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赤ちゃんファースト、世界一のコスパ「カラオケパセラ」に天国があった!【徳井健太の菩薩目線 第220回】

2024.10.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第220回目は、「カラオケパセラ」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 赤ちゃんを育てていると、「行く場所を選ぶ」という人は多いのではないでしょうか?

 現在、僕たちは1歳の赤ちゃんを育てています。僕は、赤ちゃんと行動するときに、あまり難しく考えていないのですが、奥さんは気にするようで、ご飯を食べに行くにしても、「赤ちゃんがぐずったりしても大丈夫か」とか「赤ちゃん用のイスがあるか」といったことを考えています。

 僕は、赤ちゃんが泣いたからといって、周りに迷惑をかけているつもりもないし、彼が成長していく上で必要なことだと思っているので、周りの目を気にしない。まぁ、気にしないということを気にしているとも言えるので、ベクトルが違うだけで、奥さん同様、「気にしている」のかもしれない。

 皆さんは、「カラオケパセラ」をご存じでしょうか? 「知ってるに決まってんだろ」と目くじらを立てたアナタ。実はパセラは、東京、横浜、大阪にしかないということもご存じで? 

 新宿や渋谷、池袋、上野といった都心の繁華街に馴染みのある人であれば、「カラオケパセラ」は一般的でも、そうではない人からすればピンとこないかもしれない。東京に暮らす僕たちにとって、「カラオケパセラ」は当たり前の存在だけど、非東京では当たり前ではない、なんとも不思議な存在でもあるのです。

 知っている人にしか伝わらなくて恐縮ですが、「カラオケパセラ」と言えば、ハニートーストですよね? 僕もそのイメージが強く、若い頃にちょこちょこ通っていた――その程度のイメージしかありません。

 ところが調べてみると、“新宿の「カラオケパセラ」が子連れにとって使い勝手がいい”らしい。そこで先日、僕も奥さんもカラオケが好きなので、新宿の靖国通り店に三人で行ってみることにしました。

 結論から申し上げると、小さな子ども育てている人にとって新宿靖国通り店は、天国に一番近い場所でした。

 パセラを運営している親会社は、ホテルやレストラン、ウェディング&パーティースペースなど多角的な展開をしている。だからなのか、カラオケボックスとは思えないほどアメニティが充実していて、おむつまで無料……ひっくり返りそうになりました。プランに応じて利用できるものは変わってくるのですが、とにかく子どもが飽きないような工夫がいたるところに張り巡らされているのです。

 部屋に入れば、終始、キッズチャンネルが流れているし、子どもが遊べるような玩具も豊富。もちろん、ドリンクも無料です。「授乳中」というドアサインまで用意してあり、これをドアに掲げておけば、ホテルの「Please Don’t Disturb」よろしく、スタッフさんが入ってくることもない(ノックをすることもない)。ハニートースト一色だったパセラの思い出は、入店からものの10分程度で、子育て組の楽園として上書きされたほどでした。

――気が付くと、僕らは8時間もいました。

 料金は3時間パックと5時間パックがあるのですが、夫婦2人でまさか8時間も歌うなんて。どこのウッドストックだよって。

 子どもはキャッキャウフフと楽しそうにしているし、僕ら夫婦はカラオケで盛り上がる。こんなに気兼ねなく子育て世代が楽しめる場所が世の中に存在したのかと思うと、なんだかんだで僕自身、やっぱり「気にしないことを気にしていた」んだなと再確認しました。「お時間です」の電話がかかってこなければ、僕らは肉体が朽ち果てるまで、ストレスフリーのネバーランドに居続けたと思います。世界は、自分次第で広げられるんですね。

 周りの目を気にすることもなければ、子どもに必要なものまで揃っている。入店したとき、各部屋の前に利用者のベビーカーがずらりと並んでいたのが印象的だったのですが、すでに保護者から絶大な支持を集めているんだなということが分かりました。大納得です。

 ちなみに、お酒も飲んでご飯も食べて8時間歌って、お会計は15000円ほどでした。お酒を飲まなかったらもっと安いはず。8時間はどうかしていると思いますが、3~4時間であればとてもリーズナブルに家族の思い出を作ることができると思います。

 僕たちは、「カラオケパセラ」をナメていた。すべての「カラオケパセラ」が、ファミリー向けに特化しているわけではなさそうなので、利用する際は事前に確認してから行くことがオススメですが、どうしてもっと知られていないのか、本当にナゾ。店舗によってはライブやイベントができるスペースがあったり、ダーツバーを有していたりと、違うジャンルに特化しているようで、日本の企業努力は恐るべしです。異様な進化を遂げるジャパニーズクオリティ。子育てに奮闘するママさん、パパさん。誰にも気兼ねすることなく時間を過ごせるネバーランドが、新宿にあったんです!

自分らしく尖り散らかせ「テレビ大陸音頭」、でっけぇ壁にぶち当たるまで!【徳井健太の菩薩目線 第219回】

2024.09.30 Vol.web original

サイコの異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第219回目は、テレビ大陸音頭について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 テレビ大陸音頭というバンドがいる。札幌を拠点に活動する現役高校生スリーピースバンドで、調べてみると2023年に結成されたらしい。

 テレビ大陸音頭は、X(旧Twitter)ユーザーのポストがきっかけでバズり、「俺に真実を教えてくれ!!」は、Spotifyのバイラルチャートで3週連続1位をかっさらったという。JO1、櫻坂46といった錚々たる面子を抑えて1位の座を譲らなかったのだから驚きだ。

 彼らの音楽は、7080年代のポストパンク的で、とてもじゃないけど10代が奏でているものとは思えない。だけど、演奏する姿は、ドラムの子が水中ゴーグルをかけながら叩いたり、よく分からないユニフォームを着たりして、若々しさと奇のてらいっぷりが10代のそれで清々しい。

 そんな彼らが、日テレの情報番組『DayDay.』の一コーナーに生出演していた。自分の10代が今にも崩れそうだったことと比較すると、彼らの堂々としたパフォーマンスは、シンプルに「すごいな」って思わされた。

演奏後、「テレビ大陸音頭の皆さんから、出演者の皆さんに質問があるそうです」とトークが始まると、彼らは、

「どうやったらモテますか?」

 と切り出した。『DayDay.』出演者の一人が、「そんなの全然気にしなくていいと思いますよ。すでに十分かっこいいんですから」といった趣旨の返答をすると、テレビ大陸音頭は面映ゆそうに笑っていた。

