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血の通った温かい街「新宿」で、カンジャンケジャンにて血を流す〈徳井健太の菩薩目線 第208回〉

2024.06.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第208回目は、カンジャンケジャンと家族について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 大久保に、キッズルームがあるカンジャンケジャンを提供するお店がある。

 カンジャンケジャンとは、ワタリガニをニンニクや玉ねぎなどの野菜と一緒にしょうゆベースのタレに漬けこみ、熟成させた韓国料理のこと。カンジャンケジャンを食べたことがある人ならわかると思いますが、手が汚れるのは当たり前。それでいて、その美味しさのあまり一心不乱にカニにむさぼりつくため、子どもの面倒を見ることがとても難しい料理です。

 子どもが生まれると、今まで知らなかったことを知る学びの機会につながる。例えば、子どもの面倒を見ながら食べることが難しい料理が結構世の中には存在するということを知る。その筆頭格が、カンジャンケジャンだ。難易度Sレベルのくせに、めちゃくちゃおいしい。食べたいけど、小さい子どもがいる親にとっては手が届かない。そんな愛しさと切なさを兼ね備えた料理が、カンジャンケジャンなのだ。

 でも、かゆいところに手が届くお店があるという。子ども連れて冒頭のお店へ行くと、子どもはキッズルームに夢中。僕ら夫婦はカンジャンケジャンに夢中になった。

 キッズルームは結構な広さを有し、遊具やテレビ、絵本などがたくさんある。ありがたいことに僕らの目の届く範囲にそのキッズルームはあるため、カニにむさぼりつきながらも、きちんと子どもが今何をしているかもわかる。

 心置きなくカンジャンケジャンを堪能できた僕は、「ごちそうさま」と「ありがとう」を心の中で連続して叫びながら、ボリボリとカニを食べ続けた。普段、僕はあまりテンションが上がることはないのに、このときばかりは狂気乱舞した。もう大満足。その言葉しか出てこない。こういうお店があるだけで、世の中の難易度は下がるのだ。

 帰り際、子どもを抱っこすると、その洋服に赤い斑点が付いていた。おそらく血のようなもの。焦った僕は、遊んでいる最中に怪我をしたのかなと思い、子どもの体をチェックした。幸い怪我はしていない。よく見ると、怪我をしていたのは僕の指だった。

 僕はカンジャンケジャンを夢中で食べるあまり、自分がカニの甲羅で指を切ったことすら気が付かないほどむさぼり続けていたのだ。自分が流血しているなんて気が付かないほどの安心感と幸福感。幸せというのは、自分が怪我したことすら気が付かない状況のことを意味するのだと分かった。

 子どもを育てていると、都心にはこうした場所が本当に少ないとつくづく感じる。子ども連れが安心感と幸福感に包まれる――。都心には、カンジャンケジャンな気持ちになれる場所が少ない。

 新宿に暮らしている僕は、子どもを連れて大久保へご飯を食べに行くことが多い。韓国料理店へ行くと、オモニと呼ばれる店主のお母さんがホスピタリティー全開で、初めて訪れた僕らを迎え入れてくれることが珍しくない。

 子どもを見るや、「あら~かわいい!」と全身で喜んでくれて、「奥にある広いテーブル席を使ってね」と案内してくれる。どうやらその奥の席だけは、子ども連れのお客さんのためだけに解放しているらしい。

 韓国料理を提供するお店だから、基本的に料理は辛くなる。そのためオモニは、子どもには辛すぎるかもしれないからということで、別途、子どものためだけに無料でキンパを提供してくれた。こっちが心配になるくらい優しいんです。こっちは客に過ぎないし、もう来ないかもしれないのに。

 新宿にはさまざまなエリアがあるから、一概にくくることはできないけれど、長年、この場所に住んでいる僕からすると、家族に対して優しいお店がとても多いと思う。ベビーカーで入店しても嫌な顔はされないし、チラチラこちらをうかがうような人たちもいない。僕らも気兼ねなく美味しい料理を楽しむことができる。

 この街には、年齢、性別、人種、職業、いろいろな人が存在しているから、自然体で多様な暮らしを、結果的に受け止めているんだと思う。僕は、新宿という街が、そういう意味でもとても好きだ。この街には血が通っている。だから、あまり冷たさを感じないんだろう。

すべてのことは必ず反転を繰り返す――。キルケゴールの思想は、芸人の世界にも当てはまることを、吉本大コンプラ会議で思い知る!〈徳井健太の菩薩目線 第207回〉

2024.05.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第207回目は、時代と芸人観について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 皆さんもニュースなどで知っているかもしれませんが、先日、吉本興業がコンプラについて考える研修を行いました。

 昨今は、タレントの社会的責任が高まっているので、こういったことを僕たち芸人も学んでいかなければいけない――ということで実施したのですが、平日ということもあり、一体どれぐらいの人が来るんだろうなんてことを思っていたわけです。正直なところ、「面倒だなぁ」なんて思いつつも、適当な嘘をついて欠席する道理もないので、せっかくだから僕も参加してみることにしました。

 会場は、東京ドームシティー内にある東京ドームと吉本興業がタッグを組んだ劇場「IMM THEATER」(去年の11月にオープンしたばかり)。扉を開けると、平日なのにぎっしりの超満員。この研修は芸人を対象としているので、“キャパシティ約700席が芸人だらけ”という異様な空間を目の当たりにして、あらためて吉本興業ってめちゃくちゃ芸人が多いんだなと妙に感心してしまった。

