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「君もヒーローになれる」。ヒロアカを観ないなんて人生の10割損してる。2話まででいいので、絶対に見て感想ください!〈徳井健太の菩薩目線第210回〉

2024.06.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第210回目は、アニメ版『僕のヒーローアカデミア』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『週刊少年ジャンプ』で連載されている堀越耕平先生による『僕のヒーローアカデミア』が、10年の歴史に幕を下ろすことがアナウンスされた。

 皆さんは、『僕のヒーローアカデミア』――通称ヒロアカを見ていますでしょうか? もし見ていないという方、ものすごくもったいないです。ぜひ見てください。

 何を隠そう、わたくし徳井健太は完全にアニメでヒロアカを追っているファンでして、マンガはほとんど見ておりません。「おいおい、どの口がオススメしてんだ」と思われるかもしれませんが、どれだけ後ろ指をさされても構いませんので、ヒロアカ、見てください。

 ヒロアカのストーリーをざっくり説明すると、超能力「個性」を持つ人々が当たり前となった世界を舞台にしたヒーロー作品です。主人公の緑谷出久(通称デク)は元々「無個性」でしたが、トップヒーローのオールマイトと出会い、オールマイトの「個性」である「ワン・フォー・オール」を受け継ぐことになります。雄英高等学校ヒーロー科に入学したデクは、クラスメイトたちと共に最高のヒーローを目指すべく、ヴィラン(悪役)との戦いを通じて成長していく――。

 僕は、話題になっているマンガがアニメ化される際は、可能な範囲でチェックします。ヒロアカに限った話ではなく、アニメから作品に触れることがほとんどなので、数話を見て、面白いか面白くないかを判断してしまうクセがある。もうちょっと見続ければ面白くなるんだろうけど、10話くらいまで見て「う~ん」と感じたら脱落してしまう。スピーディーに展開していくマンガ原作の方が、おそらく離脱しづらいんだろうなとは思うものの、どういうわけかアニメで見る方が性に合っているんです。

 ヒロアカは、ドはまりしてしまいました。2話目で心を持っていかれました。

 魅力的な物語やキャラクターはもちろん、何がすごいってアニメーション制作会社・ボンズが作り出すハイクオリティな映像と、臨場感あふれる音響。その演出力が素晴らしすぎて。映画さながらの迫力を、毎週土曜日の17:30から放送しているなんてヒーローすぎます。

 見ている皆さんなら共感してもらえると思いますが、見れば見るほど悪役であるヴィランたちが愛おしくなっていくんです。人生をまっとうする中で、誰が好き好んで不幸を選ぶというんだろう。虐待だったり差別だったり貧困だったり。道から外れるのには理由や環境があるわけで、僕らは選択肢のない人生を歩まされたヴィランを責めることができるんだろうか……なんて思いながら、画面に釘付けになっている。本当に悪いのは巨悪と言われる存在だけ。なりたくて悪に染まる人間なんていないと思いたいじゃないですか。エンディング曲が流れる頃には、いつも涙で画面が見えなくなっている。

 ヒロアカを見ていると、心が苦しくなってくる。ヒーローは、みんなHEROだ。彼ら彼女らはヴィランをやっつけたいけれど、なりたくてなったわけではない悪をやっつけなければいけない。ヒーローたちも葛藤に苦しむ。そんな声にならないような声を、すさまじい演技で表現しているヒロアカの声優さんたちに、いつもスタンディングオベーションをしています。

 泣き叫んだりするような声を、声優さんたちはどうやって表現しているんだろう。見ている僕たちの心が震える、声優さんたちの演技を本当に見ていただきたい。こんな熱量を、牧歌的な土曜日の17:30に放っていること自体、どうかしていると思います。

 僕は悩んだり、泣いたり、称賛したりしながら、ヒロアカを見ています。我ながら情緒がどうかしていると思うものの、感情を揺さぶられるってこういうことなんだなと教えてくれるヒロアカのアニメは、我が家の週一のスーパーな楽しみになっている。

 アニメは、シーズン7が始まったくらい。そろそろ終わりが見えてきて、楽しみと悲しみを抱えながら、毎週ドキドキしています。このアニメに携わっているすべての皆さんにありがとうと心から言いたいです。ありがとうございます。

 そんな矢先にアナウンスされた最終回は間近に迫っているという情報。はぁ、ヒロアカを追っている僕らの物語も終わってしまうのでしょうか。

 ヒーローになるのか、ヴィランになるのか。人生にはいろいろなことが起こる。めんこを中空に放り投げて地面に落ちたとき、表が出るか裏が出るか、どちらに転ぶかなんて分からない。“たまたま”が、その人をヒーローにするし、ヴィランにもする。世の中が勧善懲悪だったら、どれだけ楽なことか。みんな、グラデーションの中で戦っているんです。

