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BALZACの髪形を目指し、前髪だけを伸ばし続けた3年間。そこで得たもの失ったもの〈徳井健太の菩薩目線 第275回〉

2026.04.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第275回目は、「僕が前髪を伸ばした理由」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 3年前だったかな。ちょうどお芝居の仕事をやっているときで、ふとした瞬間に前髪が目にかかった。髪を払うよりも早く、僕は「このまま前髪が伸び続ければBALZAC(バルザック)みたいな髪型ができるな」。そんなことを思った。

 やってみたい髪型は、これまで一通りやってきた。芸人という職業だからこそ許される髪型。誰からもとやかく言われることはなく、自由が与えられる環境。この後、僕は40代後半になっていく。やれることも限られてくる。やり残したことはないか? 中高校生の頃に夢見たBALZACの髪型だった。

 BALZACは、京都で結成された4人組のパンクバンドだ。芸人になるかミュージシャンになるかで悩んでいた高校時代。BALZACは、自分の血と肉を作ってくれた存在の一つだった。

 いざ伸ばし始めると、あごくらいまでなら思っていたより生活に支障がないことが分かった。だけど、前髪をオールバックのように後ろにかき上げ、その前髪が後ろ髪を貫くように首筋に伸び始めたくらいからか。奥さんが「気持ち悪い」と言い始めた。中途半端は一番良くない。へそまでは伸ばすって、僕は僕に言い聞かせた。

 前髪はその後も伸び続け、ヘアバンドをしないとどうにもならなくなってきた。仕事の現場へ行くと、驚くほど見て見ぬふりをされた。後日聞くと、僕がジャンボ尾崎のように後ろ髪だけを流していると思っていた人もいたらしい。「ただならぬものを感じ取った」とは、僕の髪形を見た某関係者の証言だ。

 あるときから、「あのむちゃくちゃ長い後ろ髪は、どうやら前髪らしいゾ」と気が付かれると、いよいよ「触れてはいけない」という緊張感がマックスに近づいていることを、僕は感じ取った。「こいつ無理矢理キャラを作り始めたんじゃないか」、「何か意図があるのかもしれないけど不気味だから放っておこう」。僕はただ、BALZACの髪型がしたいだけなのに。

 髪型をいじってくれる人は数えるくらいで、最初が千鳥のノブさんだった。「それ、なんやねん」。もっとたくさんの人から言われるものだと思っていたけど、先陣を切ったノブさん以降、誰一人――。珍奇、好奇、そうした視線とも無縁の、凪のような日々。

 触れられないほど、僕はいつしか「いっそ、このまま前髪を垂らして、番組に出てやろう」という気持ちが強くなっていた。でも、突然そんなことをしたら、「徳井は特定のメッセージを送ろうとしてるんじゃないか?」「何かしらのイデオロギーに染まっているんじゃないか?」なんて思われるかもしれない。結局、できず仕舞い。なんだ、俺自身がひよってんじゃん。相方である吉村は、「今すぐ切れ」と何度も言ってきた。

 幸い、野生爆弾のくっきー!さんとトータルテンボスの藤田さんが「いい」と言ってくれた。お二人は、THE SESELAGEES(ザ・セセラギーズ)というパンクバンドを組んでいるから、パンクへの造詣が深い。聞けば、BALZACと対バン予定だといい、「BALZACまで伸ばします」と言うと全肯定してくれた。小峠さんもパンクが好きだから、「BALZACなんだ」と笑ってくれた。こういうとき、肯定してくれる言葉は本当に支えになる。だけど、100人に1人。この髪形は、芸人であってもあまりに人を選びすぎた。

 僕が前髪を垂らすと、2歳の息子も「変なことをしないで」と言うようになった。「そうだよね」と僕は笑うしかなかった。次第に僕は、どうして前髪を伸ばしているのか分からなくなってきた。へそまではもう少し。でも、へそまで伸ばしたからって何なんだ。へそまで伸びたら、何の前触れもなく切るのか。夢見た髪型だったのに、こんなにも歪曲してしまうのか。僕の伝え方が下手なのか。髪型のプレゼンで下手ってなんだよ。もどかしい。自問自答。分からなくなってきたら、もっと明確なゴールを設定するしかない。

 息子の誕生日が3月に迫っていた。僕たちは、毎年この時期に家族写真を撮る。そうだ。この家族写真を撮ったら断髪しよう。2026年の家族写真は、BALZACみたいに思いっきり前髪を垂らして、自分の顔が見えない家族写真にしよう。僕はついに決心したのだった。

(後編に続く)

一瞬の悲劇は劇的エナジーが発光するチャンス。yesANDから生まれるヤバい瞬間を見逃さないでほしい〈徳井健太の菩薩目線 第274回〉

2026.04.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第274回目は、外的要因による変化について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 すべての仕事に言えることだと思うけど、必ず変化は訪れる。

 僕の奥さんは、yesANDというガールズバンドで、ボーカルとギターを担当している。今年1月末にリードギターが抜けたことで、4人編成から3人編成へ。ギターを担当していた子は、すこぶるギターテクニックがあったから、yesANDの楽曲はバラエティ豊かで、テクニカルな曲も少なくなかった。リードギターが抜けることは、今まで彼女が弾いていたギターソロを含むテクニカルなパートを「どうするか」……メンバー間で、濃い話し合いがあったのは想像に難しくないと思う。

 違うギタリストをメンバーとして迎え入れる。あるいは、加入という形ではなくサポートメンバーとして演奏してもらうといった選択肢がある中で、奥さんは「私がやる」という決断にいたった。これまでリードギターを誰かしらが弾いてくれている環境の中で音楽活動を続けてきた、と奥さんは言う。その決断は、人生で初めてゴリゴリにギターを練習しなければいけないことを意味し、前任者がテクニカルな奏者だったことに鑑みれば、楽曲によっては恥をかきながらやらなければいけないということになる。

 それなのに。2月。3人体制となって初めてのライブを見たとき、僕は4人のときよりもパフォーマンスが、ライブ感が、断然上がっているように見えたんです。音圧やギターソロのレベルに関しては、どうしたって確実に下がっている。だけど、聴いている僕たちに、‟届く”。その理由はなんなんだ?