 舞台上には、ニューヨークの屋敷、相席スタートのケイちゃん、NON STYLEの石田、そしてブラックマヨネーズの小杉さんがMCというポジション。専門家などの意見も交えて、包括的に昨今のコンプラ事情が説明されていく。法律が改正され、かつては許されていたかもしれないことが、今ではそれが通用しなくなって犯罪として扱われるなど、実際に話を聞いてみるとうなづくことが多かった。

 その中で、昔は「芸人=めちゃくちゃなことをする、破天荒なことをする」みたいな風潮があった、という話になった。

 その話を客席で聞いていた僕は、ふと考えた。

 今の時代は、そんな振る舞いはもう許されないし、望まれていない。真面目な芸人じゃないと許されない。ってことは、破天荒だったり破滅的だったりする芸人は時代にそぐわないということ。僕たちだって、もっとバラエティでバカみたいなことをやってみたいけれど。

 むちゃくちゃを望む芸人は、「昔がうらやましい」「今は厳しすぎる」と不満を漏らす。だけど、きっと何十年も昔から似たようなことは言われていたんじゃないのって。

 昔は無茶ができたと言うけれど、そんな時代の中でも真面目な芸人はたくさんいたはずだ。でも、時代が非日常的な瞬間を作り出すような芸人を求めていたところがあったから、スポットライトはどうしたって毒気があって無頼な芸人に当たる。真面目な芸人は、どこか物足りないと目に映り、面白味に欠けると判断され、仮に才能があったとしてもそのまま埋もれていった可能性だってあると思うんです。

 この時代、真面目な芸人たちは、「お前はもうちょっと毒や破天荒な感じを入れていった方がいいよ」なんておせっかいを焼かれたり、どうでもいいアドバイスを言われたりしたかもしれない。「そう言われてもそんなことは自分に合わないから」。拒んだり、悩んだりしたと思う。時代から求められていないことをし続ければ、日の目を浴びる瞬間は訪れない。

 今の時代は、安心感をもたらすような芸人が求められているから、どうしたってそういうタイプの芸人にスポットライトが当たりやすい。いつかまた、揺り戻しで破れかぶれが求められる時代になるんだろうけど、今は真面風の芸人のターン。だから、真面目に振る舞うことができないのであれば退場するしかない。連綿と繰り返されてきたように、その時代と添い寝ができない人は消えていくしかないんだよ。切ないなぁ。

 コンプラ研修会で、こんなにセンチメンタルな気持ちになるとは思わなかった。話を聞いていると、いろいろと思うところがある。きっとこの研修に足を運んだ芸人たちの多くも、自分たちなりに考えるところがあったと思う。

 そんな感情がよく分からなくなるような空間の中にあって、MCの小杉さんはドッカンドッカン笑いを量産していた。劇場でもテレビの観覧でもありえない芸人だらけの空間ですよ。ましてやキャパ700。そんな地獄みたいな空間で笑いを生み出していた小杉さんは、やっぱり化け物だなって純粋にゾクゾクした。そんなスペシャルな瞬間を目撃できただけでも、「風邪気味なので休みます」なんて適当なウソをつかずに、「IMM THEATER」まで来て大正解だったと思う。

 たまにはこうやって真面目に空気がシンとしている空間に身を置いて熟考してみることも大事だよね。鳥の鳴き声がさえずっているときにしか、思い付かないこともある。喧騒の中だけでは、気がつかないことってたくさんある。

チャンネル登録者、好感度、顔色、どれもうかがえずここまで生きながらえてきた〈徳井健太の菩薩目線 第206回〉

2024.05.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第206回目は、人の顔色をうかがうことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 佐久間(宣行)さんが総合プロデュースを手掛ける、「ラフ×ラフ」という8人組のアイドルグループがいる。彼女たちは、曲中に大喜利をしたりクイズをしたり、“ザ・バラエティ”なアイドルだ。

 みんな個性があって面白い。だけど、まだまだ若いアイドルさんに変わりはないから、悩みも尽きないらしい。そんな背景もあって、「ラフ×ラフ公式YouTubeチャンネル」にゲストとして呼ばれ、人生相談をすることになった。若い子に、僕みたいなおっさんが贈る言葉なんてあるのかしら。

【超本音】ノブコブ徳井のアイドル人生相談!超本音に佐久間Pもマジ回答!

魔法の言葉「切り替えていこう」「ドンマイ」。僕はこれらを黒魔術だと思っている〈徳井健太の菩薩目線 第205回

2024.05.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第205回目は、「切り替えていこう」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 僕は、ギャンブルの番組によく出る。

 負けると、誰かが「切り替えていこう」と声を掛ける。全員が外れたのに、「切り替えていこう」と発破をかける。そこに深い意味はないんだろうけど、僕はずっと、「全然切り替えないほうがいいよね」って思っている。

 たとえば、その日9レースがあったとして、1レース目から8レース目まで全敗だった場合。間違いなく負け続ける原因があるわけで、どうして切り替えなきゃいけないんだろうって思う。おそらくそれは、ただ口から発せられる意味など大して持たない記号的な言葉であることは分かっている。だけど、やっぱり切り替えないほうがいいと思う。

 似たような言葉に、「ドンマイ」がある。

 よくよく考えればドンマイってなんだろう。ドントマインド。気にすんなって。何かミスをしてしまった人がいて、その人に、ピリついた場に、圧をかけたくないから、あえて軽い響きのドンマイを投げかける。「ドンマイ」。場の雰囲気が中和する。

 でも、気にしたほうがいいよね。学生時代、僕はバレー部に所属していた。練習でミスをすると、チームメイトからドンマイと言われた。何百回と言われたけれど、そのたびに気にし続けた。だって絶対、俺がミスってんだから。