多様性を認め、尊敬し合う社会は素晴らしい。けれど、それだけじゃヤングケアラーは救えない〈徳井健太の菩薩目線 第209回〉

2024.06.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第209回目は、多様とは何かについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 テレビ東京『日本怪奇ルポルタージュ』をご覧になってくださった皆さん、ありがとうございました。

 この番組は、昔の日本では考えられなかった「社会問題」や「怪奇現象」に少しだけ寄り添うという番組で、元旦に放送した特番が好評だったことを受け、4月から6週連続で放送されました。僕はその5回目、5月2日に放送された「ヤングケアラー」回に登場し、VTR出演者としていろいろ話をさせていただきました。

「徳井で一本作りたい」と言っていただいたときは、ありがたいやら不安やら。自分で言うのもなんですが、30分番組をまるまる徳井健太にスポットを当てるって、ものすごく冒険的なことだと思う。まさに怪奇。僕はルポ散歩という形で、とにかく散歩をしながら自分のヤングケアラー時代の話と、その後の人生について話をした。

 菩薩目線でもたびたび触れている通り、僕自身はヤングケアラーだったという自覚はない。当時を振り返っても、困っていた感覚はない。「大変だったでしょ」と言われても、それが当たり前だと思っていたから、何も感じていなかった。だから、今、ヤングケアラーで困っている人がいたとしても、どうやって助ければいいのか分からない。あの時代、日々の生活にどんなことをしていたかは思い出せるけど、感情を覚えていない。仮に、今の自分があの時代に戻って、10代の自分と話ができるとしても、何を話せばいいかのか分からない。

 母親は何も教えてくれなかったし、父親も離れて暮らしていたから、挨拶や感謝、マナーといった概念はなかった。でも、そういうむちゃくちゃな態度が、芸人になったことで周りから「面白いな」と言ってくれるようになって、僕はこれでいいと思って35歳まで生きてきた。この先もそうやって芸人を続け、身を滅ぼせばいいと思っていた。

 あるとき、小藪千豊さんが「徳井。それはアカンで」とめちゃくちゃ丁寧に接してくれるようになった。例えば、神社に行ってお賽銭をするのは、その神社を掃除してくれている人の給料になるから払うんだとか、寿司屋に連れて行ってくれたときは、目の前で大将が握ってくれたんだからすぐ食べるんだなんて、感謝や礼儀の大事さと教えてくれた。

 僕みたいな世間知らずのガキに、小藪さんは1回2回じゃなくて、1~ 2年をかけて当たり前のことを教え続けてくれた。そのおかげで、僕は人間的な感覚というもの――母親の世話を始める前にはあっただろう感覚を、取り戻すことができたんだと思う。小藪さんがいなかったら、絶対に今の自分はない。本当に感謝してもしきれない。

 小藪さんが実践してくれたことは、僕にとっては助けだった。でも、世の中は多様性を問う。考え方によっては、かつての僕のような“むちゃくちゃな生き方”も多様な社会の一部分なのかもしれない。僕は考え方を矯正されたわけだから、小藪さんの助けは多様性とは真逆に位置するものなのかもしれない。

「まぁいいじゃん。いろんな人がいてもいいよね」では救えない人もいるし、ヤングケアラーに「それもあなたの個性だよ」なんて言ったら、一人も救うことはできない。「俺はこう思うから、俺についてこい」。そうやって、首根っこをつかんでくれるような人に出会えたから、僕は救われた。だから、多様性にケチを付けてでも、ヤングケアラーを救うには小藪さんみたいな人が現れるしかないと思っている。土足で踏み込む勇気と鍛錬を持つ人じゃないといけないんです。

昨今言われている多様性って一体何なんだろうなんてことを、最近は考える。その人の生き方を尊重してあげたいけど、否定をしてあげなければ助けることができない現実も確実にある。生き方に正解なんてないと思う。だから僕は、少なくても多様性が大事だと決めつけるようなことはしたくない。

血の通った温かい街「新宿」で、カンジャンケジャンにて血を流す〈徳井健太の菩薩目線 第208回〉

2024.06.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第208回目は、カンジャンケジャンと家族について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 大久保に、キッズルームがあるカンジャンケジャンを提供するお店がある。

