を伸長させて行く途上で大陸進出を図り、これまで堅持してきた大陸不干渉政策を逸脱し、戦略的な大失策を犯してしまったのです。次回は、結果的に300万人余の同胞の命を奪い、日本列島を焦土とし、国家経済を破壊し尽くしてしまった、近代日本の戦略的な失敗の本質に迫りたいと思います。(衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
国家と安全保障を考える(その一)

2014.07.21 Vol.622
 外政を担いたいと思い政治の道を歩み始めたのは世紀の変わり目、2000年秋のことでした。初陣に敗れ、3年間の浪人生活を経て2003年11月に初当選。以来、野党議員として約6年間、外務委員会や安全保障委員会等に所属して政府に対する質疑追及に明け暮れました。追及といっても、常に念頭に置いていたのは、「外交・安全保障に与党も野党もない、あるのは国益のみ」との信念でした。ですから、70回を超える質疑で、政府の揚げ足取りや批判のための批判は一度もなかったと自負しております。逆に、台湾問題や海賊対処などでは、政府の足らざるを指摘し、具体的提案を行うなど建設的質疑を心掛けました。  その結果、2009年夏の政権交代後、鳩山・菅政権で防衛大臣政務官、野田政権では外交・安全保障担当の総理補佐官、防衛副大臣を経験することができ、外政を志した私としてはまさしく本懐を遂げることができました。とくに、野田政権で務めた総理補佐官の一年では、首脳会談に30回以上同席し、「国家とは何か」を常に考える日々でした。 「首脳会談や国際会議に赴くときは、命を懸けて戦地に赴いた出征兵士の心境で臨んだ」・・・これは尊敬する中曽根康弘元総理の言葉ですが、この言葉の重みを噛み締めることができました。まさに、首脳会談とは、国家の命運を背負ったリーダー同士の真剣勝負の場。補佐官レベルの私でさえも「国家とは何か」「国益とは何か」「国家戦略とは何か」を365日、常に考えさせられる日々でした。  国家について考えれば、自ずと国家の歴史に思いを馳せざるをえません。  日本史を紐解くと、日本はほんとうに特別な国だとつくづく思わされます。  地政学的に見ると、日本は、西正面に大陸が迫り、背後には太平洋という大海原が続いており、しかも、大陸の圧倒的なパワーを朝鮮半島や東シナ海を通じてダイレクトに受け止める島国です。普通、このような国は大陸の影響を大きく受け同化するものです。アフリカの東岸に浮かぶマダガスカルや、インド大陸の南のスリランカ(セイロン島)などは大陸に付属しているような位置づけですし、七つの海を支配した大英帝国ですら、欧州大陸からの巨大な圧力と葛藤を繰り返してきました。  しかし、日本は、歴史上、中国から様々な影響は受けつつも、一貫して国家や文化の独立を維持して今日に至っています。むしろ、古来、中国とは毅然として対等を貫き、何世紀にもわたりライバル関係を保ってきたといえます。世界史の中でも日本が稀な存在である所以です。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
集団的自衛権を考える (その七・補論3)

2014.06.23 Vol.620
 与党協議も大詰めを迎え、集団的自衛権をめぐる閣議決定の日が迫っています。これまで本コラムで繰り返し述べてきたように、私としては、政府の考えている「限定的な集団的自衛権の行使容認」を支持する立場です。  残された問題は、第一に今回行おうとする憲法解釈の変更がこれまでのものと論理的整合性があるのかどうか、第二に今回の解釈変更で自衛権行使の態様がこれまでとどう変わるのか(換言すれば、拡大する自衛権行使の歯止めをどう考えるか)、第三にどのように国民の理解を得るか(付言すれば、国民の理解を得るためにはどのような政治手法が望ましいのか)、ということだと思います。  第一については、約40年間にわたり維持されてきた昭和47年の自衛権に関する政府解釈に基づき「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される恐れのある場合に限り、我が国に対する直接の武力攻撃が発生していなくても、我が国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を排除し国民の権利を守るため、必要最小限度の範囲内で武力を行使することは許される」と変更することは、論理的整合性があると考えています。  第二の歯止めについては、「限定的な集団的自衛権行使」の限界をどのように画するべきかという問題です。私は、自衛権行使の範囲を限定すべきだと考えます。すなわち、私たちが超党派議連で提案した「安全保障基本法案」に明記したように、「(個別的であれ集団的であれ)武力(自衛権)の行使は、外国の領土、領海及び領空においては、当該外国(我が国に対する武力攻撃を行っている外国は除く)の同意があった場合を除き、してはならない」とするのが現実的だと考えます。  第三に、国民の理解を得るための手法については、いまの安倍政権のアプローチは感心できません。自らの私的懇談会に報告書を出させ、与党内で密室協議を重ね、おもむろに閣議決定して、臨時国会に15本にのぼる防衛関連法制の改正案を一気に提出し、最後は多数決で押し切るという手法が広く国民の理解を得るのは難しいのではないでしょうか。短い臨時国会に15本もの法律案を出してきて五月雨式に議論しても、国民から見て何が問題の焦点なのか理解するのは困難だと思います。  したがって、私たちが提案しているように、安全保障基本法案によって自衛権行使の「歯止め」を明記して、立法府としての新たな憲法解釈を定める同法案の国会審議を通じて国民に理解を求める手法を採るべきです。 (衆議院議員 長島昭久)

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