「本当かなぁ」と、僕は思った。本当にこの子たちはモテたいのか。もし、あの場に僕がいたら、「いやいや、そんなこと1ミリも思ってないでしょ」と切り返していたと思う。

 だって、真空ジェシカがめちゃくちゃふざけた格好をしながら、「どうやったら僕たち売れますか?」って聞いているような空気に近いものがあって、とりわけ10代という特別な瞬間が重なったその光景は、純度100%の青春のようだったから。ふざけてナンボ。青春に正解なんてないんだから。

 彼らの質問は、大衆にモテたいのか、特定の異性にモテたいのかで変わってくるから、後者だったら本当にそうなのかもしれない。

 でも、テレビという大衆が見るだろう舞台装置で、あえて「モテるにはどうしたらいいんですか」みたいな、ザ・テレビ的なことを言ってのける、そのパンクスピリッツ。いいね、若いね、サイコーじゃん。僕たちがそんなことを言ったら放送事故。放送事故にならないのは、彼らが持っている特権だ。

 尖っているくせに、尖ってないフリをする。尖ってないフリをしているのに、アッカンベーはしている。そんな気持ちを、僕らはだいぶ昔に置いてきてしまった気がするから、うれしくなった。

 きっと彼らはさらに有名になって、多くの人に知られる存在になると思う。どうしたって丸みを帯びていくだろう。そのとき、どう彼らが戦って、せめぎ合いをしていくのかものすごく楽しみです。丸みは帯びてほしいけど、丸くなってほしくない。勝手なことを言っているけど、第三者なんでご容赦を。

 今では、すっかり「尖る」という言葉も死語になりつつある。僕らが若い頃と、今を生きている若い世代では、まるで環境が違うんだから仕方ない。

 SNSや配信がある今の時代は、どんなに小さな箱の中でも、努力やアイデア次第で自分らしさをたくさんの人に届けることができる。対して、僕らが20代だったときは、そうしたものはなかったから、箱そのものを拡張していかなければいけなかった。どんなに自分らしさを磨いても、100人のキャパシティから脱出できなければ、そこで飢え死にするだけ。だから、自分らしさというものをカスタマイズしながら、300人の箱、500人の箱……段々とみんなに合わせていきながら自分らしさを見つけていた。そこそこ食えるようになって自分の足跡を振り返ったとき、ガリガリに尖っていたときの自分らしさが、今の自分には残っているのかなぁなんて思ったもんです。

 今の時代は、自分らしさを表現したまま売れやすくなっているとも思う。でも、簡単に数に追われてしまう時代でもあるから、それはそれで息苦しい。いつの時代も一長一短だ。いつだって、自分を裏切り続けることはとても難しいことなんだと思う。

親近感グラデーションと島根大社、北九州における脳内ドーパミンとの関係性!【徳井健太の菩薩目線 第218回】

2024.09.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第218回目は、親近感について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 言葉ではうまく伝えることができなくても、「そうそう」と共感してくれる話ってたくさんあると思います。こういう現象に、特定の言葉を授けたいと思うのは、僕だけでしょうか――。

 僕のルーツは、千葉県と北海道にある。そのため甲子園を見ていると、なんとなくその2つの代表校を応援してしまう。でも、変な話だと思いませんか。僕は東京に住んでかれこれ25年になるのに、どうして東京代表の出場校を応援しないのだろう。皆さんも、似たような経験がありませんか?

 今年の甲子園で言えば、島根県代表の大社高校と西東京代表の早稲田実業が対戦したときもそう。どういうわけか早稲田実業ではなく、大社高校を応援している自分がいた。判官贔屓というよりも、東京にいる自分が東京代表を応援する気持ちになれないという不可解な心理に近い。

 普通に考えれば、47都道府県でもっとも人口が多いのは東京都なんだから、甲子園でもっとも声援を集めてもいいはず。なのに、どういうわけか東京暮らしの人からあまり関心を寄せられない。

 昨年、大きな話題を提供した慶應義塾高校にしても、東京の高校だから白熱したわけではなかった。慶應OBが異様とも言える雰囲気で慶應義塾高校を応援している図式に賛否が渦巻いただけ。一体、東京はどこに行ってしまったのか。

 とはいえ、僕自身も仮に新宿に拠点を置く高校が出場したら、手に汗握って応援すると思う。菩薩目線『僕は新宿が好きです。だから、クリアソン新宿を応援します! にわかです、でも家族ぐるみで応援します!』で触れた通り、今ではすっかりクリアソン新宿の結果が気になって仕方がない。FC東京にはピンと来ないけど、地元であるクリアソン新宿にはドはまりする。東京って、結局何なんだろうか。

 ところが、この地元への愛着すらも、時と場所によって、はるか彼方へと消し飛んでしまうから恐ろしい。僕の奥さんは北九州出身だけど、九州で九州出身の人と遭遇しても、何も珍しくないから特に話は進展しない。だけど東京で、初対面の人が九州出身だと分かると、妙にテンションが上がると話していた。分かる!

 僕の場合で言えば、北海道ということになる。もし、東京でたまたま会った人との会話の中で、「私、北海道出身なんですよ」などと言われたら、少なからず「同志よ」などと感慨にふけってしまうと思う。その後に、「別海町……って分かります。北海道の東の方の出身で」なんて言われたら、生き別れた兄弟のように接してしまうかもしれない。

 対して、札幌でたまたま会った人との会話の中で、「私、北海道出身なんですよ」などと言われても無風状態だと思う。仮に、「別海町」だと告げられても、「奇遇ですね」程度の反応に下がってしまうのは、なぜなんだ。

 この親近感のグラデーションは、何が原因で変わるんだろう。東京で耳にした「北海道出身(別海町出身)」に対しては、ものすごく親近感を覚えたり、テンションが上がったりするのに、北海道で耳にした「北海道出身(別海町出身)」にはアンテナが働かない。人間って、本当に不思議な生き物だと思うんです。同じ情報でも、会った場所や時間で印象が変わってしまう。これが「運」というやつなんでしょうか。

 同じことを繰り返していると、脳は慣れてしまって、快楽物質「ドーパミン」が分泌されづらくなるらしい。新しい体験をすることが、脳の鮮度をキープする上で大切だという。北海道で北海道の人に会うのは当たり前。でも、東京で北海道の人に会う方が確率的には新鮮。だから僕らは刺激を受けて、ドーパミンが放出されるんだろうか。