 それって、やっぱり必死だということが伝わってくるからではないかと思った。あくまで個人的な意見だし、身内だから甘い判定なのかもしれない。でも、お客さんの数は3人体制になってからの方が間違いなく増えているし、ライブを重ねるごとに、新規のお客さんが増えているのを、僕は足しげく通う中で実感している。決して奥さんは努力している姿を僕には見せないけど、必死さに比例するようにお客さんの熱も高まっている。

 人間は、今まで逃げてきたことや避けてきたことと向かい合うとき、自分でも気が付かないくらいなりふり構わず、汗水を流す。その瞬間に、エナジーがほとばしる。奥さんのギターは前任者のギターのレベルに遠く及ばないけれど、必死にギターをかき鳴らし、その足りない部分をベースとドラムがカバーすることで、バンドとしてアウフヘーベンが起きているのかもしれません。本来であれば、音が欠けてしまうかもしれないのに、それを3人が埋めようとすることで、今までにはないシナジーが生まれているというか。

 その不完全な状態を見て、お客さんも「俺たちがもっと盛り上げなきゃいけない」。そんな雰囲気を、僕はひしひしと感じるんです。完全なものを見ているとき、僕らはやることがないからただただ傍観者になることしかできないけど、不完全なものを見たとき、僕らに介入する余地が生まれる。もちろんそれが、ときに悪い方向へ向かうこともあるけれど、目の前のステージであれだけソウルとシャウトを放っている人たちを見ると、良い方向にしか転ばない。

 何かを完璧にしようと思うと、どうしたって足し算をしがちになる。でも、心が揺さぶられるものって、不完全――何かがなくなっている、何かが間引かれている状態、その不安定さをそれぞれががむしゃらに支えようとするから、見入ってしまうと思うんです。‟引いていく”という工程はものすごく勇気がいることだから、なかなか自分からすることはできない。でも、ときには外的な要因で、強制的に引き算が起こることがある。

 そのとき、額面通りにマイナスに受け取るのではなく、不完全なものになるからこそ生まれるヤバい瞬間が訪れるその可能性にかけて、がむしゃらにがんばってみる。はたから見れば悲劇かもしれない。でも、悲劇が訪れないと、思いがけない限界突破のクソ力は生まれないのだと、僕は痛感した。

 減ってしまった分だけ努力をすれば、きっとそれは周囲の人に届くんだろう。これって何もバンド活動に限った話ではなく、芸人だってトリオからコンビになってブレイクしたケースや、仕事をする中でプロジェクトメンバーが数人いなくなってしまったことによって団結する力が生まれるとか、いろいろな仕事の中で起こりうることだと思う。

 もし何かが欠けてしまったとき、早々に悲観することはしないでほしい。もしかしたら、それは天から与えられた大化けのチャンスなのかもしれないのだから。

衝撃の事実! 悲報! 私は食事のとき、どうやら会話をしていないらしい!〈徳井健太の菩薩目線 第262回〉

2025.12.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第262回目は、食事中の会話について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 どうやら僕は、ご飯を食べているときはしゃべらないらしい。ご飯を食べていると、奥さんがポツリと「しゃべらないよね」と聞いてきたのが、ことの発端だった。

「いや、そんなことないんじゃない?」

 自分ではそう思ったし、そもそもその指摘は、相方である吉村に対してだったら分かる。あいつは後輩を連れてご飯を食べているとき、「一言もしゃべらない」そうだ。方々から、そんな証言を聞くたびに、僕は「ご飯を食べているときに話さないって、逆にどうやったらできるんだろう」と疑問に感じていたくらいだった。まさか、自分がしゃべっていない側だったなんて、意外、心外、想定外。ちょっと待ってくださいよって話なのである。

 よくある夫婦の会話のキャッチボールなので、この話題に重大性はない。だけど、「しゃべらない」という印象を与えているのは事実だろうから、僕は自分を分析してみた。例えば、家族と外食に出かけたときのことを思い返して、記憶をさかのぼる。すると、僕はご飯を食べているときにしゃべっている内容が、目の前にあるご飯のことについてにしか、ほぼしゃべっていないことに気がついた。

 なるほど、たしかにそうかもしれない。家族と虫捕りに行って、終始、昆虫の話ばかりをしていたら、それは「しゃべっていない」ということに等しい。僕は、奥さんの指摘通り、食中朴念仁と化していたのだ。

 さらに自分のことを深掘りしてみると、ご飯とお酒を一緒にとることが少ないということが思い当たった。お酒を飲んでいるときはご飯(系)を食べないし、ご飯を食べてるときはほぼお酒を飲まない。僕はご飯を作ることが好きだからか、ご飯に集中してしまうクセがあるようで、ご飯を食べるときはあれこれと、その料理について分析したり思案したりしてしまう。

 美味しい肉料理に巡り会ったら、「これはどこの部位なんだろう」とか「味付けは何だろう」とか、自分の中で気になることを言語化してしまう。一方、逆にアンテナに引っかからない――例えば、チェーン店だったりファミレスだったり、ある程度味が分かっているお店に行くと、あまり興味が湧かないからか口数は少なくなる。関心があろうが、関心がなかろうが、どちらにしても僕は「しゃべっていない」人に映る。これは難しい問題だ。

 しかも、菩薩目線『夫婦間、ごはん問題。小藪さん、またしてもストライク。また一つ次のステージへ!』で書いたように、子どもが小さいうちはファミレスやチェーン店を優先するという家族条約を締結している。家族や近しい人に対しては、そのあいだに生じるズレを補っていかないといけないと宣言した以上、これは反故にはできない。とは言え、そうしたお店にはなかなか愛着がわかない。だから、難しいわけです。

 このことを菩薩目線担当編集のA氏に話すと、「ジョブチューンのジャッジ企画を見たらどうだ」と言われた。

「ファミレスやチェーン店がいかに企業努力をしているかといった背景がわかるから、興味のレーダー範囲が広がると思う。専門店以上の味を提供するファミレスも少なくない。ジャッジ企画を見よ」(A氏)

 なるほど。自分から興味の範囲を広げれば、食について話したい僕は、ファミレスでもチェーン店でも前のめりになれるかもしれない。見え方が変われば、愛が増える。身近にあるものって当たり前すぎて関心がわかないけれど、テレビ番組などでは、その裏側を紹介する企画も多い。いいじゃないか。ナイスアイデアじゃないですか。

