“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第226回目は、ボトルキープについて、独自の梵鐘を鳴らす――。
考えれば考えるほど、ボトルキープは興味深い文化だなって思う。
「今までボトルキープしたことがないんだよね」
と奥さんに伝えたら、「うそでしょ」と言わんばかりにぎょっとされた。北九州で生まれた彼女にとってボトルキープは当たり前だそうで、小さい頃にお父さんとお母さんと居酒屋へ行くと、決まってボトルキープが置いてあったという。
奥さんは、「特に意味があったわけではないと思うよ」と断りを入れるものの、たしかにボトルキープはよくできているなと、僕は思った。もちろん、リーズナブルさはあるだろう。でも、安さだけを求めるなら、そのボトルをスーパーで買って家で飲んだ方が、もっと安上がりだ。
ボトルキープをする――。
そうすると、「また来るからね」という意思表示になる。暗黙の了解としてのボトルキープ。コミュニティとしてのボトルキープは、一定の役割を果たしているということになる。あくまで僕個人の肌感だけど、ボトルキープは西日本の方が一般的なイメージがある。対照的に、東京でボトルキープをしているお店は、かなり限られるのではないかと思う。
いま、東京で飲んでいると、なかなかコミュニティを感じられる機会は少ない。そこには、自分のことだけしか考えられない個人主義的な発想もあるだろうし、街が都市化していくにつれ、地域社会に対する関心の希薄化もある。飲みに行っても、個人的な趣味や嗜好で飲んでいる人が多く、コミュニティを考えて飲んでいる人なんて、一体どれくらいいるのだろうかと勘繰ってしまう。
ボトルキープ的な考え方を、生きていく中に取り入れてみると面白いと思うんです。
人間関係や仕事の中において、自分と輪をつなぐような“何か”はあった方が望ましい。酒場におけるボトルキープのように、何かがキープされているから、持ちつ持たれつ、そこに居場所が生まれる。
例えば所属事務所。僕は吉本興業に所属しているから、当然ギャラの何割かは事務所に持っていかれる。それに対して、不平不満を口にする若い子たちも少なくない。
でも、こう考えてみたらどうだろう。
僕らが全く売れていない頃、僕らは売れている先輩たちの“持っていかれたお金”によって生かされていた。稼いでくれる人がいるから、無名で実力もない僕たちは一応所属という形になっていたし、その看板があることで、僕らも笑いが好きでい続けられたと思う。
「そうはいってもたかだか数百円のギャラしかもらえないじゃないですか?」なんて反論もあるだろうけど、本当は数百円ももらえないような杜撰でエゴにまみれた笑いしかしていない。もらえるだけでもありがたいし、もっと言えば劇場代や諸経費は事務所が持ってくれている。しかも、たった数百円でも、「こんなにウケたのに500円かよ」とか、「交通費を考えるとマイナスになる」とか話のネタにもなる。こんなことを笑って話せたり、いつかを夢見てチャレンジできるのは、誰かが稼いでくれているから。
だから、自分たちがそれなりに売れ始めたとき、「割に合わない」と話すのは、僕には違和感に映る。持っていかれるお金は、ボトルキープのような存在で、それがあるから居場所があって、コミュニティが成立するのだと思う。
こうしたことを理解するには、年齢を重ねていかないと分からないことかもしれない。吉本であればNSCの授業で伝えた方がいいと思うし、社会であれば高校や大学の授業で教えてあげてもいいんじゃないかなって思ったりもする。今は言葉で説明してあげないと分からない人が増えたから。
極論かもしれないけど、常連だった僕が死んでしまったら、店の飲み仲間たちはいつか僕のことを忘れるだろう。別に思い出してほしいってわけじゃないけど、もし仮に「徳井さん」ってボトルが残っていたら――。そういうものがあるのとないのとでは、まるで世界は変わってくる。世の中、もっとボトルキープ的な発想があったら、人に対して優しくできたり、想像力が豊かになったりするんじゃないかなと、つくづく思う。