 面倒な人間かもしれません。でも、やっぱり僕は、あんまり安易に「切り替えていこう」とか「ドンマイ」とか言わない方がいいんじゃないのって。「いや、そんなに深い意味はないんだから」、そんなことを言われそうだけど、だったら言わなくてもいいんじゃないのかって思う。「おいおい、めんどくせーな。深い意味はないんだって。だから、気にすんな」。

 気にするわ。

 気にしなければ、成長につながらない。まぁ、全員に当てはまるかと言われれば分からない。人によっては、「気にすんなを気にすんな」がハラスメントになるかもしれないし、実際にドンマイと言われて心が軽くなる人だっているだろう。

 ミスをする。そこにはミスをした価値がある。だけど、ミスをミスだと認められなければ、価値は作られない。自分のミスが原因で、負けることもある。その負けだって、3歩進んだあかつきには価値に変わっている。切り替えちゃったら、なかったことになる。それって記憶の喪失と、さほど変わらないと思うんだよね。

 僕の虎の子に、「自信がないときほど、とりあえず自信があるフリをする」というのがある。お笑いの現場だから成立するのであって、決して皆さん、マネしないように。

 自信があるという体で望んでみる。やってみて、実際にできたら盛り上がる。仮にダメでも、自信があるという体がフリになって笑いが生まれる。どちらに転んでも負けることのない戦法だから、僕は自信がないときほど自信がある雰囲気を出すようにしている。これって、僕が今までたくさんスベってきたから分かったこと。

「徳井、スベッていたけど気にすんなよ。切り替えていこう」

 そんな言葉を鵜呑みにしていたら、僕は死ぬまでスベり続けることになる。スベッたことを気にかけて、切り替えなかったから、今はなんとかなっている。切り替えちゃったら、同じことを繰り返す。

「今日の営業はうまくいかなかったなぁ。なんでだろう」。気にする姿勢が疑問を生み、解決策を手繰り寄せる。同僚や上司が、「切り替えていこう」と声を掛けてくるときほど注意が必要だ。

 生きてればいいことがあると思いたいよ。

 でも、ただ生きてるだけだったら、そんなに都合よく良いことは降って湧いてこない。気にするから成長できるんであって、なかったことにすると、その場から1歩も動いていないことになってしまう。

 誰だって、その場から動くことは望んでないかもしれない。ましてや、そこがそこそこ安寧であれば、動くことは面倒だし、かったるい。だけど、動かなかったら気づくこともないからね。気づくことが無いってことは、そこから動けないってこと。考えるな、感じろ……じゃないけど、「切り替えるな、気にしろ」。そんなマインドでいたいよね。

想像してごらん。あなたのそのゴミは、誰かの宝物になるかもしれないよ? 良い意味ではなくて、怖い意味で〈徳井健太の菩薩目線 第204回〉

2024.04.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第204回目は、スターの副産物について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 日頃、どれくらい想像力を働かせています?

 想像力って自分の知っている世界だけでは、なかなか育たないと思うんです。そんなことを痛感したお話。

 番組収録で、海外のある動画を見る機会があった。美容室での一幕で、美容師さんがお客さんである女性の髪の毛をカットしている。女性客はスマホに夢中になっていて、髪が切られていく工程に関心がないようだった。そんな雰囲気を察してか、美容師さんもテレビを見ながらカットをする……いかにも海外らしいアバウトな仕事風景を映した動画だった。次の瞬間、 

 ジャキン。

 テレビに注視するあまり、美容師さんはカットする箇所を間違え、女性客のロングヘアをバッサリ。慌てる美容師さん。だけど、スマホに夢中の女性客は、そんなアクシデントに気が付かない。“ながら”の恐ろしさが、これでもかってくらい押し寄せる。そして、美容師さんはそっとポケットにミスした髪の毛をしまう――。

 なんとも間抜けな動画で、スタジオにいる出演者は「おいおい」なんて言いながら笑っていた。

 ところが、一人のアイドルさんが「キモい」という感想をこぼした。僕は、その感覚が分からず、「どうしてそう思うの?」と尋ねた。

「髪の毛を持って帰られるかもしれないんですよ。キモいじゃないですか?」

 なるほど。たしかに。「じゃあ、髪の毛を間違って切られるのは大丈夫なの?」と追質問すると、彼女は「それは大丈夫です」とにべもなく答えた。

 想像力は働かせるためにある。人が歩んできた道は、本当に人それぞれ。

 アイドルの道を歩んできた人にとって、美容師さんの行動はそう映るのだ。芸能人に限った話ではなく、そうした瞬間にアンテナが立つ人は少なくないのかもしれない。

 美容室へ行けば、自分の髪の毛がきちんと処理されているかが気になる。飲食店に入れば自分が使った箸やコップがどうなるかが気になる。うちの奥さんもアーティスト活動をしているから、「気にする人っている?」と聞くと、「気にしている女性のアーティストは多い」と返ってきた。

 もしかしたら、そうした使用品が高値で売られるかもしれない。自分が触れたものに価値が生まれてしまう。それこそ、大谷翔平選手が投げた野球のボールは、彼が手にしただけで無茶苦茶な付加価値を帯び、高額のお宝へと昇華する。

 僕が、喫茶店のイスに座っても何にも生まれないけれど、例えばそこに大谷翔平選手やBTSといったスーパースターが座れば、そのイスは家宝へと変身する。自分が意図してないところで、魔法がかかってしまう“怖さ”。何気なく足を運んだだけなのに、何の変哲もなかった店舗は聖地と化し、お店の人が望む、望まないにかかわらず混乱がやって来る。