 ……ただ、食について話をしていることになるので、結局、「しゃべっていない」人のままなのではないか? 食事中は、食のこと以外話すことができない、I am 改造人間です。

 でも、待てよ。そういえば、この前ココスに行って、とても感動したことがあった。ココスにも配膳ロボットがいるんだけど、僕はこれまで猫型の配膳ロボットしか存在しないものだと思っていた。ところが、僕らの前に現れたのは、猫じゃなくて黄色い何か……だった。

「アレ、何なんだろうね」

 そんな話をした僕は、初めてこのとき、料理以外のことを家族と話したのかもしれない。少しだけ関心の外側へ。ほんの少しでいいんです。

歳を重ねるたびに丸くなる、けれど奥底に眠る牙は磨き続けなくちゃいけないのかも〈徳井健太の菩薩目線 第260回〉

2025.11.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第260回目は、本当の自分の言葉について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 以前、このコラムで『シン・ラジオ -ヒューマニスタは、かく語りき-』(bayfm)内で行われた「並んだグランプリ」について触れた。人生で一番並んだときの話=「並んだグランプリ」。

 パーソナリティー(この番組ではヒューマニスタ)を務める鈴木おさむさんも、中学生のときに訪れたディズニーランドでのエピソードを、週替わりパートナーである僕に教えてくれた。

 2時間ほど並んで、あと少しというところで、何人かの不良たちが口汚い言葉とともに割り込んできたという。ずっと楽しみな気持ちを抱えて2時間も並んでいたのに、バカたちのせいでその気持ちが汚された。おさむさんは、割り込まれたこと以上に、ウキウキしていた気持ちが一転して不愉快な気持ちになってしまったことが許せなかったと話していた。

「あのとき、せめて何か言えばよかった」

 そう後悔のニュアンスを含ませながら。このとき、自分だったら何て言うだろうと想像した。同じシチュエーションではないにしろ、長時間並んでいたのにワケの分からない人たちに割り込まれる――大人になった今の自分だったら何て言うんだろう。

 僕は小藪さんに出会ったことで、人間関係の大切さや愛おしさを学び、人間らしい感情を知った。だから、その場にいる他の並んでいる人のことも考えて、気の利いたことが言えたらいいな。優しい言葉でありたい。でも、その言葉の半面には、割り込んだバカたちをくさすニュアンスもあって、当事者はバカだから気が付かない……そんな言葉を模索するだろうなと考えた。

 帰宅して、このことを奥さんに話すと、「本当にそうなの?」と言われた。ドキッとした。

 たしかに、小藪さんに会う以前の自分も、間違いなく自分なわけで、トータルで「本当の自分」なら何て言うかまでは考えていなかった。奥さんは、全部ひっくるめて、そういう状況だったら何ていうか考えてみたらいいんじゃないと、僕の核心を突いてきた。

 本当の自分とは何なのだろう?

 哲学的に考えたら答えなんて出てこないけど、ある特定のシチュエーションを例に考えると想像しやすいかもしれない。先の例は、まさに好例だ。楽しみに並んでいたアトラクションにバカたちが割り込んできた。そのときに自分は何て言うのか。本当の自分を考えるという意味では、とても具体的に考えることができる気がする。

 僕は自分の心を探ってみた。気心の知れた友人たちが一緒だったら、おそらくこんなことを大きな声で言うと思う。

「いいなぁ。並ばなくて良かったのかぁ~。恥も外聞も捨てればいけるもんな~! もったいないことした」

 きっともめ事になると思う。でも、奥さんは「それでいいんじゃない」と笑っていた。優しくなったり、人のことを気遣えるようになったりするのは素晴らしいことだけど、一つや二つ、牙はもっていないとねって。

 本当にその通りだなと思った。牙だらけだったから芸人を目指した。大人になるにつれて人の気持ちを考えることができるようになる。だとしても、自分の心の奥底にある芯みたいなものは、子どもの頃から学生時代まで存在していた初期衝動。そこにフタをする必要はないのかもしれない。

 牙や毒を、これ見よがしにひけらかす必要は、加齢とともになくすべきだ。ただ、ゼロにするんじゃなくて、見えないようにすればいいだけ。歳を取るにつれて大切なことは、どうブラインドしていくか。社会では、どちらかと言えば隠さないで見せびらかしている人が得をする。理不尽な世の中では、隠し持っていた牙が見えすぎてしまうと、その人が悪になってしまう。「自分を出す」という行為は、思いのほか難しいものだ。

 大喜利だと思えばいいのかもしれない。そういった理不尽な状況に遭遇したとき、むかついたときは、どんな風に自分の感情を吐き出せば、自分自身を納得させられるのか、その類の大喜利だと考えてみる。

 僕は芸人を目指し、今も芸人をやっている。それは昔も今も変わらない偽らざる自分。「本当の自分」かどうかは確証が持てないけど、偽りのない自分であることは間違いない。だから、毎回大喜利のお題を与えられたと思って、自分の言葉を吐き出せば、きっと納得がいくはずだ。芸人的に考えればいいのだ。

「本当の自分」と向き合う。それって、偽りのない自分を探すことから始めた方がたどり着けるのかもしれません。

劇的勝利クリアソン新宿! ユースたちの歓喜の声、選手たちに届けたかった!〈徳井健太の菩薩目線 第255回〉

2025.09.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第255回目は、クリアソン新宿のキックオフセレモニーについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 大変ありがたいことに、クリアソン新宿のキックオフセレモニーに参加させていただいた。

 クリアソン新宿とは、新宿区に拠点を置くJFLに所属するサッカークラブ。観戦に行くと、次第に知り合いも増え、クリアソン新宿のコミュニティに溶け込んでいくような心地よさを覚えていた。40歳を過ぎて、こんなに応援できるチームと出会えるなんて、人生は面白いものです。

 その縁で、8月30日、 JFL第19節 「vs 沖縄SV」(@味の素フィールド西が丘)の試合前のイベント(キックオフセレモニー)に参加することになったのだ。その日は、「クリアソン夏祭り」と題して、浴衣・甚平着用で入場無料だったり、飲み放題プランがあったりと、とにかく‟盛り上がろうぜ!”という一日。

