【短期集中連載】〈日本で最も歴史の長いプロ格闘技・シュートボクシング40年史〉第4回 立ち技女子をリードし続けたシュートボクシング

 来る11月24日、東京・国立代々木競技場第2体育館で創立40周年記念興行『〜SHOOT BOXING 40th Anniversary〜S-cup×GZT 2025』を行うシュートボクシング。プロ格闘技団体として同じ名前では史上最長となる40年という長い歴史を振り返る。(文・布施鋼治/写真提供・石本文子)

B黎明期を支えた石本、熊谷、藤山(左から)。現在も3人の交流は続いている(下)

 86年1月19日、シュートボクシングは横須賀市民体育館で旗揚げ第3戦を行っている。その第4試合と第5試合で初めて女子の試合が組まれた。メンバーの中にはのちに女子プロレスラーとして大成する風間ルミの姿もあった。その風間やその日、風間に勝った仁あきらは女子キックボクシングの黎明期を支えた人物だった。

 しかし、70年代から80年代の女子キックはお色気路線で勝負したり、プロレスとゴシャマゼの興行も多く、男子のそれとは明らかに別物として捉えられていた(驚いたことに、女子キックボクサーによるタッグマッチを行ったという記録も残っている)。

 仁や風間も活動を休止していた日本女子キックボクシング協会からの移籍組だった。シュートボクシングが旗揚げした当初、女子キックはほとんど活動していなかった。彼女たちからすれば、新団体からのオファーは願ったり叶ったりだったのだろう。シーザー武志は「女子の灯を絶やしたらダメだと考えていた」と振り返る。

 女子の試合はKO発生率が低く、男子のように選手層が厚いわけでもない。しかし当時の記録を振り返ってみると、シュートボクシングの女子の試合はKO率が非常に高かった。マッチメークのうまさと選手のやる気が相乗効果となって、KOにつながったのだろうか。

 1996年5月1日には神奈川・クラブチッタ川崎で記念すべき女子だけのシュートボクシングの大会を行っている。メインイベントは中村ルミVS藤山照美のJSBAレディースタイトルマッチ。なぜシーザー武志は史上初の女子だけの興行を組もうと思ったのか。
「女子の試合は男子の中でやると、どうしても沈んでしまうことが多い。でも、女子だけにしたら、結構面白いんじゃないか?と思ったんだよね。女子プロレスではないけど」

 仁あきらや吉開若菜(いずれもシーザージム)が活躍した時期を第1期とするならば、藤山照美、石本文子(いずれも大阪ジム)というツートップが長らく活躍した期間は第2期と見なすことができる。もう30年前の話になるが、シーザーは黎明期の女子シュートボクシングをハッキリと覚えている。
「当時、全日本女子プロレスで異種格闘技戦をやっていたじゃないですか。それで石本が全女のリングで闘うようになってからはウチの興行にも女子プロレスのファンが流れてくるようになった」

 全日本女子プロレスとの対抗戦に駆り出された石本は伊藤薫、前川久美子といったレスラーから勝利を収め、WWWA世界格闘技王座を獲得している。プロレスラー以外のジャンルの選手がプロレス団体が管轄する王座を獲得するなんてたぶん史上初の快挙だろう。また石本はシュートボクサーとして初めて東京ドームのリングで闘っている。

 一方、藤山は全日本キックボクシング連盟の女王として君臨していた熊谷直子とも4度に渡る名勝負数え歌が印象に残る。適正階級は藤山のほうが下だったが、通算戦績は2勝2敗と全くのイーブンだった。少なくとも藤山や石本の試合に関していえば、男子より劣るということはなかったのではないか。

 この時期の女子シュートボクシングは藤山VS熊谷と石本の異種格闘技戦を軸に回っていたといっていい。核となる選手がいれば、他の女子も台頭してくる。のちにプロボクシングに転向し東洋太平洋女子スーパーフライ級王者になった角田紀子はシュートボクサー時代、藤山に完勝して世代交代を成し遂げている。

 このあと女子の大きな波は、RENAの登場を待たなければならない。のちにRIZINでも活躍するRENAというスーパースターの登場によって、シュートボクシングは女子だけの大会の第2弾となる「Girls S-cup」を2009年から10年以上定期開催できるようになったからだ。シュートボクシングは女子の歴史を抜きには語れない。
(第5回=10月30日掲載に続く)