言語のバトルロワイヤル!『みんな、おしゃべり!』が、とんでもない映画だった!【黒田勇樹のハイパーメディア鑑賞記】
黒田勇樹です。
しばらく仕事が凪の状態なので、AIでいろいろ遊んだりしています。いや、このご時世、AIをいじる、仲良くなっておくのはもう仕事かもしれません。
ということで、今週もびっしり仕事してました。
では今週も始めましょう。、

耳が聞こえない、ろう者と、日本語が話せないクルド人による「商店街での対立」という、簡単には理解できない縦軸で、話が進んでいくのですが、ストーリーのメインを支えるのは「手話と日本語の通訳ができる、ろう者の娘」と「日本語とクルド語が出来る、クルド人の青年」の、友情とも恋愛ともとれない人間関係。
散々、親同士の喧嘩を通訳して「代理の口論」を行うのですが、それが終わるたびに、川原で「あんなこと、ちゃんと通訳しないで、上手いこと言っておけば丸く収まったんじゃない?」など、喧々諤々ながら、楽しそうに話す2人を、愛でる映画だと筆者は思いました。
外国人も聴覚障害者も友人にいるのですが「そう!マイノリティと世間に呼ばれる人たちでも、イノセントな存在ではなくて、皆、とても人間くさい!」というところが、まざまざと描かれていて、日本語と適当な英語しか喋れない、マイノリティ言語界の隣人としては、とても痛快に観ることが出来ました。
字幕の付け方も巧妙で「日本語にも手話にもつける、でも、時々全くつけない」これは、シーンごとの登場人物の「どの言葉が理解できていて、どの言葉がわからない」という「主観」を描いていて、とてもダイナミックな演出でした。クルド語と、トルコ語、アラビア語の違いを、クルド語の字幕で表示されても、わかるわけがないのですが、主観におかれている人物が「わからないことにだけは共感できる」と、でも言えばいいでしょうか?
映画好きとしては「この、言語と字幕で、思いっきり遊んでいるところ」も、楽しみのひとつだと思われます。
ネタバレになるので、詳しくは書けませんが、後半には、モールス信号や、新しい文字、未知の言語を操る存在も出てきます。ラストシーンは、笑いを堪えることが出来ませんでした。
ちょっと、長めですが、そんなの気にならないぐらい脳みそをこちょこちょされる傑作なので、皆様も是非、御覧下さい!