 試合前には、「クリアソン新宿トーーク」でクリアソンのメンバーとトークイベントまでさせていただき、とても光栄だったものの、内心はドキドキというか、ハラハラというか、落ち着かなかった。

 というのも、この試合までクリアソン新宿は、10試合勝利そして得点がない状態。当然、下位に沈んでいて、楽観できる状況にない。しかも、この日の相手である沖縄SVはトップ戦線に名を連ねる強者。下馬評では圧倒的に不利という中で、試合前に選手とトークイベントをするわけだから、僕もソワソワしていたのだ。

「徳井が来た日に惨敗した」なんてことになったら申し訳が立たないし、疫病神扱いされたっておかしくない。こうしたイベントに参加できるのはめちゃくちゃうれしい反面、「もし負けたら」という不安は常にあるわけで、試合前は結構ナーバスになるものなのです。

 この1週間前にも、北海道のエスコンフィールドで行われた「vsソフトバンク」三連戦のイベントに参加させていただいた。日ハムはソフトバンクと熾烈な首位争いを繰り広げてたから、どうしても勝ちたい。そんな状況下で試合前を盛り上げる。盛り上げたはいいものの試合に負けてしまったら、「試合前のノブコブがふざけすぎた」などと言われても仕方ない。イベントに登場する僕たちも、勝てば官軍、負ければ賊軍なのだ。

 試合は0対0のまま9回を終え、延長10回に日ハムがサヨナラ勝ちをした。これ以上ない劇的な勝ち方。僕は、勝手にそのイメージを持ちながら、第19節 「vs 沖縄SV」を見守っていた。

 前半が終了し、クリアソンは無得点。ただ、相手の沖縄SVも無得点。格上を相手によく抑え込んでいる。でも、このままでは勝てない。喉から手が出るほどほしい1点。なにせクリアソンは、10試合も得点を入れていないわけだから、選手もスタッフもサポーターも、全員、その喜びを長らく味わっていない。

 後半もドローが続き、アディショナルタイムはあとわずか。「また無得点か」なんて沈んだ声が聞こえてくる一方で、「強い相手に引き分けなら上出来」といった弾んだ声も聞こえてくる。たしかに、沖縄SV相手に勝ち点1をゲットできるならぜんぜん良い。でも――、歓喜を味わいたい。そんな見えない熱が味の素フィールド西が丘に渦巻いていたのだと思う。

 試合終了直前、クリアソン新宿はコーナーキックを獲得した。時計は後半49分。島田選手が蹴ったボールに、竹内選手がヘディングで合わせた。ボールがゴールに吸い込まれていく。その瞬間、破裂したような歓声が轟いた。これだよ、これ。この瞬間を待っていたんだ!

 サポーターの皆さんとハイタッチをしながら、僕は「疫病神にならなくてよかった」と溜飲を下げた。いや、出来すぎだ。日ハムの試合はサヨナラ勝ち。クリアソン新宿の試合はアディショナルタイムでの一撃。そして、こんなことを書いてしまったら、「徳井さんが来るときは、‟劇的”をお願いします」なんて言われかねない。はっきり言おう。まぐれなので期待しないでくださいませ。

 監督、選手、スタッフ、サポーターが一丸となってつかんだ勝利。その瞬間に、ほんの少しでも触れさせてもらっただけで、僕は救われました。得点が入った瞬間、おそらくユースに所属しているだろう小中学生くらいの子どもたちが、「やった!」と喜びを爆発させていた。それを見たコーチと思しき男性が、「喜ぶ時間は今じゃない」と制止する姿を見て、この瞬間が未来につながっているのだと感じた。子どもたちは喜びをグッと抑え、試合終了を見守っていた。

 1対0。ついに勝った。10試合ぶりの勝利。興奮冷めやらぬ中、トイレに行くと、先ほどのサッカー少年たちが入ってきた。

「やったーーーッ! 勝った! 勝った! すげぇ!」

 トイレが国立競技場かと思うくらい、彼らは雄たけびを上げ、勝利を喜んでいた。グッと抑えた分、コーチがいないこの場所で、好きなだけ感情を吐き出す。

 クリアソン新宿が勝つだけで、少年たちがこんなに喜んでいる。なんて素敵なスポーツなんだろうとあらためて思った。あの日、あの場所にいた皆さん、素晴らしい体験をさせていただき、ありがとうございました。

シン・ラジオのスマッシュヒット企画「並んだグランプリ」。皆さんは、並んだ話をしたくありませんか?〈徳井健太の菩薩目線 第245回〉

2025.06.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第245回目は、誰かに話したいことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 生きている以上、人間には“誰かに話したいこと”が、必ずあるのだと思う。

 bayfmで毎週月曜日から金曜日の夕方に放送されているラジオの帯番組『シン・ラジオ -ヒューマニスタは、かく語りき-』。火曜の最終週の「週替わりパートナー」として、僕は登場している。

 先日、「並んだグランプリ」と題して、人生で一番並んだときの話を募集した。火曜パーソナリティ(この番組ではヒューマニスタと呼ぶ)を務める鈴木おさむさんが、大阪・関西万博に行くという。きっと並ぶことになるから、リスナーの皆さんの並んだ経験を教えてほしいということで、募集することになったのだ。

 すると、過去一、メールが届いた。『シン・ラジオ』のリスナー年齢層は、思いのほか高い。この日、寄せられたメールも、僕にはピンと来ないようなイベントに並んだというものが多かった。特に、1985年に茨城県つくば市で開催された国際科学技術博覧会、通称「つくば万博」について寄せられるエピソードが多かった。

 このとき、「ポストカプセル郵便」なるものが大きな話題を呼んだらしい。郵政省(当時)が受け付け、16年後の2001年、21世紀の最初の年に配達を約束する――。このポストに投函するために、長蛇の列が出来上がったそうだ。リスナーからのメールには、「彼女と並んでポストに投函したけど、結局別れてしまった」とか「本当に届くのかワクワクして21世紀を待った」とか、一つ一つのエピソードが、とても人間的で輝いていた。

 休憩中、おさむさんと、「どうしてみんな、並んだエピソードをしたがったんだろう」と話した。最近あった出来事や、最近食べた美味しい食べ物。そういった話題は、さほど返信が多くない。ところが、“並んだ話”は信じられないくらい食いつきが良い。きっと理由があるはずなのだ。