 カンジャンケジャンとは、ワタリガニをニンニクや玉ねぎなどの野菜と一緒にしょうゆベースのタレに漬けこみ、熟成させた韓国料理のこと。カンジャンケジャンを食べたことがある人ならわかると思いますが、手が汚れるのは当たり前。それでいて、その美味しさのあまり一心不乱にカニにむさぼりつくため、子どもの面倒を見ることがとても難しい料理です。

 子どもが生まれると、今まで知らなかったことを知る学びの機会につながる。例えば、子どもの面倒を見ながら食べることが難しい料理が結構世の中には存在するということを知る。その筆頭格が、カンジャンケジャンだ。難易度Sレベルのくせに、めちゃくちゃおいしい。食べたいけど、小さい子どもがいる親にとっては手が届かない。そんな愛しさと切なさを兼ね備えた料理が、カンジャンケジャンなのだ。

 でも、かゆいところに手が届くお店があるという。子ども連れて冒頭のお店へ行くと、子どもはキッズルームに夢中。僕ら夫婦はカンジャンケジャンに夢中になった。

 キッズルームは結構な広さを有し、遊具やテレビ、絵本などがたくさんある。ありがたいことに僕らの目の届く範囲にそのキッズルームはあるため、カニにむさぼりつきながらも、きちんと子どもが今何をしているかもわかる。

 心置きなくカンジャンケジャンを堪能できた僕は、「ごちそうさま」と「ありがとう」を心の中で連続して叫びながら、ボリボリとカニを食べ続けた。普段、僕はあまりテンションが上がることはないのに、このときばかりは狂気乱舞した。もう大満足。その言葉しか出てこない。こういうお店があるだけで、世の中の難易度は下がるのだ。

 帰り際、子どもを抱っこすると、その洋服に赤い斑点が付いていた。おそらく血のようなもの。焦った僕は、遊んでいる最中に怪我をしたのかなと思い、子どもの体をチェックした。幸い怪我はしていない。よく見ると、怪我をしていたのは僕の指だった。

 僕はカンジャンケジャンを夢中で食べるあまり、自分がカニの甲羅で指を切ったことすら気が付かないほどむさぼり続けていたのだ。自分が流血しているなんて気が付かないほどの安心感と幸福感。幸せというのは、自分が怪我したことすら気が付かない状況のことを意味するのだと分かった。

 子どもを育てていると、都心にはこうした場所が本当に少ないとつくづく感じる。子ども連れが安心感と幸福感に包まれる――。都心には、カンジャンケジャンな気持ちになれる場所が少ない。

 新宿に暮らしている僕は、子どもを連れて大久保へご飯を食べに行くことが多い。韓国料理店へ行くと、オモニと呼ばれる店主のお母さんがホスピタリティー全開で、初めて訪れた僕らを迎え入れてくれることが珍しくない。

 子どもを見るや、「あら~かわいい!」と全身で喜んでくれて、「奥にある広いテーブル席を使ってね」と案内してくれる。どうやらその奥の席だけは、子ども連れのお客さんのためだけに解放しているらしい。

 韓国料理を提供するお店だから、基本的に料理は辛くなる。そのためオモニは、子どもには辛すぎるかもしれないからということで、別途、子どものためだけに無料でキンパを提供してくれた。こっちが心配になるくらい優しいんです。こっちは客に過ぎないし、もう来ないかもしれないのに。

 新宿にはさまざまなエリアがあるから、一概にくくることはできないけれど、長年、この場所に住んでいる僕からすると、家族に対して優しいお店がとても多いと思う。ベビーカーで入店しても嫌な顔はされないし、チラチラこちらをうかがうような人たちもいない。僕らも気兼ねなく美味しい料理を楽しむことができる。

 この街には、年齢、性別、人種、職業、いろいろな人が存在しているから、自然体で多様な暮らしを、結果的に受け止めているんだと思う。僕は、新宿という街が、そういう意味でもとても好きだ。この街には血が通っている。だから、あまり冷たさを感じないんだろう。

すべてのことは必ず反転を繰り返す――。キルケゴールの思想は、芸人の世界にも当てはまることを、吉本大コンプラ会議で思い知る!〈徳井健太の菩薩目線 第207回〉

2024.05.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第207回目は、時代と芸人観について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 皆さんもニュースなどで知っているかもしれませんが、先日、吉本興業がコンプラについて考える研修を行いました。

 昨今は、タレントの社会的責任が高まっているので、こういったことを僕たち芸人も学んでいかなければいけない――ということで実施したのですが、平日ということもあり、一体どれぐらいの人が来るんだろうなんてことを思っていたわけです。正直なところ、「面倒だなぁ」なんて思いつつも、適当な嘘をついて欠席する道理もないので、せっかくだから僕も参加してみることにしました。