 無が有に変わる世界にいるのだから、そりゃ変装だってする。僕たちが気にしなくていいことまで気にしなければいけない世界。「考えすぎだよ」って言われても、当の本人たちにしかわからないことがあるわけで、少なくともそういう可能性があることを、僕は想像してみたい。

「お気に入りの飲食店はどこですか?」という質問があったとする。何の影響力もない僕であれば、「〇〇というお店が好きです」と言い放つことができる。 

 でも、アイドルの人が「〇〇のお店がお気に入りで、よく行きます」なんて言った日には大ハレーションが起こる。じゃあ、「特にないですね」って言えばいいのかと言われれば、それでは話が広がらず、“面白みに欠けるタレント”になってしまう。

 だから、話に広がりと重量感を持たせつつ、誰も行くことができない場所を言わなければいけない。アイドルに地頭がいい子が多いのも納得なのだ。誰も行くことができない場所を想像する。その想像力に、僕は脱帽する。

イカ、芽ネギ、そうめん。好きな食べ物から世界平和ってのは難しんだな、と考える。〈徳井健太の菩薩目線 第203回〉

2024.04.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第203回目は、人の好みについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ABEMAの『WINTICKET ミッドナイト競輪』に出演した際、『あっぱれさんま大先生』でおなじみの山崎裕太さんと共演した。

『ミッドナイト競輪』はその名の通り、競輪を紹介する番組でもあるので、選手の好きな食べ物や嫌いな食べ物を紹介することが珍しくない。といっても、「選手名鑑」よろしく、一斉にアンケートを取っているだろうから、中には答えに窮して、とりあえず思いついたものをあげている選手も多いと思う。実際、好きな食べ物は「焼肉」が目立つし、嫌いな食べ物も「トマト」という具合にベタなものが少なくない。

 好きな食べ物を紹介する流れの中で、僕は山崎さんに「好きな食べ物って何ですか?」と聞いてみた。

「好きな食べ物も嫌いな食べ物もないんですよ」

 そんなバカな。感情が死んでいない限り、少なからず得手不得手の食べ物があるはずだ。虚を突かれた僕は、食い下がるように「ホントに何にもないんですか?」と念を押した。だけど、山崎さんは「ない」という。

「だったら、もしもですよ。明日、地球が滅びますってなったときはどうですか? 最後に食べるものは、好きなものでありたいじゃないですか」

「しいて言えば、寿司は好きかな?」

「おぉ! 寿司、いいじゃないですか! 何のネタです?」

「うーん、イカかな」

「イカッ!? いや、僕も好きですよ、イカ。でも、ホントにイカでいいんですか? 今まさに隕石が降ってきて、もう死ぬ間際なんですよ。最後に食べるのがイカの握りでいいんですか!?」

「うん」

 千鳥さんのネタで、「イカ二貫」のくだりがある。有名なネタだから、今更説明するまでもないけど、「あえて」の「イカ」だからこそ、そのキャップに僕たちは笑ってしまう。

 でも、山崎さんとの会話の中でふと気がついた。もしかしたら山崎さんのように、隕石が地球に接近する最後の瞬間にイカを注文する人は、千鳥さんの「イカ二貫」にクスリともしないんじゃないのかって。だって、イカが好きな人にとっては、イカがオチになっていないんだから。

 食べ物の話は続き、地球最後の日に食べたい最後の寿司ネタが「イカ」であることに釈然としなかった僕は、その場にいた他の子にも振ってみた。すると、その子は「私は芽ネギです」と返してきた。

「この流れだからこそのボケだよね?」

「いえ、ボケでもなんでもなく、私は芽ネギが一番好きなんです」 

「……他に好きなものは何?」

「ズッキーニです」

 目が覚めた。お笑いって、全員を笑わすことはできないんだ。芽ネギとズッキーニなんて、ボケサイドがチョイスする絶妙な食べ物じゃない。でも、世の中には真剣な眼差しで、「地球最後の日に芽ネギの握りを選ぶ」と答える人がいる。

 何をチョイスすればボケとして成立するか――ということを僕たちは考える。

「お誕生日おめでとう。プレゼントを用意したの。はい、芽ネギ」

「め、芽ねぎィィ~~??」

 漫才にしても、コントにしても、漫談にしても、ギャップ(裏切り)を考えながらネタを作っていくけれど、あの子にとって芽ネギというチョイスは、「わー! うれしー!」になる。どうしてみんなが芽ネギで笑っているのか、不思議で仕方ないかもしれない。「あえて」のワードは、全員には刺さらない。期待しちゃいけない。世界平和は訪れない。

 そりゃそうかもしれない。僕が、地球最後の日に食べるたいものは「そうめん」だ。好きなんだからしょーがない。ズズズーッと一気にすすって、滅亡を迎える。だから、「そうめん」を裏切りのボケとして持ってこられても、僕はビクともしない。でも、その横では誰かが笑っているんだろうな。これだからお笑いって難しい。

ソウドリへの感謝と後悔は消えない。それでも若手芸人たちはスクスクと育っていく!〈徳井健太の菩薩目線 第202回〉

2024.04.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第202回目は、「ソウドリ解体新笑」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『賞金奪い合いネタバトル ソウドリ~SOUDORI~』が終わってしまった。とてもありがたいことに、僕は「ソウドリ解体新笑」という形で、この番組にかかわることができました。ぽっかり穴が開くって、こういうことを言うんだろうな。

 終わったばかりだからセンチメンタルになってしまうけど、この仕事を通じて、今まで明かされていなかった有田さんのお笑い観や考え方を聞くことができて(しかも真横で)、ものすごくぜいたくな時間を過ごさせていただきました。有田さん、番組スタッフの皆さん、ありがとうございました。