 個人的な見解だけど、並んだ話というのはいろんな感情が絡み合っている。並んでまで食べたかったもの、並んでまで手にしたかったもの、並んでまで見たかったもの。それなのに、「大したことがなかった」とか「想像以上に興奮した」とか。並んでいる間は、天国と地獄の間をウロチョロする。気持ちが高揚したり、沈んだり、さまざまな工程を経て、やがて自分の番が回ってくる。だけど、そのことを誰かに伝えることはあまりない。

 僕自身、このコラムでバンクシー展に並んだことを書いたけど、振り返るとそれは、並んでまで見たかったのに、そのときに起きた一部始終に納得がいかなかった……そんなことを誰かに伝えたかった、いや、吐き出したかったのだと思う。誰かに話せる範囲で吐き出したくて仕方のない話が、人には絶対にある。その最たる例が、“並ぶ”という思い出なのかもしれない。

 この日、おさむさん自身も、並んだエピソードを話していた。中学生のとき、卒業旅行でディズニーランドに行ったという。ビックサンダーマウンテンが誕生して1年ほどだったから、皆がお目当てのマシーンに乗るために、長蛇の列をなしたという。おさむさんたちも、その列に並んで、今か今かと楽しみにしていたそうだ。

 2時間ほど並んで、あと少しというところで、何人かのヤンキーたちが口汚い言葉とともに割り込んできた。我が物顔で、ビックサンダーマウンテンに乗り込んだ。

 そのとき、おさむさんはものすごく嫌な気持ちになったそうだ。ずっと楽しみな気持ちを抱えて2時間も並んでいたのに、バカたちのせいでその気持ちが汚されたのだから、想像に難しくない。おさむさんは、割り込まれたこと以上に、ウキウキしていた気持ちが一転して不愉快な気持ちになってしまったことが許せなかったともらしていた。

「あのとき、せめて何か言えばよかった」

 今でも後悔がよぎるそうだ。並んだ記憶は、どうしてこんなに心の深くに根ざしているんだろう。並ぶなんてばかばかしい。だけど、並ばないと手に入れることのできない記憶があることも確かなのだ。

有象無象が混在したあの頃の新宿、花園神社例大祭にはまだあった!〈徳井健太の菩薩目線 第244回〉

2025.06.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第244回目は、花園神社例大祭について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 新宿、花園神社と言えば、11月に行われる酉の市が有名だろう。ただ、昨今は境内摂社に芸能浅間神社があるからか、鳥の市の雰囲気は、なんだかよく分からない“なんちゃって芸能感”をやたらと撒き散らすパリピ的な人が多くて、あまり好きではない。

 花園神社例大祭は、毎年5月28日に最も近い土曜日を中心に、金曜日から月曜日まで4日間開催される。宵宮祭(金曜日18時~)、大祭式 (土曜日11時~)、神輿渡御 (日曜日10時~)、後宴祭 (月曜日18時~)という具合に、大祭と名が付くだけあって、想像以上に大規模なのだ。

 僕たち家族は、大祭式のお昼に行った。ほど良い混雑具合で、祭りに相応しい、活気に溢れているものだった。的屋の種類も多種多様で、令和の大都会新宿で金魚すくいなんかもある。金魚も、なんだか気持ち、ギラついてるように泳いでいると感じるほど、道行く人も金魚もせわしない。ふと視線を右に移すと、くじ引きの景品として、色あせた箱のPlayStationが飾ってあった。

 もちろん、祭りの主役である神輿も登場する。担いでいる人たちの雰囲気は、いま皆さんが想像している通りの人たち。さすが新宿のど真ん中にある花園神社だと、僕は気分が高揚していった。

 かつてこの場所では、「状況劇場」の主宰・唐十郎さんが創始した野外演劇・ 紅テントがあったからだろうか、境内の中だというのに、周辺で飲食店を営んでいるだろうお店が、臨時でテント居酒屋を出店していた。しかも、1軒、2軒じゃない。軒を連ねている。大祭のときにだけ出現する、まるでサーカスのような雰囲気。こんな空間が存在していたことを今も知らなかったことを大いに悔やんだ。そう、新宿に長く暮らしているというのに、僕は初めて大祭に足を運んだのだった。

 僕がもっとも驚いたことが、信じられないほどの喫煙率だ。祭りに関わる人や、出店している人たちのほとんどがタバコを吸いながら作業をしていた。僕は、ここが神社であることを今一度確かめるため、目を凝らして境内をぐるりと見渡してみたが、目に飛び込むのは間違いなく神社の境内であり、それに彩りを灯すように光るタバコの火だった。

 瓶ビールの瓶を受け取ったお姉さんは、くわえタバコで「あぁ、どぃうもゥ」なんてやっている。くわえているからうまくしゃべれない。お互いが聞き取れないだろう会話の応酬を見ていたウチの奥さんは、北九州生まれにもかかわらず、あまりに時代がスリップしている状況に、引いていた。祭りは見ている人を引かせてナンボである。エイサ、ホイサ。

 何か食べようかなぁと思って、臨時居酒屋の前でメニューを眺めていると、「入っていきなよ」とお店の人からすすめられ、僕らはなすがままに店の中に入ることにした。店の中なのか?

 注文を見ていると、会計は後払いだという。こういうときは、だいたいキャッシュオンだと思うので、後払いと聞き、若干の不安がよぎった。でも、我々は祭りの抵触者なのだから、郷に入らなくてはいけない。間違っても、「これ、ぼったくられないか?」などと思ってはいけないのだ。

 僕らは、ビールとメンチカツを頼んだ。メンチカツは(3個)と書いてあったので、家族3人で食べるにはちょうどいい量だと思った。

「ひいよゥ(はいよ)」

 目の前にメンチカツが届き、箸を伸ばし、口に運ぶ。コロッケだった。もう1個食べてみると、それはハムカツだった。メンチカツは1つしかなかった。

 これを詐欺と言うなかれ。祭りである。祭りに日常を求めてはいけない。会計が明朗会計だっただけでも御の字じゃないか。東京のど真ん中にカルチャーショックを体験できる場所がある。なんて素晴らしいことだろう。