 言われてみれば、海外に行って日本車を見かけると妙にテンションが上がる。日本にいたら毎日のようにトヨタの車を見かけるのに、馴染みのない異国の地でトヨタの車を見ると、「トヨタだ!」ってテンションが上がるし、「頑張れ!」といった謎の感情がこみ上げてくる。

 親近感を抱くとき、テンションが上がるとき、僕らの脳は活発になっている。どんなに些細なことでも反応しているってことは、脳が新鮮さを覚えているってこと。その興奮にダイブして、鮮度を忘れちゃいけない。やっぱり何事も慣れるのって良くないんですよね。

若手時代からの盟友ザ・パンチさんによる「徳井健太」の性格診断【徳井健太の菩薩目線 第217回】

2024.09.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第217回目は、『THE SECOND 〜漫才トーナメント〜2024』準優勝者であるザ・パンチについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 8月末に行われた『敗北からの芸人論 トークイベント vol.14』。そのゲストとして『THE SECOND 〜漫才トーナメント〜2024』準優勝者のザ・パンチのお二人に来ていただいた。このお二方と僕は深いつながりを持つ。

 ザ・パンチのルーツはNSCではなく、渋谷公園通り劇場にある。学生時代にオーディションに参加し、デビューを果たしたコンビ。当時の渋谷公園通り劇場には、ガレッジセールさんを筆頭に、カラテカさん、あべこうじさん(当時はコンビ)、犬の心さんなどが板の上に立っていた。その中に、僕が勝手に師匠と仰ぐ、カリカのお二人もいた。

 ザ・パンチの浜崎さんも松尾さんも、カリカのお二人と仲が良く、特に浜崎さんは家城さんとも林さんとも仲が良かったから、僕が師事していた林さんを介す形で、毎日のように会っていた。芸歴では、お二人の方が2期先輩にあたるけど、年齢は一緒。同世代ということもあって、20代の頃は本当によくザ・パンチさんとあーでもないこーでもない話をしていた。

『THE SECOND』で準優勝を果たしたことで、現在、ザ・パンチさんは芸能界一周旅行の最中にいる。お二人と会って、がっつり話しをするのは十何年ぶりくらいだろうか。でも、当時と距離感は変わっていなくて、僕自身、とても感慨深い時間を過ごさしてもらった。

 昔から、僕と松尾さんは意見がぶつかることが多く、トークイベントでもところどころ舌戦になった。その様子を横で見ていた浜崎さんが、「懐かしいな。お前らよくぶつかってたよな」と口にしたとき、20代の景色がフラッシュバックした。

 浜崎さんは、「お前は普段クレイジーだけど、酒を飲むとホントお笑いの話ばかりしていたよな」と懐かしんでいた。全然変わっていないから、徳井がお笑いの分析みたいなことをしているのも納得だと頷いていた。

 その言葉を聞いて、僕は面映ゆくなるとともに、自分の矛盾さにハッとした。

 人は普通、酔ったときにクレイジーになる。酔ったときに人間の本性がさらけ出されるとしたら、僕のクレイジーは偽りの姿で、やせ我慢だったんだろうなって。酔った勢いじゃないと真面目な話ができなかった僕は、20代はずいぶんと本能をごまかしていたんだと思う。本当はあの頃からたくさんお笑いの話をしたかったんだなって、ザ・パンチさんと話をして気が付かされた。

 話の中で、松尾さんから「ずっと昔から思っていたけど、徳井はすぐに核心に迫ろうとするよな」と指摘された。そんなこと今まで考えたことなかった。

「10が核だとしたら、徳井は8.9.10から話をする。人間っていうのは、まず天気の話とか当たり障りのないこと、つまり1.2.3あたりから話すんだよ。そこから5.6.7になったとき、さも8.9.10くらいのつもりでリアクションをする。それが人間なんだ」

 松尾さんの説明を聞いて、ものすごく納得した。興味がある人を目の前にして、天気について話したいなんて思わないんだから。

「俺らはまだいい。関係性もあるから。でも、お前は初対面の人でも8.9.10からいくから、本当であればめちゃくちゃ人とぶつかるはずなんだよ。でも、その割には揉めごとの数が少ないから、徳井はピュアなんだろうな」

 十何年ぶりに話したとは思えないほど、心地よかった。たしかに、僕はすぐ心臓を掴みにいこうとする。1.2.3が欠けていて、どうやらもう治りそうにもない。相手を身構えさせてしまうだけだから可愛げだってない。だけど歳を取り、厄介な角が取れたことで、僕は今、こうしてなんとか対話できている。そんな大切なことを気が付かせてくれた浜崎さん、松尾さん、昔も今もありがとうございます。

 金も夢も何もない中で、ただお笑いが好きって一点突破だけでつながっていた同志。渋谷公園通り劇場によく登場していた芸人たちは、その多くがどういうわけか解散している。銀座7丁目劇場に比べると、圧倒的にその数は多いから、あの場所は呪われていたのかもしれない。そんな場所から、今、狼煙を上げているザ・パンチさん。僕はめちゃくちゃ楽しみにしています。

お笑いや音楽における革新と保守の関係性、の話!【徳井健太の菩薩目線 第216回】

2024.08.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第216回目は、革新と保守について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 革新と保守について。都知事選の話、というわけじゃない。

 音楽もお笑いもそうだけど、自分の中で「すごく好き」とか「めっちゃかっこいい」とか思うものに、何か共通点はあるのかなって考えることがある。

 尖ったことをしている人を革新、丸みを帯びていることをしている人を保守――と仮定したとき。なんとなく自分の嗜好が整理できる。

 丸みを帯びている人たちが売れていく。これってすごいことに違いはないけれど、なんというか「すごくない」。というか、当たり前だと思うんです。万人受けするようなことをしているわけだから、当然、売れる可能性は高くなる。

 だったら、尖っている人たちが、そのまま尖ったまま売れた場合はどうだろう? これって、やっぱりすごいことなんだけど、めちゃくちゃすごいってわけでもないような気がする。尖った人たち自身に大きな変化はなく、時代が追いついたり、口コミで一気にブレイクしたり、運を含めた何かが味方したから売れたということになる。