 会場は、東京ドームシティー内にある東京ドームと吉本興業がタッグを組んだ劇場「IMM THEATER」(去年の11月にオープンしたばかり)。扉を開けると、平日なのにぎっしりの超満員。この研修は芸人を対象としているので、“キャパシティ約700席が芸人だらけ”という異様な空間を目の当たりにして、あらためて吉本興業ってめちゃくちゃ芸人が多いんだなと妙に感心してしまった。

 舞台上には、ニューヨークの屋敷、相席スタートのケイちゃん、NON STYLEの石田、そしてブラックマヨネーズの小杉さんがMCというポジション。専門家などの意見も交えて、包括的に昨今のコンプラ事情が説明されていく。法律が改正され、かつては許されていたかもしれないことが、今ではそれが通用しなくなって犯罪として扱われるなど、実際に話を聞いてみるとうなづくことが多かった。

 その中で、昔は「芸人=めちゃくちゃなことをする、破天荒なことをする」みたいな風潮があった、という話になった。

 その話を客席で聞いていた僕は、ふと考えた。

 今の時代は、そんな振る舞いはもう許されないし、望まれていない。真面目な芸人じゃないと許されない。ってことは、破天荒だったり破滅的だったりする芸人は時代にそぐわないということ。僕たちだって、もっとバラエティでバカみたいなことをやってみたいけれど。

 むちゃくちゃを望む芸人は、「昔がうらやましい」「今は厳しすぎる」と不満を漏らす。だけど、きっと何十年も昔から似たようなことは言われていたんじゃないのって。

 昔は無茶ができたと言うけれど、そんな時代の中でも真面目な芸人はたくさんいたはずだ。でも、時代が非日常的な瞬間を作り出すような芸人を求めていたところがあったから、スポットライトはどうしたって毒気があって無頼な芸人に当たる。真面目な芸人は、どこか物足りないと目に映り、面白味に欠けると判断され、仮に才能があったとしてもそのまま埋もれていった可能性だってあると思うんです。

 この時代、真面目な芸人たちは、「お前はもうちょっと毒や破天荒な感じを入れていった方がいいよ」なんておせっかいを焼かれたり、どうでもいいアドバイスを言われたりしたかもしれない。「そう言われてもそんなことは自分に合わないから」。拒んだり、悩んだりしたと思う。時代から求められていないことをし続ければ、日の目を浴びる瞬間は訪れない。

 今の時代は、安心感をもたらすような芸人が求められているから、どうしたってそういうタイプの芸人にスポットライトが当たりやすい。いつかまた、揺り戻しで破れかぶれが求められる時代になるんだろうけど、今は真面風の芸人のターン。だから、真面目に振る舞うことができないのであれば退場するしかない。連綿と繰り返されてきたように、その時代と添い寝ができない人は消えていくしかないんだよ。切ないなぁ。

 コンプラ研修会で、こんなにセンチメンタルな気持ちになるとは思わなかった。話を聞いていると、いろいろと思うところがある。きっとこの研修に足を運んだ芸人たちの多くも、自分たちなりに考えるところがあったと思う。

 そんな感情がよく分からなくなるような空間の中にあって、MCの小杉さんはドッカンドッカン笑いを量産していた。劇場でもテレビの観覧でもありえない芸人だらけの空間ですよ。ましてやキャパ700。そんな地獄みたいな空間で笑いを生み出していた小杉さんは、やっぱり化け物だなって純粋にゾクゾクした。そんなスペシャルな瞬間を目撃できただけでも、「風邪気味なので休みます」なんて適当なウソをつかずに、「IMM THEATER」まで来て大正解だったと思う。

 たまにはこうやって真面目に空気がシンとしている空間に身を置いて熟考してみることも大事だよね。鳥の鳴き声がさえずっているときにしか、思い付かないこともある。喧騒の中だけでは、気がつかないことってたくさんある。

チャンネル登録者、好感度、顔色、どれもうかがえずここまで生きながらえてきた〈徳井健太の菩薩目線 第206回〉

2024.05.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第206回目は、人の顔色をうかがうことについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 佐久間(宣行)さんが総合プロデュースを手掛ける、「ラフ×ラフ」という8人組のアイドルグループがいる。彼女たちは、曲中に大喜利をしたりクイズをしたり、“ザ・バラエティ”なアイドルだ。

 みんな個性があって面白い。だけど、まだまだ若いアイドルさんに変わりはないから、悩みも尽きないらしい。そんな背景もあって、「ラフ×ラフ公式YouTubeチャンネル」にゲストとして呼ばれ、人生相談をすることになった。若い子に、僕みたいなおっさんが贈る言葉なんてあるのかしら。

【超本音】ノブコブ徳井のアイドル人生相談!超本音に佐久間Pもマジ回答!