 年に1回しか行われない。だけど、確実にそこにある。文化や伝統がどんどん消失していく時代にあって、僕たちの五感を刺激するものが存在する。人を選ぶかもしれない。ただ、僕は来年も行くし、皆さんもぜひ体験してほしい。

天才型は他人にも気を遣え、努力型は他人を慮れない……かもな説〈徳井健太の菩薩目線 第241回〉

2025.05.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第241回目は、オンとオフについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 うまく説明することはできないけど、僕は飲食店の個室を利用したりタクシーに乗ったりすることがあまり好きではない。メシを食べるなら、できるだけ個人経営の雑多なお店に入りたいし、移動も電車の方が好き。「なんで自分はそうなんだろう」なんて考えながら、その日も丸ノ内線に乗っていると、ひらめくように僕なりの答えが降ってきた。

 僕は平均点を満たすものや利便性の高いものに興味がそそられない。その理由は、自分の欠点と関係している。例えばタクシー。めちゃくちゃトークスキルのある芸人であれば、そうした空間でも面白いトークをするだけの材料を集められる才能があると思う。でも、残念ながら僕にはそんなアンテナがないから、タクシーに乗って誰かに伝えたい話があるとしても、せいぜい愚痴の類になってしまう。これではなかなか「笑い」につながらない。

 限られた情報しかない環境を苦手とする僕は、気が付くと雑多でいろんなものがごちゃまぜになっているようなワケのわからない空間や場所を好むようになっていた。ここなら有能なアンテナがなくても、何かしら変なものを拾うことができる。鋭い視点を持ち、なおかつワードセンスに長けた芸人であれば、1を見て1を語ることができるだろうけど、僕は10を見て、1を語れるかどうか。タクシーに10回乗って、ようやく面白い話を1つ生み出せるかどうかの人間だから、情報量が交通渋滞を起こしているくらいの場所じゃないと安心できない。だから利便性が高く、スマートな場所が苦手――そんなことを丸ノ内線に乗りながら考えていた。

 僕は、昔から乗り換えが大好きだった。

 違う路線に乗り換えた瞬間、それまでとは明らかに違う人種が車内を占有している。どうして突然20代前半の若者が増えたのだろうと思っていると、「△△大学駅前」といった駅に停車し、合点がいく。僕が分析好きなのも、こうしたところによるところが大きく、詮索しがいのある空間やお店を好むのも、AとBとCの情報を勝手に集めて、「〇〇だからだ」なんて推論したいからだと思う。結果、少ない情報量から質の高い言説をアウトプットすることが苦手になってしまったのかもしれない。

 ここからは僕の極論を披露したい。

 人間は、この2つのタイプに大きく分けられるのではないか。個室やタクシーといった利便性が高く、機能的な空間が好きな人と、情報まみれとも言える闇鍋のような非利便的な空間が好きな人。そして、それは裏を返せば、前者は周囲に対して気を遣ってしまう人であり、後者はあまり周りを気にせずマイペースな人じゃないのかなって。どうして、個室やタクシーが好きな人が周囲に対して気を遣う人なのか? 

 仮に、気を遣うタイプが居酒屋で飲んでいたとする。そのお店は雑多で個室はない。常連もたくさんいるから、ある瞬間を境に話しかけてきたりする。そうしたとき、そのタイプは周りと波長を合わせようとする。一方、僕のような後者のタイプはいつもの調子と変わらないから、話しかけられてもマイペースにお酒を飲むだけ(話に付き合うかどうかも分からない)。

 気を遣う人は、マイペースにお酒を飲んでいる僕に対しても、「もっと愛想良くしたほうがいいんじゃない」と気を遣うだろうし、話しかけてきた酔客に対しても気を遣うから二重に気を遣うことになる。頭のリソースを多分に使うことになるから、できればそうした空間は避けたいと思うようになっても不思議ではない。

「オンとオフの切り替え」なんて言葉がある。実はこれって、周囲に対して気を遣ってしまう(オン)とタクシーなどのプラベートスペースが約束されている空間を好む(オフ)ってことなんじゃないだろうか。オンとオフがないって人は、僕のように雑多な空間に苦手意識がなく、気を遣わない人。こう考えると、僕が急にかしこまった空間のように感じるタクシーが苦手な理由も分かる。強制的にオフ世界に閉じ込められて、何をしていいか分からないのだ。

“感覚情報のゲーティング”と呼ばれる、情報の取捨選択を自動的に見分けてフィルタリングする脳の働きがあるらしい。雑音が多い場所では、それだけ多くの情報を脳が処理していると言われ、このとき必要か必要じゃないかを脳が選別するという。数多く意識に入ってくるということは、それだけ多くの情報を脳が処理しているから、人によってはめちゃくちゃ疲れてしまう。これがストレスになるかならないか……が、オンとオフの正体なのではないか。オフを求める人は、タクシーだったり、個室だったり、自分の精神衛生を考慮して、定期的にそういう場所を求めているのではないのかなって。求めていない僕は、無理やりオフ的な環境を作られるほうが、ストレスになるのだろう。

 利便的な空間が好きな人って、実は誰よりも気遣いの人なのかもしれない。あくまで極論。これも、僕なりの雑多な環境から拾い集めてきた推論。軽い気持ちで受け止めてやってください。

世は諸行無常、無力な自分を恨むたびに、バットマンの登場を待つ!【徳井健太の菩薩目線 第228回】

2024.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第228回目は、ぶつかり男について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 少し前に、駅構内などでぶつかってくるおじさん、通称「ぶつかり男」が話題になった。ぶつかり男は、主に女性に対して意図的にぶつかってくるわけだけど、先日それに近い体験に遭遇した。

 家から少し離れた歩道を歩いてたときのこと。その歩道は、大人3人が横並びで歩けるか歩けないかくらいの狭さ。車道は車の往来が激しく、とてもじゃないけど歩けない。荷物を抱えていた僕は、自転車を降り、押しながら歩いていた。横に広がる荷物を見て、「邪魔になったら申し訳ないな」と思いつつ、目的の場所へと向かっていた。

 すると、向こうから革ジャンを着た男性が歩いてきた。狭いとはいえ、通れないことはない。お互い立ち止まることなくすれ違う。その瞬間、自転車を押す僕の拳に何かが当たった。