 最後の収録は、個人的にものすごく後悔を伴うものだった。「もっとうまく立ち回ることができたのかもしれない」とか「もっとこうしておけば」とか、反省、反省、また反省。都合よく解釈すれば、これから自分のステージを上げていく上で、「宿題」をもらったとも考えられるけど、40を過ぎて宿題と向き合わなきゃいけないのも情けない。今も後ろ髪を引かれるのは、自分の未熟さを感じたまま終了したからなんだと思う。

 去年、「敗北からの芸人論 トークイベント vol.9」で、インパルス・板倉さんを招いたときもそうだった。役割に徹するがあまりインタビュアーっぽくなりすぎて、もっと自由に熱いハートを持ってぶつからないといけないって反省したはずなのに。

 きちんと話そうと思うと、どこかでパッケージしてしまう自分がいて、それを良くない意味で「慣れ」と呼ぶのかもしれない。結局それって、まとまってしまうから保守的な展開にしかならない。あ~、もっとできたはずなのに。「なのに」ばっかり。「なのに」が多いと、それだけ反省も多い。『ソウドリ解体新笑』は、最後にどでかい自分への反省を与えて、去っていった。でも、ドン・アリタは嘘つかない  。お笑いへの愛は、そりゃもう最大級の偏愛だから。待ってます。ただのコアなお笑いファンとして。その日まで成長してないとウソだと思うんです。

 僕が、お笑いについて分析するとき、きっと「お前レベルが話すなよ」と思っている人は少なくないと思う。同業者の中にも、まったく関係のない中にも。有田さんと一緒にお笑いを語れたことで、自分が話していることに自信を持つことができたし、あの有田さんがうなずいている――。虎の威を借る狐だったとしても、虎に近づけたのかなって思いたい。

 僕は、好き勝手に語って、論じちゃう。だけど、出演する芸人たちは、好意的な意見を言ってくれる人がたくさんいて、あぁ~しらきからは、「あのとき、私の真髄を語ってくれてありがとうございます」なんて言われた。面映くなって、「そんなこと言っていたっけ」って聞き返すと、彼女は「なかなか言ってくれない一言を言ってくれましたよ」と力強い目線で返してくれた。

「マジで? 俺、何て言ったっけ?」

「それが覚えていないんです」

 しらき、ありがとう。またネタを見るの楽しみにしてる。

 勝手にあーだこーだ言うから、収録終わりに「ごめんね、好き勝手言っちゃって」なんて言葉をかけたこともある。ゼンモンキーから、

「いやいや、全然そんなことないです。若手は、有田さんがなんて言うのか、徳井さんがなんて言うのか、ものすごく楽しみにしてると思います」

 と言われたときは、すごくうれしかったなぁ。些細な一言かもしれないけど、そんな彼ら彼女からの言葉が、僕自身も励みになった。素晴らしい徳を積ませていただきました。

「ソウドリ解体新笑」は終わったけれど、僕が若手のネタを見続けることはずっと続くと思う。だって、とんでもないモンスターに出会えるんだから、やめられるわけがない。

 3月下旬に、ネタバトル番組「100×100」(https://100×100.yoshimoto.co.jp/ )という大会が、YouTubeの「吉本興業チャンネル」で生配信され、僕はMCを担当した。100秒刻みのネタで100万円をゲットできる吉本独自のコンテストで、若手を中心とした60組の芸人が4時間にわたって登場する。審査員を務めるのは、本多正識(漫才作家・NSC講師)、お~い!久馬(ザ・プラン9)、椿鬼奴、久保田かずのぶ(とろサーモン)、中山功太、田所仁(ライス)――そうそうたるメンバー。

 20時配信スタートで4時間ぶっ続け。審査員の最年少は、41歳の仁。平均年齢50歳近い審査員が4時間にわたり審査する。クレイジーすぎるって、吉本興業さん。

 次から次に、若手が刻むようにネタをするものだから、もう途中から意識が遠のいていく。何かの社会実験に参加させられたような審査員たちの表情からは、一つずつ感情が消えていき、終盤を迎えるころには笑う気力も失せていた。

 感情が死んでいく。そんな中、決勝に残ったイチゴ、鉄人小町、若葉のころはとんがっていた。深夜0時。もうボロボロの初老の審査員たちを、どっかんどっかん爆笑させ、よみがえらせていた。きっと彼らは「来る」。真夜中に、どうかしているネタに爆笑している、どうかしている審査員たち。これだからお笑いはやめられないんです。

依存は人によって強度も内容もさまざま。僕は、依存と共存することを選んだ2024〈徳井健太の菩薩目線 第201回〉

2024.03.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第201回目は、依存症について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 大谷翔平選手の専属通訳だった水原一平さんが、ギャンブル依存症だと告白した。人生、何か起こるか分からない。

 衝撃的なニュースが飛び込んでくる数日前、僕は、厚生労働省が主催する依存症の理解を深めるためのトークイベント「特別授業!みんなで学ぼう依存症のこと in 大阪2024」に生徒役として出演していた。今思えば、なんてタイムリーなイベントに参加したんだろうなって思う。

 パチンコ依存症の過去を持つ青木さやかさん、「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さん、精神科医の入來晃久さんが「先生」となり、依存症についてアレコレ聞いていく。

 物質的な依存、精神的な依存、寄りかかりすぎて戻れなくなることがある。僕が「なるほどな」と思ったことの一つが、「お金を使い込みすぎて依存してしまうこと」、そして、それを隠すために「ウソにウソを重ねていくこと」だった。