 では、尖っている人たちが丸みを帯びた方向に寄せていって売れる場合は? ああ、僕はこれが音楽でもお笑いでも好きなんだなと思った。もしも売れたなら、本人たちの努力や「変わる」といった明確な意識が伴わなければ成立しない。プライドをバキバキにへし折られた変化が眠ってる。

 例えば、マヂカルラブリーの野田を見ているとすごいなって思う。あんなにセンスのある奴が、きちんと最大公約数に身を投げ出して、アジャストしたんだから。売れるために必要なことをアタッチメントしたり、こだわりやプライドを肉抜きしたり。改造したから売れている。

 丸みを帯びていた人たちが、ある時期を境に急に尖り始めるという逆のケースがある。正直、僕的には一番よく分からない現象だと思っている。大いなるマンネリではないけれど、ずっと大衆に向けて、大衆が求めていることをするってものすごい覚悟。地中深くに刺さってないと真似できない。なのに、「僕たちはこんなこともできます」なんて実験的なことや、求めていないことをし始めたら、「?」にもなるでしょうに。

 僕は、革新から保守に向かっていく、そんな存在が好きなんだと分かった。それを体現している音楽や笑いをリスペクトしているんだろうなって。

 昔、佐久間宣行さんが、「変わっていく人を応援したい」といったことを話していた。

 その言葉に鑑みれば、僕が足を向けて寝られない「腐り芸人セラピー」も、変わっていく過程をあぶりだした企画に違いない。板倉さんも、岩井もあんなに尖っていたのに、この企画を機に良い意味でポップになっていった。ゴツゴツしていたものが丸みを帯びていく時間の中に、ほんの少しでも僕も居れたことは幸せなこと。僕も変われたんだと思う。

「思う」なんてあやふやなのは、意識的にどうこうしようとかではなくて、結果的にそうなっていた――にすぎないから断言できない。

 若手芸人から、「徳井さん、どうやったらお客さんのウケが良くなりますかね?」と相談されても、本人たちがもがき続けてプライドがへし折られる瞬間を迎えないと、どうにもならない。

 だからいつも僕は、「好きなようにやりなよ」としか言葉を贈れない。あえてその後に添えるなら、「壁にぶつかったらまた相談しに来てね」。

 壁にぶつからなかったら、次の方向は分からない。壁にぶつかっていないなら、ぶつかるまでやってみてください。バッターボックスに立って、来た球を振る。何度も何度も振ってみて、前に飛んだり、当たったものの後ろに逸れたり、そもそも当たらなかったり、どんな結果になろうとも立つしかない。何度も振ってみたけどそれでも分からない――。壁にぶつかる瞬間が訪れます。ぶつかることを恐れちゃいけないんです。

エンタメの基礎も応用もその先も、すべてはアンパンマンの中にぎっしり詰まっている【徳井健太の菩薩目線 第215回】

2024.08.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第215回目は、アンパンマンについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 映画『それいけ!アンパンマン ばいきんまんとえほんのルルン』を、まだ観ていない方。できるだけ早く観に行ってください。今作は、タイトルからも分かる通り、ばいきんまんが主役。子どもだけでなく、大人も楽しめる一作なので、この夏、ぜひとも見逃してほしくない作品の一つなのです。

 映画についていろいろと話したいことはたくさんあるんですけど、それを綴ってしまうとネタバレになってしまうので、あくまで僕が感じた所感のみを記させていただければと思います。

 今年の夏は本当に暑い。めまいがしそうだ。

 僕は子どもと一緒に、新宿にあるkino cinemaという決して大きくはない映画館へ観に行った。新宿3丁目にほど近い、スシローの上にある映画館。家から遠くないこともあって、僕はここをたびたび利用する。450円でお代わり自由のドリンクバーがあるのも家族連れにはうれしいサービスだし、ちょっとマイナーな作品を取り扱うあたりも、個人的に気に入っている。

 夏休みにアンパンマンの映画を上映する映画館なんて、大きなシネコンを含めて山ほどある。まさかkino cinemaで、アンパンマンの映画が上映されるなんて思ってもいなかった。映画好きが集うだろうkino cinemaで、キングオブメジャーとも言えるアンパンマンの映画を上映すること自体、正直驚いた。

 その日、劇場には僕たち家族とカップル一組しかいなかった。エンタメのド真ん中の作品が上映されるというのに、あまりの静けさ。蛙が飛び込む音だって聞こえてきそう。ある意味、kino cinemaっぽくない作品を上映している証左だし、今からアンパンマンを観るという非現実的世界に没入することを考えれば、最高のシチュエーションだったかもしれない。

 ライブには必ずセットリストがあると思います。「今日は良いセットリストだったな」とか、「今日あの曲やってないから微妙なセットリストだったな」とか、セトリ次第でライブの印象ってかなり変わると思うんです。僕は自分が行ったわけでもないライブのセトリが気になってしまい、「いまあのアーティストがツアーをしているけど、どんなセトリ何だろう」なんて具合にチェックする癖がある。例えばCreepy Nutsだったら、「Bling-Bang-Bang-Bornをどのタイミングで演っているんだろう」とか。一曲目でぶっ放せばめちゃくちゃ盛り上がるだろうし、終盤にやれば溜めた分だけ盛り上がる。セトリって、聴衆を乗せる乗せないに大きくかかわってくるわけです。

 何が言いたいか――というと、今回のアンパンマンの映画は、まず“掴み”が最高だったということ。序盤に心を鷲掴みにされるような曲(的なシークエンス)を持って来ることで、僕らはすっかりアンパンマンの映画の世界にダイブ。

 アーティストがあえてライブの一曲目に静かな曲を持ってきたりすると、お客さんはどう乗っていいか分からない。やっぱりお客さんが求めていることを、どんな形であれ体現することは、お金を払って観に来ている人に対して最良のパフォーマンスなのではないのかなって思う。もちろんこだわりだってある。でも、わかりやすさはもっと大事なんじゃないのって。外したり、あえて逆に行ったりしても、そこにわかりやすさが伴わなければ置いてけぼりになってしまう。

 そういう意味で、アンパンマンほど分かりやすい世界はない。

 アンパンマンには、お約束とも言える「助けてアンパンマン!」のくだりがある。当然、映画とはいえ今回もお約束は訪れる。

 その瞬間、僕は泣いた。

 物語に没入していたから、お約束を忘れていたんです。何度だって知っているはずなのに、初めて体験したようなその瞬間に、全身の穴という穴からドーパミンが吹き出た。完璧なセトリ。「あの曲、まだ演ってないな」と思わせることすら忘れさせるほどの展開――からのスーパーウルトラキラーチューン。こんなん泣いちゃいますって。

