【短期集中連載】〈日本で最も歴史の長いプロ格闘技・シュートボクシング40年史〉第8回 シュートボクシングの新たな魅力を存分に発揮した小さな巨人

 来る11月24日、東京・国立代々木競技場第2体育館で創立40周年記念興行「〜SHOOT BOXING 40th Anniversary〜S-cup×GZT 2025」を行うシュートボクシング。プロ格闘技団体として同じ名前では史上最長となる40年という長い歴史を振り返る。(文・布施鋼治/写真提供・一般社団法人シュートボクシング協会)

“小さな巨人”と呼ばれた村濱武洋

 90年代半ば“小さな巨人”と呼ばれたシュートボクサーがいた。身長166cmと小柄ながら、70㎏級戦線でも活躍した村濱(当初は村浜)武洋だ。

 プロデビュー以来、怒濤の11連勝をマークし、一躍、吉鷹弘に続くエースにのし上がった。前回記した通り、第1回GROUND ZEROでのチャモアペット戦はムエタイの生きる伝説をあと一歩というところまで追い込んだことで村濱の知名度を一気に高めた。

 正方形のリングを目いっぱい使うフットワークを駆使しながら、スピーディーな連打を仕掛けることを得意としていた。しかもスタミナは無尽蔵といっていいほど落ちることがなく、後半になればなるほど本領を発揮した。

 その真価が最大限に発揮されたのは1997年11月9日、東京ドームで行われたK-1ジャパン フェザー級グランプリで優勝したときだろう。準決勝で全日本キック代表の前田憲作を、続く決勝でMA日本キック代表の佐藤堅一を連破した村濱は文字通り国内フェザー級№1の称号を手にした。

 振り返ってみれば、その4年前に行われたSBのアマチュア大会で優勝した村濱は、時の人だった全日本キックのエース立嶋篤史に対して「立嶋? あんな奴、やったりますよ」と宣戦布告したときからキックファンからは目の仇にされていた。

 いい意味でヒールになっただけに、どんな発言をしても注目される存在になったといっていい。しかし東京ドームという大舞台でビッグマッウスを有言実行したことで、保守的なキックファンもその実力は認めざるをえなくなった。

 そんな村濱が“これぞSB”というべき激闘を魅せたことがある。99年3月10日に実現したダニー・スチール(アメリカ)戦だ。投げやスタンドでの極め技が認められているとはいえ、KOによる決着が好まれることは他の立ち技格闘技と一緒だった。

 しかしながらスチール戦はSB史上初めて“投げで勝負が決するかもしれない”という従来の試合とは全く違うスリリングな攻防を見せてくれたのだ。最初に投げを成功させたのは村濱のほうだった。1ラウンド中盤、スチールの左腕を巻き込むようにして豪快な一本背負いを決めたのだ。投げられているほうの足の裏が一瞬とはいえ、天井を向くほど見事な弧を描いたスローだった。

 村濱がもう一度一本背負いにトライしようとすると、スチールは村濱の右腕もホールドするようにして思い切りジャーマン・スープレックス(原爆固め)。あまりにも勢いよくブリッジしたものだから、一瞬スチールの両足が宙に浮くほどの投げだった。

 続く2ラウンドにもスチールは反り投げを見せ、観客の度肝を抜く。スチールは当時ロシアで生まれ、アメリカで急速な広がりを見せていた“ドラッカ”の出身。この新興格闘技はパンチやキックに加え、投げを認めていた。試合時間やポイントのつけ方こそ違いはあれど、SBとほぼ重なり合うルールを採用していたのだ。

 激しく交錯したのは投げだけではない。スチールのローキックによって村濱は下半身に大きなダメージを負ったが、ローのタイミングを読むや、飛びヒザ蹴りを見舞っていく場面も。一進一退の攻防の中、延長戦残り時間10秒というところで、スチールは再びジャーマンを投げる体勢をとった。

 そのまま投げられたら、村濱の敗北は決定的となる。この投げるか、投げられるかという緊迫感がこれまでのSBにはない新たな興奮を呼び起こしたといえるだろう。間違いなくSBの新たな可能性を見せた一戦だった。結果的に延長戦で村濱が3-0の判定勝利をモノにしたが、その裁定を勝者は潔く受け入れることができなかった。筆者は、かつてSBの創始シーザー武志が語ったファイターとしての村濱の評価を思い出さずにはいられなかった。
「村濱は純粋すぎるんだよ」

 そうであるがゆえに、その後、村濱はプロレス、K-1、そしてMMAに新たな活路を求めたのだろうか。小さな巨人が古巣SBにカムバックを果たすまでに8年もの歳月を要している。
(第9回に続く)