 これってギャンブルだけではなく、誰かに、何かに共依存するケース、すべてに当てはまると思う。家族やパートナーに黙ってお金を使い込んでしまい、その事実がバレないように繕えば、〇〇依存症へまっしぐらだ。

 幸い……というか、運が良かったというか、僕は共依存することなくギャンブルと付き合ってきたんだろうなって思った。その昔は、まあまあ人が引くレベルの借金をしていたけど、ウソを付いてまでやることはなかった。いくら使い込んだとか、そんな話ではなくて、人から信頼を失うことが依存症。だとしたら、失ったのがお金だけなら、まだ明るい。

 依存とは、上手に距離を取らなきゃいけない。たとえば、タバコ。僕はずっとやめたくて仕方なくて、いろいろなことを試したけど、吸い続けてきた。でも、ある日肺に入れるのをやめてみたら、意外と依存と共存できるって思った。まぁ、それでも吸っていたんだけど、肺に入れずに口だけで吸っていることがバカバカしくなって、解き放たれた。結局、同じ本数を吸っているのに、肺に入れていないなんてどうかしている。どうでもいいマイルールが伏線になって、禁煙につながった。

 40歳を過ぎた頃、人付き合いが下手な僕は、せめて喫煙所でコミュニケーションくらいは取った方がいいかなと思って、また吸い出した。相変わらず、肺には入れてない。共存することを覚えたから、「また、やめられるだろう」なんて自信を勝手に抱きながら、紫煙をくゆらせている。

 タバコを吸うって依存と共存できたからやめられた。そのとき借金がかさんでいた僕は、その頃からギャンブルをする際にも、マイルールを課すように考え方を変えた。

 公営ギャンブル場へ行っても、3万円しか使わない。仮に1万円かけて勝って、10万円が払い戻されたとしても、あと2万円しか使わないと決めていた。青天井よ、さようなら。

 家にいてスマホから買うときは、200円まで。100円だと一点買いしかできないから予想のしがいがなくて、外れたときにずるずると尾を引いてしまう。二点だったら折り返せるから予想もできて、外れたとしても満足感を得ることができた。たった100円の差で、僕がドーパミンに支配されるか、ドーパミンを支配するかが変わる。

 依存症になると、距離を取ることができなくなるかもしれない。厚生労働省が行った依存症に関する調査(2021)によれば、国内で過去1年間にギャンブル依存症が疑われる状態になったことがある人は、成人のおよそ2~3%だという。「自分は依存症かも」と思う人は多いかもしれないけど、本当に抜け出せなくなる人は少ない。だから、その前に。抜け出せる段階でマイルールを設けましょう。

 依存症になった人に、もっともやってはいけないこと。それが、「お金を肩代わりすること」だそうだ。僕が、

「自分の子どもがギャンブルにハマってしまって、借金を抱えてしまった。 子どもに身の危険が迫るような切羽詰まった状況でも、肩代わりをしない方がいいんですか?」

 と尋ねると、先生は、「依存症を治したいのであれば貸さなくていい」と断言した。貸した後、立ち直れた人は、自分が知る中には一人もいないって。どんな状況であっても、貸してしまうと立ち直ることができなくなる。お金を貸す方は助けているつもりなのに、結果的には助けていないことになる。依存症は、底を見誤ると、いつまで経っても足が着くことはない。ウソを付けば付くほど、水深は深くなる。その分、戻ってくるのに時間がかかる。息が詰まりそうな世界。

BUMP OF CHICKEN、サンボマスター、WANIMA、粗品、オードリー、ボクはもっとキミやアナタに届けたかったのかもしれない!〈徳井健太の菩薩目線 第200回〉

2024.03.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第200回目は、これからのお笑いに求められることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 BUMP OF CHICKENは、ライブでファンに向けて何かを話すとき、“キミ”“アナタ”と呼ぶと教えてもらった。「キミに歌いに来た」、「アナタのために」―、そう伝えるそうだ。

 ミュージシャンのライブ映像を見ていると、ファンに対して“キミ”“アナタ”と呼びかけている人が多い。サンボマスターは“アナタ”と言い、WANIMAは“キミ”と伝える。

 お笑いじゃあり得ない。なぜ芸人はそう呼ぶことがないんだろう。

 僕たちお笑い芸人は、目の前のお客さんを笑わすことに必死だけど、その数が50人、100人、1000人と増えていっても、「お客さん」という感覚が変わることはない。数が多ければ多いほど、笑いのボリュームは大きくなって、僕らは快感にも似た手ごたえを感じる。

「爆笑」という言葉があるように、笑いは束になると爆発したように弾ける。そんな爆笑を求めて、僕らは人を笑わすことに夢中になる。

 音楽は、ストリートからスタートして、段々とステージを上げていく人が珍しくない。徐々にステップアップするという意味ではお笑いも同じだけど、僕らはウケた笑い声のボリュームに痺れ、気が付くと人の数よりも笑いの量に支配されてしまっている。目の前の人たちが感動してくれることに対して、鈍感になっているといってもいいかもしれない。

 少しずつファンが増えていくという意味では、芸人もミュージシャンも同じはずなのに、どうしてこうも異なるのか、やっぱり不思議に思ってしまう。

 たとえば、1万人に向けてパフォーマンスをするとき。お笑いは、演者が面白いか面白くないを重視するから、 1万人に向けてパフォーマンをしたとしても、「ウケる」というたった一つの解だけでいい。

 でも、音楽はそうじゃない。受け手であるお客さんの感じ取り方も1万通りあるだろうから、喜怒哀楽、全部の感情をごっちゃにして聴衆に響かせなきゃいけない。ある人は刺さるかもしれないし、ある人は刺さらないかもしれない。だから、まるっとひとまとめにしないためにも、“キミ”や“アナタ”といった言葉が自然とこぼれてくるのかな、なんて考える。

