「TOKYO 2020」までの道のりその1

2020年の夏季オリンピック・パラリンピックの開催都市が9月8日早朝、東京に決まった。うれしいニュースに東京はもちろん日本が沸き、その日は一日中このニュースでもちきりとなった。念願の東京への五輪招致。招致委員会はもとより、招致アンバサダーやオリンピアンらアスリートたち、そして東京招致を祈願する多くの人たちの力によってつかみ取ったものだ。その動きを振り返る。

 2009年10月2日、2016年夏季オリンピック・パラリンピックの招致に失敗した東京都。2020年に向けての取り組みは、2011年6月17日に再選を果たした石原慎太郎都知事が所信表明で2020年の東京夏季オリンピック・パラリンピックの招致を目指す意向を表明したことでスタート、悲願達成に向け動き出した。

 まずは同年9月15日に「東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会」が設立され、同11月28日に第1回評議会が開催。30日には招致活動のシンボルとなるロゴを発表された。ロゴを制作したのは女子美術大学4年生の島峰藍さん。ロゴは、桜をモチーフにデザインされた。

 年が明けると、動きは加速。2012年2月4、5日に行われた「東京ゲートブリッジ完成記念スポーツフェスタ」で招致をPR。同13日には招致委が国際オリンピック委員会(IOC)本部(スイス・ローザンヌ)を訪れ、申請ファイルを他都市に先駆けてIOCに提出した。

 また国内での招致の機運アップに強力な援軍・EXILEが加わったのが同3月29日。東京都の広報紙「広報東京都4月号」をはじめ、無償協力で紙面・ポスターなどに登場。若者に影響力のあるEXILEの応援は追い風となった。

ロンドン五輪で加熱した招致運動

 ロンドン五輪のカウントダウンが始まるなかで、オリンピアンを中心としたさまざまな種目のアスリートたちが積極的な招致活動を展開するようになったのもこのころ。オリンピアンが国内オリンピック委員会連合 (ANOC)総会でプレゼンテーションを展開したり、「開催都市決定500日前イベントat渋谷ヒカリエ」(4月26日)といったイベントに出席し、五輪の魅力をPRした。

 そして5月、東京は2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の正式立候補都市に、イスタンブール、マドリードと並んで、選ばれた。選定を受け、同29日には招致エンブレムとスローガン『今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。』を発表。そして7月19日には国際スローガン『“Discover Tomorrow”〜未来(あした)をつかもう〜』を発表し、ロンドン五輪期間に突入したのだ。

 ロンドン五輪では、オリンピック・パラリンピックともに日本選手が大活躍。オリンピック閉幕後、金メダリスト7人を含む総勢71人のメダリストが参加して銀座で凱旋パレードが行われ、沿道には約50万人の大観衆が集まった。ここでも2020年の招致を大きくアピールし、「この感動を日本でも見たい!」という人がぐんと増え、招致機運も高まって、2013年3月に公表された支持率70%に大きく寄与したと見られる。
 9月7日には「開催都市決定 1 年前記念イベント」が開催されると招致活動はヒートアップ。オフィシャルパートナーが加わり、イベントも盛んに。年も押し迫った12月21日には招致アンバサダーを発表。太田雄貴、澤穂希、吉田沙保里らが就任した。そして、2013年。運命の日9月7日に向けて、チーム日本一丸となって招致運動は盛り上がっていた。

2016年がなければ2020年はなかった!
「たいまつの火を消さずによかった」


 東京招致の実現は、2016年の招致活動がなければ実現しなかった。10日、ブエノスアイレスから帰国した水野正人・招致委員会副理事長は、同日行われた報告記者会見のあと、報道陣に対して、力強く言った。「第1回の招致があるから今がある。選手村など施設の整備、IOCのメンバーの分析も含めて、前回学んだことをすべてを今回に生かせたのが勝因です。だから、1回目は失敗ではない」。

 2016年の招致活動を主導したのは、当時の都知事で、日本維新の会の石原慎太郎共同代表だ。2016年、そして2020年の招致運動も、国政参加のために都知事を退くまで引っ張ってきた。東京招致が現実となったことを受けて、石原共同代表は8日、フジテレビ「新報道2001」に出演。五輪招致が実現したことについて「たいまつの火を消さずによかった」とコメントした。