 エンタメを再考する傑作でした。これっていろいろなことにも当てはまる。芸人の単独公演。幕が開く。一発目に暖気運転的な漫才やコントをすることがあるけど、そういうことではなくて開始早々からフルスロットルで観客のハートを撃ち抜きにいく。そんな気持ちが大事なんだなって。まぁ、僕らは単独公演というものをはるか昔に置いてきてしまった人間なので、お前らが言うなよなんだけど。

 下手とかオーソドックスとか、もしかしたらマンネリなんて言われるかもしれない。でも、お客さんが求めているものを分かりやすく続けていることが、一番難しいし、もっとも尊いことなんじゃないでしょうか。毎日同じことを繰り返す、手を変え品を変え誤魔化す、そんなことに対して疑問を覚えている人は、この夏、アンパンマンを観に行ってみてください。

僕の思う『(株)世界衝撃映像社』で教え鍛えてもらった、ロケの極意!【徳井健太の菩薩目線 第214回】

2024.08.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第214回目は、テレビ番組の配慮ついて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 昼間、ボーっと情報番組を眺めていると、多数の飲食店が集うフードフェスティバルのような場所から中継が行われていた。なんでも、日本一のハンバーガーを決める「JAPAN BURGER CHAMPIONSHIP 2024」なる大会が、さいたまスーパーアリーナで開催されているらしく、出場しているだろうハンバーガー店のオーナーさんがインタビューに応じていた。

 僕は少し体を起こして見入った。というのも、話をしている「塩見skippers’(スキッパーズ)」という店名が気になったからだ。フリッパーズギターと関係あるのかな、スキッパーシャツに由来しているのかな。skippers’という響きがどこか親しみを覚え、とても良いネーミング……どうしてこの店名になったんだろう? そんなことを思いながら、アナウンサーの言葉を待っていた。

 だけど、待てど暮らせど店名の由来には触れない。でも、僕の疑問は氷解した。インタビューを受けているオーナーさんは、とても分かりやすいすきっ歯の持ち主で、前歯をモチーフにしているTシャツまで着用している。確実にこの店名が、取材に応じているオーナーさんの前歯に関係していることは明らかだった。その後、気になって調べてみると、やはり店名はすきっ歯に由来すると話している動画を見つけた。

 誰よりも近い場所にいたアナウンサーが、店名について触れることは最後までなかった。僕ら芸人だったら、おそらく触れていたであろうことを考えると、立場によってこうも話の内容は違うのかと、少し考え込んだ。

 言われてみればこのご時世、触れないことがもっとも無難ではあると思う。でも、ものすごくキャッチーでセンスのある店名だと感じた一視聴者の僕からすれば、気になって仕方ない。おまけに、どう考えても答えは明らかで、その上、めちゃくちゃおいしそうなハンバーガーを作っている。「面白いお店だな」なんて興味のよだれがダラダラと流れ出てしまっているわけだから、まったく触れないことにモヤモヤした。ましてや、自らTシャツで強調しているくらいだから、このお店を取材する以上は触れてあげてもいいのでは――。情報番組だから優先すべき話が他にあったとしても。

 例えば、聞き方次第でまったく導線って変わってくると思うんです。

「店名がすごくユニークでかっこ良いと感じたのですが、どうしてなんですか?」と振ってみて、取材に対応している人自らが打ち明ければ、“直接的”な聞き方にはならない。

 街でロケをするとき、やっぱり僕らは撮れ高を気にしてしまう。そのため、ちょっとピーキーだったり、尖がったりしていそうな見た目の人に話を聞きに行く。このとき、「お父さん、ヤバそうですね?」とか「お父さん、仕事してなさそうな見た目してますね」なんて聞いたら一発レッド。即退場。でも、「お父さん、日中から楽しそうですね。何されてるんですか?」と聞いて、その人自身が「昼から酒よ。酒最高」と話す分には問題ない。「え? こんな時間から? お仕事は!?」と聞き返して、「先月辞めた!」なんて言葉が返ってきたら、結果的にみんながハッピーエンドを迎えられる。

 アナウンサーにこういったことを求める必要はないと思う一方で、不特定多数の視聴者が見ているテレビ番組である以上、インタビュアーは視聴者のハテナや興味関心に対して最低限もがいた方がいいんじゃないとも思う。そのもがきを回避して、面倒なもの(になりそうなもの含む)をスルーしてしまうと、配慮というか、排除じゃんって寂しくなってしまう。

 自分自身、いつからこんなことを考えるようになったんだろうと振り返ってみると、『(株)世界衝撃映像社』に原点があるような気がする。番組では、僕らは海外ロケをする若手芸人という一つの駒に過ぎなかった。ディレクターが求めているのは、僕らの感想ではなくて、現地の人がどう思っているか――、「それを聞き出してくれ」と僕らは耳にタコができるくらい言われていた。僕らを通して、そこで暮らす人々の面白い姿や言葉を届ける。僕らは媒介者に過ぎない。

 どう考えても、「この料理でお腹がいっぱいになるわけない」と思うけど、自分の口から、「これでお腹いっぱいになるんですか?」なんて直接的な質問は言えない。 「本当はもっと違うものを食べたかったりしません?」、そう聞くことで、原住民の本音を引き出すように努めた。たくさん鍛えられた原点だったなって思う。

 主役は世界の人々だから、使われるのはその姿。自分のコメントが編集で切られることは当たり前だったから、「現地の人のコメントが生きているのは、自分の振りのおかげなんだ」と思うようにして、自分を納得させていた。よくタレントさんや芸人さんは、コミュニケーション能力に長けていると言われるけれど、一日にしてならずなんです。後天的に培われたものの方が分厚いのではないかと思う。

 聞き方次第で好転するし、暗転する。そんな思いもあって、もがくことから避けて、「触れない」っていうのはものすごくもったいないことだと思うんですよね。

一度でも芸能に足を踏み入れたら、「堂々と老害になって散る」。それが義務と責任、恩返しだ!【徳井健太の菩薩目線 第213回】

2024.07.30 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第213回目は、あの頃について、独自の梵鐘を鳴らす――。