 先日、『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』が行われたけど、ラジオはどこか、“キミ”や“アナタ”の世界に似たところがある。リスナー一人ひとりの受け取り方は違っていて、単に面白いだけではなくて、心に届くかどうかが問われる。

 ラジオ発のイベントだとしても、これからお笑いを考えたとき、こうした関係性がそこそこ大事なウェイトをしめてくるような気がするのは、僕の杞憂でしょうか。

 M-1を筆頭とした賞レースは、素晴らしくて尊い。一方で、そこだけにフォーカスを合わせると、なんだかお客さんを置いてけぼりにしてしまいそうで。賞レースで勝つってことは、「俺らが一番おもろいんだ」ってことを証明するためにやっているわけだから、お客さんの感情が入り込む余地はない。笑わせたら勝ち、笑わせられなかったら負け。そんな世界がだいぶ長く続いているから、芸人とお客さんの間に大きな空白地帯があるような気がする。

 コロナ禍を機にリモートが定着し、ネット配信が根付いたことで、間接的にその区間は縮んだ。直接反応が届くようになって、流れもなんだか変わった。

 粗品が、日本武道館で「チンチロ」を開催したとき、僕はちょっと感動した。自分のYouTubeチャンネルで人気の高い、ギャンブル4兄弟 (粗品・前田龍二・シモタ・大東翔生)が、ただチンチロをするだけ。

 ただ信じるだけ。舞台に上がる人間の熱量と、4兄弟の仲の良さだけで成立させてしまう。そして、それを目撃する武道館のお客さんが笑って熱狂する。粗品のライブは、本人が意識しているかどうかは分からないけど、「面白い」「面白くない」だけじゃない、形容しがたい人間の感情がだだ漏れて、ほとばしっている。お客さん一人ひとりに刺さる、何かしらの感情。やっぱり粗品は天才で、先頭を走っているって脱帽する。

 お笑いは、一方通行なんだと思う。面白い人たちがネタをやったとき、お客さんがそのネタに自分の思い出を重ね合わせることは難しい。回転寿司のような便利さと大衆性を備えているから愛されているけど、“キミ”や“アナタ”だけに向けた特別感って、もっとあってもいいんじゃないのって。

 いや――、そんなことを考えず、やっぱり「面白い」か「面白くない」だけの世界を駆け抜けた方がいいのかもしれない。だけど、これからはもっとお笑いの世界にも、“キミ”や“アナタ”の感覚が求められるような気がする。

ぽかぽかなアジフライ弁当を待つ間、スキマスイッチさんを心底うらやましいと思った昼下がり〈徳井健太の菩薩目線第199回〉

2024.03.10 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第199回目は、ネタの作り方について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 お笑い芸人のネタの作り方はさまざまだよね、なんてことをあらためて思った今日この頃。

 我が家の近くには、お弁当屋さんがある。とても美味しいのだけれど、揚げ物などは注文してから調理をするので、アジフライ弁当なんかを頼んだ日には、15分ぐらい店先で待たなければいけない。ある意味、至福の時間。

 たまたまその日は、店内のテレビで『ぽかぽか』(フジテレビ系)が流れていて、アジフライがふっくらと揚がるまでの時間、僕はなんとなく番組を眺めていた。

 ゲストとして登場したのはスキマスイッチのお二人だった。楽曲の作り方などについてトークをしていて、なんでもスキマスイッチさんは二人で曲を作ると話していた。お笑いでも、二人でネタを作ることがある。片方が大まかな設定を考え、それを二人であーでもないこーでもないと言いながら作り上げていく。二人で作ること自体は珍しくないだろうから、特に驚きはないかもしれない。

 ところが、スキマスイッチさんは昔も今もずっと、今から手掛ける曲のテンポはどれくらいにしよう……などなど、相談しながら進め、歌詞も分担作業で作るという。正真正銘、二人でゼロから作っていくとテレビの中で明かしていた。お互いのアイデアがぶつかって、ともに譲れなくなったときはどちらも取り下げ、また新しいアイディアを考えるそうだ。

 パチパチとアジフライが揚がる音を聞きながら、僕は呆気にとられていた。

 音楽とお笑いを一緒くたに考えることはできないけど、お笑いではありえないような作り方をしているなって。めちゃくちゃ面白いことを思いついたけど、相方がそれを面白いと思わないのであれば、それを取り下げてまで新しいことを考える――これって、ものすごく信頼関係が成り立っていなければできないこと。

 自分は、その思い付きを面白いと思っている。だけど、自分が信用している相方が面白くないと思うのであれば、きっと再考する余地があるのだろうと割り切れる。スキマスイッチさん、あなた方はなんてうらやましいコンビなんでしょうか。

 僕たち平成ノブシコブシは、吉村が考えたアイデアを二人で一緒に練っていくという作り方をしていた。今となっては、僕らのネタを見たことがあるという人は絶滅危惧種だと思うけど、僕らもネタをしていたときがあったのだ。

 ネタを作るとき、僕と吉村の感性はまったく違うから、最 終的に揉めて、第三者に決めてもらうことがほとんどだった。第三者に決めてもらっているのに、僕も吉村も心の中では納得していないままそのネタをやっていたから、スキマだらけ。僕らのネタは、なんちゃって合議制のもとで作られていたけど、裏を返せば、そうでもしないと着地することができなかったってこと。

 想像している以上に、ネタは作り続けられない。衝突すれば、その分コンビに不協和音が増える。ネタ作りはリスクが大きい。そんな苦痛を伴うことを、ずっと続けることができるのは、ネタを作る才能があることに加え、相方を信頼しているからに他ならない。

