音楽・服部百音×食・長江桂子の表現の世界「タイパやコスパを重視した先に本物の喜びはない」

何を目指して努力を重ねるかという部分は同じ
長江「私は人生の半分以上を海外で過ごしてきましたが、そういう自分だからこそできる役割の一つが、メッセージを伝える橋渡し役になることです。飲食業界においてもさまざまな課題がありますが、今は労働基準法で週の労働時間は原則40時間以内と定められ、圧倒的に修行期間が不足しています。本来、調理技術は反復作業で体に覚えさせるものですが、労働時間の制限があって研鑽を積むことができないのです。フランスでは週の労働時間はさらに短い35時間ですが、学校で学びながら現場で働くアプランティサージュという見習い制度があります。
日本の調理師学校では2〜3年学んですぐ現場に出ますが、2〜3年の座学や実習で技術は身につきませんよね。結果的に力をつけないまま数年が過ぎ、やがてその若手が次の世代を指導する立場になり、自分自身が技術を習得しきれていないので後輩に適切な指導ができないという悪循環に陥っています。学校で学びながら現場で働く仕組みがない現行の教育制度では、将来的に持続可能な人材が育ちません。公共の教育制度を変えることは簡単ではないけれど、少しずつでも制度の壁を取り除くためには可能な限り働きかけ、訴え続けることしかないと思っています」
服部「同じことは音楽業界でも起こっていて、ステージで2000人の聴衆を圧倒する演奏をするためには膨大な時間がかかりますが、教育の現場では音楽理論や歴史などの講義に多くの時間が割かれ、実際に楽器を演奏する時間は削られているのが実情です。今はタイパやコスパという言葉がもてはやされていて、その基準で見るとどうしても芸術は効率が悪いものとされてしまいますが、タイパやコスパを重視した先に本物の喜びはないと私は思います。
最近は演奏会に足を運ぶ学生も減ってきて、若い世代が音楽に触れる機会がどんどん少なくなっています。どんなに素晴らしい演奏家の曲を聞いても、その人のように演奏するための時間が取れず、自分を責めて嫌な気分になるくらいなら行かないほうがいいと考えてしまう人もいるのです。だからこそ私は『Storia』のような企画を通し、普段はあまり聞かれない名曲を魅力的に紹介することで “自由に聞いていいんだよ” “音楽って面白いんだよ” “ただ楽しめばいいんだよ” ということを伝えていきたい」
怒涛のように話が止まらなかった2人。最後にお互いの印象の変化を語ってもらった。
服部「お会いする前に想像していたより、実際にお話ししてみると感覚的なところで深く共感できる部分が数多くありました。自分に向き合う気持ちや思うようにいかないもどかしさ、何を目指して努力を重ねるかという根本的な部分はまったく同じ。実際に長江さんが働いている現場をちょっと覗いてみたくなりました(笑)」
長江「どうぞいつでもいらしてください(笑)。私が受け取ったのはヴァイオリニストや音楽家という肩書きではない “百音さん” という人そのもの。彼女の感性や考え方、なぜここに存在しているのか。その背景を知ったことで、2人の間に流れている空気や世界観が同じなのだとより深い共通点を感じました」
服部「私もこうして直接お話を伺ったことで問題をより深く理解できるし、その内容を誰かに伝える橋渡し役ができるかもしれません」
服部百音(はっとり・もね)
1999年生まれ。8歳でオーケストラと共演。10歳以降さまざまな国際コンクールで優勝やグランプリを受賞。11歳でミラノでのリサイタルを皮切りにウラディミール・アシュケナージとスイスイタリア公演、ハチャトリアン音楽祭、マリインスキー劇場などで演奏。2021年NHK交響楽団、パーヴォ・ヤルヴィと共演、翌年ドイツ・カンマーフィルと共演して大好評を博す。 2022年から自身の企画コンサート「STORIA」を展開し、日本での演奏機会に恵まれない名曲の普及にも意欲的に取り組んでいる。桐朋学園大学大学院修了。使用楽器は日本ヴァイオリンから特別貸与のグァルネリ・デルジェス。
長江桂子(ながえ・けいこ)
弁護士を志して学習院大学で法律を学び、1997年フランス留学。一流シェフたちを輩出する世界的な料理学校「ル・コルドン・ブルー」でディプロマ取得。名店「ラデュレ」で腕を磨き、2002年に三つ星料理人のロンドン店「スケッチ」のオープニングスタッフに抜擢。巨匠ヤニック・アレノ率いる「ホテル・ムーリス」を経て、2004年にミッシェル・トロワグロが手掛ける「ホテル・ランカスター」のシェフパティシエに就任。続く2008年に三つ星レストラン「ピエール・ガニェール」パリ本店のシェフパティシエを務めた際には、氏の元で世界中のレストランオープンや国際イベントの指揮、パティシエ育成にも力を注いだ。2012年、ガストロノミー界のコンサルタントとして独立。自らの会社「AROME(アローム)」をフランス・パリに設立。ガストロノミー界の異なる分野で参入、指導。2023年7月より「クレソンリバーサイドストーリー旧軽井沢」にてコラボレーション開始。2024年4月に同店の総料理長に着任。
(7月24日取材、TOKYO HEADLINE・後藤花絵)