青春時代に聴いていた曲を大人になって聞き返したとき、小恥ずかしくなるときがある。一方で、自分にとって大事な“成分”なんだなって思い知らされる。

音楽だけではなく、自分に影響を与えたものは、青い春のあの頃を源泉にしていることが多い。たとえば、僕がお笑いを目指したのは、あの頃、ダウンタウンに衝き動かされたから。今でもeastern youthが好きなのは、あの頃、刺さったから。

でも、その後には、ものすごく才能のある笑いや音楽が生まれているわけで、あの頃出会ったものが一番であり続けるわけがない。なのに、不動の地位から揺るがない。

10代の頃にドリフを見て大人になった人たちは、ドリフが一番面白い人たちだとぶれないだろうし、王・長嶋の野球を見ていた人たちは、どれだけ大谷翔平が活躍しても、王・長嶋がアイドルで居続ける。

麻雀番組でご一緒した雀士の方が、「どんなにおいしい食べ物よりも、あの頃、雀荘で食べたカップ焼きそばよりうまいものはない」と話していた。あの頃は、いろいろなことを思い出させる。

そういえば、僕もコンビニで売っていた100円の紙パックの飲み物をよく買っていた。うっすい果汁を感じる大容量の飲み物で渇きを潤す。売れないときは、こればっかり飲んでいたから、今でもときたま見かけたときは、売れなかったときの自分を思い出す。これ買ってシアターDに行っていたなって。それが必ずしもいい思い出かと言われれば、そういうわけでもない。あの頃は金もなければ、目標もない。あったのは、コンビ間のすれ違いくらい。

今、「ヨシモト∞ホール」でデカい紙パックの飲み物を持っている若手を見ると、「あの時代に戻りたくねー」って記憶がよみがえる。

僕らが出演していた『ピカルの定理』が、人によってはあの頃になっていて、永遠の一位になっている可能性だってある。僕らは、それくらいの影響力を持っている職業なんだなということをあらためて思う。自分が大それた存在になるかもしれないということを言いたいのではなく、そういうフィールドで生きていることをもっと自覚しなくちゃいけないということ。

今の時代は、YouTubeであの頃と再会できてしまう。ついついあの頃に逃げてしまうこともできる。

でも、どう考えたって今の時代の方が洗練されていて、レベルも高くなっているわけだから、逃げ込んだところで……とも思う。「やっぱりあの頃の曲が一番」「あのバラエティには勝てないよね」なんて言うのは、自分の脳が鈍くなっているだけ。いつまでも自分が好きだったあの頃が一番なわけがないんだから。あのときが最高だった――そう思うほど大人として終わっていくんだろうなと思う。

TikTokの何が面白いのかまったく分からないけど、そんな僕を見て、今の若い子たちは、「やっぱりこういう人たちって分からないんだ。終わってんな」って思うべきだし、思われていかなきゃいけない。

僕たちが10代の頃に見ていたお笑いは、「若くて感性のある奴だけが分かればいい」みたいな風潮があった。そういう人たちに憧れた。今、その人たちは50~60代になっている。僕は、第一線で活躍し続ける諸先輩たちを面白いと思っているけれど、冷静に考えれば、感覚としてものすごくねじれ現象が起きていると思うんです。だって、あの頃を信じているんだったら、50~60代のお笑いなんて面白いわけがない。「面白くない」って言ってないと、あの頃の自分に示しがつかないはずなのに。ちょっと切なさを感じるのはどうしてだろう。きちんと老いていっているのかなって心配になる。

あの頃体験したものは、救いになってしまっているから捨てることができない。聖書みたいな存在だ。

捨てられないなら、せめてもう少しポジティブに考えることはできないかなぁと思ったとき、「自分にとって初心に帰れるものがいくつもある」と思うことにした。

紙パックの水を飲んでいたとき、自分はどんな気持ちでシアターDへ向かっていただろう。あの頃は浸るものではなくて、自分の襟を正すものだと考えようと思う。

 

10代の頃の自分よ! 君は44歳にしてミスフィッツの代名詞、デビロックを目指し始めるぞ!【徳井健太の菩薩目線 第212回】

2024.07.20 Vol.web Original

 せっかく短い人生なんだから、やりたいことがあるならやったほうがいいと思うんです。

 僕は今、髪の毛を半分金色にして、半分黒色にしている。奇抜な髪型なので、「徳井さんはどうしてその髪型にしているんですか?」とたびたび聞かれる。だけど、実はまったく理由はなくて、なんとなく半分半分にしているに過ぎない。むしろその質問を聞かれるたびに、「ホントは自分はどんな髪型にしたいんだろう?」と考える。

 ミスフィッツ(The Misfits)という、アメリカのハードコア・パンク、オルタナティブ・ロックのバンドがいる。彼らのトレードマークの一つに、Devilock(デビロック)と呼ばれる、髪の毛の真ん中だけを異常に長く垂らした風貌がある。

 真ん中だけ異常に長いという髪型は、ダサいを通り越し、カッコいいをも追い越して、もう不気味の境地にたどり着いている。でも、なんだかそれが妙にいい。高校時代、自分の青春を直撃したバンドということもあって、僕がホントにやってみたい髪型はミスフィッツなんだということに、半年前に気が付いた。

 実はそれ以降、ずっと真ん中の髪の毛だけを伸ばしている。

 行きつけの美容室へ行くと、真ん中だけは切らないように必ずお願いする。初めてお願いしたとき、「ミスフィッツみたいにしたいので」と伝えてみたものの、僕よりぜんぜん若いだろう美容師さんはまるでピンときていない。そこで、「真ん中の部分だけを長髪にして、ゆくゆくはへそまで届くくらいにしたい」と伝え直すと、美容師さんの顔はいっそう怪訝なものになっていた。

 いま、美容師さんは、生まれてこのかた、体験したことのない髪型に付き合わされている。だからなのか、いつもビクビクしながら、僕の髪の毛を切る。両サイドはどれくらい切っていいのか分からなさそうにしているし、切らないとはいえ真ん中をすくこともしない。ミスフィッツという共通言語を持っていない状態で、髪型をセッティングするのだから、目隠しをされた状態で車の運転をしろと言っているようなものかもしれない。おまけに、「へそまで伸ばす」なんて狂気染みたことを宣言されたからだろうか、僕の頭を盆栽となにかと勘違いしているのかと思うくらい慎重に切る。横の髪の毛を少しだけすく程度だから、美容室へ行ったのにぱっと見は何一つ変わらない。あまりにも変わっていないから、先日は奥さんから、「全然変わってないじゃん。髪の毛を切りに行っているのはウソで、本当は遊びに行ってるんじゃないの?」と容疑をかけられる始末だった。