 芸人のネタの作り方って、本当に多種多様だと思う。

 たとえば、同期のピースは、又吉くんも綾部もどちらもネタを作る能力に長けている。言わば、シンガーソングライター同士がコンビを結成したようなものだけど、ピースのネタの多くは、又吉くんがネタの骨格を考え、綾部が演技指導を施すといった役割分担があった。

 ジェラードンは、まず面白い設定だけを考え、その後はフリー演技で作り上げていくと話していた。彼らのYouTubeなんて、まさにその真骨頂が表れている。

 M-1を獲ったときのブラックマヨネーズさんのネタは、ラジオよろしく、実際に二人が掛け合いをする体で、一緒にネタを作り上げていったという。

 天竺鼠は、川原にアイデアが降りてこない限り、ネタが完成することはないと言っていた。単独ライブの直前になっても降ってこなければ作れない、中世の作曲家みたいな作り方。瀬下のセリフが極端に少ないのは、直前まで何も決まらないことも珍しくないからだそうだ。

「お待たせしました。アジフライ弁当になります」

 お目当ての一品を受け取ると、僕は帰路についた。いろいろな作り方がある。作られている最中は、なんだかんだで待ち遠しくて、至福の時間なのかもしれない。

固定概念の破壊と構築は、赤ちゃんから学べるの巻!【徳井健太の菩薩目線 第198回】

2024.02.29 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第198回目は、赤ちゃんを育てることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 赤ちゃんと接していると、大人になってからでは気が付かないような発見を目の当たりにする。もう、その時点で「生まれてきてくれてありがとう」なんだよね。育児は発見の連続で、僕らを成長させてくれる存在だ。

 僕たち大人は、当たり前のようにコップで水を飲むことができる。だけど、赤ちゃんはそうはいかない。下唇にコップの縁を上手にあてて飲むことができないから、僕の赤ちゃんはダラダラと水をこぼしてしまう。ストローは、赤ちゃんにとって欠かすことができないアイテムで、僕らはストローのありがたみを毎日のように感じている。

 どういうわけか赤ちゃんは、グラスよりもペットボトルで飲みたがる。おそらく、僕たちが毎日のようにペットボトルで飲んでいるから、赤ちゃんにとっては「あこがれ」なのかもしれない。「グラスに注いで何かを飲むこと」と「ペットボトルで何かを飲むこと」を比べたとき、今では後者の方がより日常的な光景だ。自分たちの行いが、明らかに赤ちゃんに影響を与えているのだと、ひしひしと感じる。

 僕を見て、赤ちゃんは「ペットボトルで飲みたい」といった意思をぶつけてくる。感じ取った僕は、ペットボトルにストローを差し、「はい、どうぞ」と手渡す。

 きっとここに何かを入れたら、すべてが美味しくなってうまくいくと思い込んでいる赤ちゃんは、ペットボトルを魔法の瓶か何かだと思っているのだろう。ときには、フライドポテトを沈めて、まるで金魚を眺めるようにキャッキャと喜んでいる。勢いよくストローを吸ったところで、フライドポテトは口の中には運ばれないから、不思議そうな顔をしてプカプカと水中を漂うフライドポテトをみつめている。

 僕は、「それだと水が美味しくなくなるよ」と教えようとした。次の瞬間、なぜだかその気がなくなった。子ども注意するときや叱るときは、基本的に親の都合が多いという。たとえば、「いつまでもテレビを見ていないで勉強しなさい」とか叱るとき。もしかしたら、子どもはテレビを見た方が気持ちが乗って、勉強がはかどるかもしれないのに。でも、一般的な常識に照らし合わせた結果、「テレビの見すぎはよくない」という一方的な大人の講釈が発射される。

 フライドポテトをペットボトルに入れることなんて、どうでもいいことのような気がした。赤ちゃんにとっては、水の中にカットレモンが入っていようが、フライドポテトが入っていようが、どちらも違和感がないってこと。僕ら大人にとっては雲泥の差だけど、赤ちゃんはそうじゃない。いつか自分で気が付くそのときまで、思う存分、笑っていてほしいなぁ。赤ちゃんは、違和感の少ない世界で生きているんだから。

 僕らにとって違和感とは、目に見えるものがほとんどだと思う。ミネラルウォーターの中にフライドポテトが沈んでいるから違和感を覚えるのであって、一度、取り出してしまえば、その事実を知らない人は何も違和感はない。

 みんなと鍋をしているときだって、平気で食べているじゃないか。友だちの家に行って鍋パーティーをする――。その友だちがどんな水を使って、どれくらい衛生面に気を遣っているかなんて分からない。でも、そんなことは一切気にせず、鍋を囲んで「おいしいね」なんて言いながら盛り上がる。

 とんかつ店が、どれだけきれいな油で肉を揚げているかなんて、厨房の外にいる僕らには分かりっこない。もしかしたら、一年に一度くらいは何かの間違いで、鼻をほじった手で揚げてしまうことだってあるだろう。だけど僕らは、そんなことはまったく考えずに、目の前に運ばれてきたとんかつに食らいつく。

 結局それって、我が家の赤ちゃんがペットボトルにフライドポテトを入れて満足げに眺めていることと、変わらないんじゃないかなって思うんです。赤ちゃんは目に見えていても、そのことを違和感だと思っていない。僕らは、勝手に「そうであるべき」と考えすぎて、変になりすぎている。

 固定概念がないほうが、自由で楽しいに決まっているんだよね。赤ちゃんから教わることって、本当にたくさんある。育てているのは、自分なのかもしれないって、いつも思わされている。

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