「痛ッ」

 声には出さなかったけど、心の中で漏れるくらいの痛さ。ささいな痛さと言えばそれまで。でも、嫌~な違和感。「なんだろう」と思ったときには、すでに10メートルほど離れていたから何かを言うことはできなかったけど、どうやらその革ジャン男は、手に持っていたペットボトルを意図的に僕の拳にぶつけたようだった。

 彼は、ペットボトルを逆手で持っていた。手首をひねれば、向かってくる相手に対していつでもペットボトルを当てられる――まるでそれは、「たまたま当たってしまったんですよ」とでも言える逃げ口を準備しているかのようなペットボトルの持ち方だった。

 最初は、「どういうこと?」なんて疑問ばかりが浮かんできたけど、一分もすると段々と腹が立ってきて、二分後にはやり場のない怒りが頂点に達し、ムカついて仕方がなかった。僕が邪魔だったとしても、そんなことをする必要がどこにある? しかも、「たまたまですよ」と逃げられるような当て方。その姑息かつ用意周到な嫌がらせに、額の血管は千切れそうだった。

 探そう。

 荷物をしかるべき場所へ届けた僕は、革ジャン男が消えていった方向へと自転車を走らせた。街を塗りつぶすように執拗に探し回った。警察に突き出したかった。何かを立証できるわけじゃないけど、姑息な革ジャン男に後悔させたかったのだと思う。

 だけど、見つからない。分かっていたことだけど、一度街に紛れ込んだら、再度出会うことは難しい。不審者だったら見つけられるのでは? そう考えたものの、そもそもあんな男は不審者ですらないんだろう。不審の道を歩くような男であれば、子ども染みた姑息な手段は選ばない。極端な話、自らが不審であることを自覚しているなら、ある程度の覚悟が見えるはずで、僕もこんなに怒りをあらわにはしていないと思う。僕の怒りが収まらないのは、何とでも言える状況を作りつつ、自分のエゴのみを通し、そのためには平気で他者に嫌な思いをさせるクソのような魂胆が、街に潜んでいること。見つけ次第、僕は自転車でひいてやろうと思ったのだ。

 まだ、ピンポンダッシュのようなことをしている大人がいる。ぶつかり男にしても、僕が遭遇したペットボトルぶつけ男にしても、「世の中に対してピンポンして逃げる程度のことしかできないんだな」って割り切るしかないバカ者たちがいる。世の中には、何の意識もなく、道端にゴミを捨てることができ、保育園の目の前でタバコの吸い殻を捨てることに何の疑問も覚えない人たちがいる。実は、そんな人たちが少なくないことを考えると、世の中というのはゴッサムシティであって、バットマンの出現を待っている人は一定数いるんじゃないかと思案する。

 バットマンは無理でも、怖いおじさんくらいはいてもいいのにと思う。かつて街には、子どもたちを叱ってくれる「コラおじさん」がいた。「早く家に帰れ」とか「親が悲しむぞ」とか、やたらと僕たちにモラルや秩序を押し付けてくる怖いおじさん。「コラおじさん」は、もしかしたら街のバットマンだったのかもしれない。今こそ、ぶつかり男の数だけコラおじさんが必要で、双方がぶつかれば対消滅するのに。迷惑な人たちに対して、“触らぬ神に祟りなし”なわけがない。「コラ!」と叱ってくれる世の中であってほしい。

ホーキング博士とタイムトラベルのせいで巨大夫婦喧嘩。後悔を公開。【徳井健太の菩薩目線 第221回】

2024.10.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第221回目は、タイムトラベルについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 東京で開催される花火大会を観に行きたいと思いつつ、小さい子どもを育てている僕らにとって、人ごみの中を進むというのはなかなか腰が重い。でも、やっぱり刺激的な花火を子どもに観させてあげたいって気持ちがわいてくる。

 どうしたものかと一考した僕たちは、我が家のベランダから「神宮花火大会」を、頑張れば観られるのではないかと考えた。“頑張れば”という言葉が出てきている時点で、かなり雲行きは怪しいんだろうけど、「やらない後悔より、やる後悔」なんて言葉もある。ベランダにちょっとした食べ物を持ち込んで、そこから花火を鑑賞しよう――。そう提案した僕は、ベランダに勢い勇んで飲み物や料理を準備した。

 その日はとても暑く、夕方だというのにベランダは、うだるような熱が充満していた。だけど、あとちょっとしたら花火が始まる。僕は勢いよく、缶ビールのふたを開け、夜空が彩られるそのときを待った。

 遠くの方でドンドンと打ち上がる音がする。「始まった!」。ドンドン、ドンドン。だけど、一向に光は見えない。硝煙が空を覆い、ベランダを不穏な空気が包む。僕たち一家のテンションも、硝煙と比例するようにモヤがかかっていくような気分だった。

 空は見えるのに、花火は見えない。ビールは、自然の摂理に従うようにぬるくなり、いよいよ子どももぐずり出した。室外機から放たれる50℃の熱風に、奥さんも不機嫌になっていく。誰もいない部屋に送られる快適な風の対価である、焦げるような室外機の熱風を浴びながら、「冷房を止めて観るくらいの覚悟が必要だったのかな」と僕は首をひねった。部屋に、戻ろっかな。

 だけど僕は、自分から言い出したアイデアだったこともあって、安易に部屋の中に入ろうとは言えなかった。人間というのは恐ろしい。クソのようなプライドほどしがみついてしまう。完全に僕のミスだというのに言い出すことができず、イライラだけが募っていく。暑すぎる。「戻ろう」。限界を迎え、僕たちは最初から花火なんてなかったかのように、そそくさと完璧な涼しさに包まれる部屋へ戻ることにした。

 しばらくは何をして、何を話したか記憶にない。気が付くと、僕と奥さんはタイムトラベルについて話をしていた。暑さで脳が、まだやられていた証拠だ。

 世界的な学者であるホーキング博士が、生前、タイムトラベルにまつまる次のような実験をしている。

“タイムトラベラーがいるかということを確かめるためにパーティーを企画し、その後、「こういうパーティーを私は開催していた」と招待状を公開する”

 するとどうなるか? もし未来人が、この招待状の存在を知ったなら、一人くらいはタイムマシンに乗って、ホーキング博士が主催するパーティーに駆けつけるのではないか――。