 髪の毛が徐々に伸びてくると愛着がわいてきて、「早く伸びないかなぁ」なんて気持ちになってくる。これは44年生きてきて、初めて芽生えた感情だったし、発見だった。何かを育てると愛着がわくけど、自分の髪に対してもそう思うなんて意外。

「枝毛になってきている」みたいな髪の毛の心配も、これまでだったら「何を言っているんだろう」って思っていたけど、今は痛いほど分かる。僕も、この真ん中の髪の毛たちとへその長さに届くまで付き合うことになるから、毛先が痛もうものなら発狂してしまうかもしれない。コンディショナーは何を選ぼうかなとか、リンスは欠かせないとか、伸ばせば伸ばすほど、こだわりも深くなっていく。不思議な感覚。

 ロングヘアの女性を見ると、ものすごく手入れをしているんだろうなと思うようになった。それだけ時間と手間をかけてロングにしていた人が、仮にバッサリと髪を切ったとしても、「思い切ったね~」なんて声はかけられないよなって。育ててみると分かるけど、そのバッサリは想像をはるかに超えるほどの気持ちの変化。他人がとやかく言えるようなことではないのだと反省した。

 長い髪の毛は、麺類を食べるときは邪魔になるだろうし、夏場は熱をためやすくストレスになりかねない。それでも、大切に状態をキープして、その長さであり続けることにこだわりを持っている。1か月で1センチしか伸びないものを腰の長さまで伸ばす。よくよく考えればすごいこと。実際にやってみないと共感できないことってたくさんある。髪を伸ばし始めてよかったなと思う。

 僕は、お笑い芸人だから好きな髪型にすることができる。規則が厳しくないような職場にいるなら、好きな髪型に、好きなカラーにするだけで満足感が向上するんだから、ぜひ試してみてほしいです。ゴールであるへそまでは、はるか先。だけど、その間ずっと楽しみが続くと思うと、早く伸びてほしいようなほしくないような。50代のいい歳をしたおじさんが、髪の毛の真ん中だけをバッサリと垂れ下げて写真に写る。想像するだけで楽しみは増えるんです。

僕は新宿が好きです。だから、クリアソン新宿を応援します! にわかです、でも家族ぐるみで応援します!【徳井健太の菩薩目線 第211回】

2024.07.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第211回目は、東京都新宿区を本拠地とするサッカークラブ「クリアソン新宿」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 これまで1つのスポーツチームを応援することとは無縁の人生を送ってきた。

 国際試合を除いて、野球やサッカー、ラグビーといったスポーツを観ていても、特定のチームを贔屓にすることはなかったから、どちらが勝っても喜びが爆発するようなことはなかった。

 どこかでスポーツを応援したいなという気持ちはあったんだと思う。あこがれに近いかもしれない。特定のチームを応援している人は、夢中になってそのチームの魅力を語るし、いやらしい話、それをきっかけに仕事につなだったりもする。だから、うらやましかったのかもしれない。

 でも、今更どこを応援するんだって話じゃないですか。見渡す限り、席は埋まっていて、今更ノコノコと「僕は〇〇ファンです」と公言したところで嫌われる。ビジネスファンだと後ろ指をさされるのも嫌なので、特定のスポーツチームを応援することはないんだろうなとあきらめていた。

 たびたび触れているように、僕は新宿が大好きで、気が付けば人生の大半をこの街で過ごしている。

 新宿の街を歩いていると、新宿区を本拠地とする「クリアソン新宿」というサッカーチームのポスターやフラックを見かけることがある。新宿マルイに行ったときは、クリアソン新宿の企画展示が開催されていて、街をあげてこの耳慣れないサッカーチームを応援しているんだなと思ったこともあった。

 調べてみると、クリアソン新宿はJFLに所属しているチームらしい。J3の一つ下。めちゃくちゃ弱いチームなんだろうな……なんて鼻で笑って、横目で見ていた。なのに、なんだか気になっていた。アジア屈指の歓楽街を有する新宿区。不夜城に構えるサッカークラブって、一体どんな存在なんだ。

 いよいよその思いは強くなり、僕はクリアソン新宿を実際に生観戦してみたいという焦燥に駆られた。試合日程を見ると、6月7日に行われるクリアソン新宿の試合が、「新宿の日」と題されて開催するという。新宿区は、昭和22年3月15日に、旧四谷・牛込・淀橋の3区が統合し新宿区として発足しているから、6月7日はまったく関係ない。昨年は、4月9日に「新宿の日」を開催しているから、何の基準をもって「新宿の日」なのかはさっぱり分からない。だけど、とにかくこの日は、試合以外にもイベントやパフォーマンスなどさまざまなことが行われ、試合を盛り上げるということらしかった。よく分からないけど、新宿の「熱」を感じたのだ。

 しかも――。試合会場は、あの国立競技場だという。僕は仕事のスケジュールがないことを確認すると、是が非でも「新宿の日」に行われるJFL 第11節「 vs FCティアモ枚方」戦を生観戦することを誓った。

 国立競技場へ行くこと自体、初めての体験だった。ゲートを潜って、スタジアムの中に入ると、ものすごい興奮を覚えた。これまでギャンブルによってたくさんの興奮を見てきたけど、それとはまた違うタイプの興奮。JFLの試合にもかかわらず、会場には15000人近い観客が押し寄せ、そのほとんどがクリアソン新宿を応援していた。圧倒されるとは、こういうことを言うんだろう。新宿の力が可視化されたというか。

 FCティアモ枚方は、上位に位置する強いチームだという。対して、クリアソン新宿は現在、16位中15位。力の差は歴然だった。試合は終盤まで4対0。ちらほらと観客も帰り始める。そんなどんよりとした空気を裂くように、終盤、クリアソン新宿が1点を返した。その瞬間の盛り上がりが、いまだに忘れることができない。大差で負けているのに、歓喜が破裂したようなすさまじい音圧。僕は、国立競技場が爆発したのかと思った。

 たった1点を返しただけで、こんなに盛り上がるのだとしたら、もし試合に勝ったらどうなるんだろう。もしJ3に昇格する試合に居合わせたら、僕はどうなってしまうんだろう。いつか、クリアソン新宿の選手が日本代表に選ばれたら――。想像は尽きない。そう思ったが最後。僕は魅了され、次節以降の駒沢競技場で行われる試合も観戦することも決めていた。分かっていたけど、スポーツってすごいんですよね。

 16位になると、地域リーグに自動降格してしまう。15位になると、JFL・地域リーグの入れ替え戦を行うという。僕は今、手に汗握りながら、クリアソン新宿の試合を追っている。会場にいけないときは、動画配信(YouTube)で試合を見ているけど、基本は固定のカメラのみで撮影してるからホークアイで見るしかない。J1やJ2の試合だったら、臨場感のある放送ができるだろうけど、 JFLではそれはかなわない。だけど、その泥臭いリアリティが気に入っている。

 新宿の飲食店を訪れると、あらためてクリアソン新宿が根付いていることに驚かされる。ときには、このサッカーチームが話のきっかけにもなったりする。ただご飯を食べて帰るだけだった関係が、6月7日以降、変わり始めていて、些細なことかもしれないけど、地元を共有できる幸せの心地よさを、今更、体感しています。

 可能な限り、僕はクリアソン新宿を応援していこうと思う。皆さんも騙されたと思って、もし地元にそうした応援できるスポーツチームがあるのであれば、一度足を運んでみてください。にわかです。でも、家族ぐるみで応援します。どうして夢中になるかが分かります。それこそサッカーには昇格・降格がある。ドラマを共有できるなんて、こんなに素晴らしいことはないじゃないですか。

「君もヒーローになれる」。ヒロアカを観ないなんて人生の10割損してる。2話まででいいので、絶対に見て感想ください!〈徳井健太の菩薩目線第210回〉

2024.06.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第210回目は、アニメ版『僕のヒーローアカデミア』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『週刊少年ジャンプ』で連載されている堀越耕平先生による『僕のヒーローアカデミア』が、10年の歴史に幕を下ろすことがアナウンスされた。

 皆さんは、『僕のヒーローアカデミア』――通称ヒロアカを見ていますでしょうか? もし見ていないという方、ものすごくもったいないです。ぜひ見てください。

 何を隠そう、わたくし徳井健太は完全にアニメでヒロアカを追っているファンでして、マンガはほとんど見ておりません。「おいおい、どの口がオススメしてんだ」と思われるかもしれませんが、どれだけ後ろ指をさされても構いませんので、ヒロアカ、見てください。

 ヒロアカのストーリーをざっくり説明すると、超能力「個性」を持つ人々が当たり前となった世界を舞台にしたヒーロー作品です。主人公の緑谷出久(通称デク)は元々「無個性」でしたが、トップヒーローのオールマイトと出会い、オールマイトの「個性」である「ワン・フォー・オール」を受け継ぐことになります。雄英高等学校ヒーロー科に入学したデクは、クラスメイトたちと共に最高のヒーローを目指すべく、ヴィラン(悪役)との戦いを通じて成長していく――。

 僕は、話題になっているマンガがアニメ化される際は、可能な範囲でチェックします。ヒロアカに限った話ではなく、アニメから作品に触れることがほとんどなので、数話を見て、面白いか面白くないかを判断してしまうクセがある。もうちょっと見続ければ面白くなるんだろうけど、10話くらいまで見て「う~ん」と感じたら脱落してしまう。スピーディーに展開していくマンガ原作の方が、おそらく離脱しづらいんだろうなとは思うものの、どういうわけかアニメで見る方が性に合っているんです。

 ヒロアカは、ドはまりしてしまいました。2話目で心を持っていかれました。

 魅力的な物語やキャラクターはもちろん、何がすごいってアニメーション制作会社・ボンズが作り出すハイクオリティな映像と、臨場感あふれる音響。その演出力が素晴らしすぎて。映画さながらの迫力を、毎週土曜日の17:30から放送しているなんてヒーローすぎます。

 見ている皆さんなら共感してもらえると思いますが、見れば見るほど悪役であるヴィランたちが愛おしくなっていくんです。人生をまっとうする中で、誰が好き好んで不幸を選ぶというんだろう。虐待だったり差別だったり貧困だったり。道から外れるのには理由や環境があるわけで、僕らは選択肢のない人生を歩まされたヴィランを責めることができるんだろうか……なんて思いながら、画面に釘付けになっている。本当に悪いのは巨悪と言われる存在だけ。なりたくて悪に染まる人間なんていないと思いたいじゃないですか。エンディング曲が流れる頃には、いつも涙で画面が見えなくなっている。

 ヒロアカを見ていると、心が苦しくなってくる。ヒーローは、みんなHEROだ。彼ら彼女らはヴィランをやっつけたいけれど、なりたくてなったわけではない悪をやっつけなければいけない。ヒーローたちも葛藤に苦しむ。そんな声にならないような声を、すさまじい演技で表現しているヒロアカの声優さんたちに、いつもスタンディングオベーションをしています。

 泣き叫んだりするような声を、声優さんたちはどうやって表現しているんだろう。見ている僕たちの心が震える、声優さんたちの演技を本当に見ていただきたい。こんな熱量を、牧歌的な土曜日の17:30に放っていること自体、どうかしていると思います。

 僕は悩んだり、泣いたり、称賛したりしながら、ヒロアカを見ています。我ながら情緒がどうかしていると思うものの、感情を揺さぶられるってこういうことなんだなと教えてくれるヒロアカのアニメは、我が家の週一のスーパーな楽しみになっている。

 アニメは、シーズン7が始まったくらい。そろそろ終わりが見えてきて、楽しみと悲しみを抱えながら、毎週ドキドキしています。このアニメに携わっているすべての皆さんにありがとうと心から言いたいです。ありがとうございます。

 そんな矢先にアナウンスされた最終回は間近に迫っているという情報。はぁ、ヒロアカを追っている僕らの物語も終わってしまうのでしょうか。

 ヒーローになるのか、ヴィランになるのか。人生にはいろいろなことが起こる。めんこを中空に放り投げて地面に落ちたとき、表が出るか裏が出るか、どちらに転ぶかなんて分からない。“たまたま”が、その人をヒーローにするし、ヴィランにもする。世の中が勧善懲悪だったら、どれだけ楽なことか。みんな、グラデーションの中で戦っているんです。

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