 とんちとも皮肉とも言えるホーキング博士のパーティーには、結局(当たり前?)、誰も来なかった。ということは、タイムトラベルは存在しないのではないか。「そうホーキング博士は投げかけたんだよ」。僕が奥さんに話すと、

「やり口が気に食わない」

 と、彼女は世界的な博士を一蹴した。花火鑑賞がうまくいかず、お互いに苛立っていたこともあって、僕はムッとした。

「そう思う人もいるだろうけど、全員が全員、『ムカつくから行かない』ってわけはないじゃん。地球が滅びるその日まで、俺たちが死んでも未来人はいるわけだから、1人くらいもの好きがいて、冷やかしに来てもいいだろ」

 僕らは、何一つ自分たちの生活に関係ないタイムトラベルについて、久々に口論になった。

「私だったら、そんな偉そうなパーティーに絶対に行かない。何様? そんな博士のパーティーに行ってたまるかって私だったら思う」

 彼女は、私が行かないんだから未来人も行かないと一向に譲らなかった。未来ではなく、今を生きている人なんだなと思った。だけど、無性にムカついた僕は、何の根拠もないのに「来る!」の一点突破に賭けた。双方ともに水を掛け合う時間が続いた。本当にタイムトラベルが存在するんだったら、僕らの家系の未来人がやってきて、「神宮花火大会は絶対にベランダで見たらダメだよ」って、昨日の僕に言っているはずのに。博士のパーティーには、誰もやってこないって、途中から気が付いていた。その代わりと言っては何だけど、早くベランダに、秋よ、やってこい。

変わらないから「安心感」が生まれる。マンネリは美しくて尊い。〈徳井健太の菩薩目線 第163回〉

2023.03.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第163回目は、マンネリについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 マンネリは不変――。

 先日、『水曜日のおじさんたち』(ニコニコチャンネル)にゲスト出演させていただいた。同番組は、『水曜どうでしょう』ディレクターの藤村忠寿さんと嬉野雅道さんによる台本なしのフリートーク番組。前半部分に関しては、無料で視聴できるので、是非ともご覧になっていただけたら幸いです。

 話はもちろん『水曜どうでしょう』に及んだ。番組を作る上でもっとも大事にしていることは、「マンネリ化すること」だと話されていた。

 思わず俺は、「どういうことですか?」と聞いた。

 今まで長く続いてきた番組は、水戸黄門にしろ、男はつらいよにしろ、徹子の部屋にしろ、すべてマンネリ化していて必ずフォーマット化が決まっている、と。

 だから、「最初からマンネリ化する番組を作りたいと思っていた」と水曜日のおじさんたちは教えてくれた。若い時代は破壊衝動があると思う。テレビ業界も幾度となく新しい試みをしてきた。だけど、マンネリ化するのは「続いている(=人気がある)」ことが大前提で、いずれ「不変」へと昇華する可能性を秘めている。

 ああ、これって俺たち芸人にも言えることだなと感じた。 

 芸人は飽きられることを恐れるあまり、新しい自分を見せようと、良くも悪くも努力する。でも、必ずしもそれが良い方向に作用するとは限らなくて、ときにフォームを崩し、自分を見失ってしまう。全部壊れていく。

 最初から変わらないものを目指す。目からウロコだ。

 人間って何か新しいことをしたがるし、新しい刺激を求め続ける。当の本人は、新しいことにチャレンジしたことで満たされるものがあるかもしれない。だけど、その周りにいる人や見守っている人はどうだろう?

 水戸黄門は必ず勧善懲悪のストーリーで、必ず最後に印籠を出し、悪党を懲らしめて一件落着する。このフォーマットがあるから、必ずその時間帯はTBSにチャンネルを合わせる人たちが大勢いた 。マンネリって、変わらないからこそ安心感を与えることができる。ハズレを引かせない。

 若いころなら、いろいろな新しいチャレンジに対して、その結果を反芻できるだけの時間も体力もあるかもしれない。でも、歳を取ると、なかなかしんどい。

 ということは、ある程度の年齢になると、「刺激なんていらないよ」。そう言ってもらえるものも作り出さなきゃいけないんじゃないのか――なんて自問自答した。

 ミュージシャンにしたって、今でもトップアーティストに君臨している多くが、昔も今もさほど変わらない音楽を続けている人たちだ。それってアーティストが同じ路線の音楽をやり続けているということに加えて、そのファンも変な刺激を求めていないってことでもある。その信頼関係って愛おしい。 

「週刊少年ジャンプ」にしても、努力・友情・勝利という三大原則が根底にある。ずっと変わらない。なのに、『鬼滅の刃』のようなメガヒットが生まれる。変わらないから信頼が生まれる。新機軸とか新たなチャレンジとか言い出したら、それはもう危険信号なのかもしれない。

 では、自分の身に置き換えて、これから徳井健太は変わらないままで居続けることができるのか? と問われるとすごく難しい。変わらないっていうことはものすごく勇気がいる。変わることも変わらないことも勇気がともなう。

 自分に求められている役割だってあるだろう。俺の仕事は、半分ぐらいが裏方的なポジションを担うもので、業界的にもそういう役割を期待していると思う(自分自身も楽しんでいるけれど)。自分が自分に思っているキャラクター性と大きな乖離はないから、「嘘はついてない」。そういう意味では自然に仕事ができていて充実感もある。でも、ロケの仕事だって増えてほしいし、そうなるとまた違う自分のキャラクターが誕生しそうで、「変わらない」なんてこととは無縁のようにも思う。

 あのときの加藤(浩次)さんの言葉がよみがえる。

 パンサーの向井(慧)が、「MCをやるとき、クイズ番組の答える側になるとき、ロケ行くとき、ドッキリを受けるとき、全部キャラが違うんです。どうしたらいいですか?」と相談したら、

「お前恋人といるとき、家族といるとき、友だちといるとき、後輩・先輩といるとき、全部顔違うだろ? 同じヤツって嘘ついてるだけだよな。だから違うくてもいいんだよ」

 狂犬の言葉は、いつだってビリビリ、心に響いてくる。きっと無理やり変えてしまうから良くないんだろう。あくまで自然に切り替えられるようになったら、「変わらないまま、変わること」ができるんだろうな。マンネリ化する自分を楽しんでいきたい。

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