ソウドリへの感謝と後悔は消えない。それでも若手芸人たちはスクスクと育っていく!〈徳井健太の菩薩目線 第202回〉

2024.04.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第202回目は、「ソウドリ解体新笑」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『賞金奪い合いネタバトル ソウドリ~SOUDORI~』が終わってしまった。とてもありがたいことに、僕は「ソウドリ解体新笑」という形で、この番組にかかわることができました。ぽっかり穴が開くって、こういうことを言うんだろうな。

 終わったばかりだからセンチメンタルになってしまうけど、この仕事を通じて、今まで明かされていなかった有田さんのお笑い観や考え方を聞くことができて(しかも真横で)、ものすごくぜいたくな時間を過ごさせていただきました。有田さん、番組スタッフの皆さん、ありがとうございました。

 最後の収録は、個人的にものすごく後悔を伴うものだった。「もっとうまく立ち回ることができたのかもしれない」とか「もっとこうしておけば」とか、反省、反省、また反省。都合よく解釈すれば、これから自分のステージを上げていく上で、「宿題」をもらったとも考えられるけど、40を過ぎて宿題と向き合わなきゃいけないのも情けない。今も後ろ髪を引かれるのは、自分の未熟さを感じたまま終了したからなんだと思う。

 去年、「敗北からの芸人論 トークイベント vol.9」で、インパルス・板倉さんを招いたときもそうだった。役割に徹するがあまりインタビュアーっぽくなりすぎて、もっと自由に熱いハートを持ってぶつからないといけないって反省したはずなのに。

 きちんと話そうと思うと、どこかでパッケージしてしまう自分がいて、それを良くない意味で「慣れ」と呼ぶのかもしれない。結局それって、まとまってしまうから保守的な展開にしかならない。あ~、もっとできたはずなのに。「なのに」ばっかり。「なのに」が多いと、それだけ反省も多い。『ソウドリ解体新笑』は、最後にどでかい自分への反省を与えて、去っていった。でも、ドン・アリタは嘘つかない  。お笑いへの愛は、そりゃもう最大級の偏愛だから。待ってます。ただのコアなお笑いファンとして。その日まで成長してないとウソだと思うんです。

 僕が、お笑いについて分析するとき、きっと「お前レベルが話すなよ」と思っている人は少なくないと思う。同業者の中にも、まったく関係のない中にも。有田さんと一緒にお笑いを語れたことで、自分が話していることに自信を持つことができたし、あの有田さんがうなずいている――。虎の威を借る狐だったとしても、虎に近づけたのかなって思いたい。

 僕は、好き勝手に語って、論じちゃう。だけど、出演する芸人たちは、好意的な意見を言ってくれる人がたくさんいて、あぁ~しらきからは、「あのとき、私の真髄を語ってくれてありがとうございます」なんて言われた。面映くなって、「そんなこと言っていたっけ」って聞き返すと、彼女は「なかなか言ってくれない一言を言ってくれましたよ」と力強い目線で返してくれた。

「マジで? 俺、何て言ったっけ?」

「それが覚えていないんです」

 しらき、ありがとう。またネタを見るの楽しみにしてる。

 勝手にあーだこーだ言うから、収録終わりに「ごめんね、好き勝手言っちゃって」なんて言葉をかけたこともある。ゼンモンキーから、

「いやいや、全然そんなことないです。若手は、有田さんがなんて言うのか、徳井さんがなんて言うのか、ものすごく楽しみにしてると思います」

 と言われたときは、すごくうれしかったなぁ。些細な一言かもしれないけど、そんな彼ら彼女からの言葉が、僕自身も励みになった。素晴らしい徳を積ませていただきました。

「ソウドリ解体新笑」は終わったけれど、僕が若手のネタを見続けることはずっと続くと思う。だって、とんでもないモンスターに出会えるんだから、やめられるわけがない。

 3月下旬に、ネタバトル番組「100×100」(https://100×100.yoshimoto.co.jp/ )という大会が、YouTubeの「吉本興業チャンネル」で生配信され、僕はMCを担当した。100秒刻みのネタで100万円をゲットできる吉本独自のコンテストで、若手を中心とした60組の芸人が4時間にわたって登場する。審査員を務めるのは、本多正識(漫才作家・NSC講師)、お~い!久馬(ザ・プラン9)、椿鬼奴、久保田かずのぶ(とろサーモン)、中山功太、田所仁(ライス)――そうそうたるメンバー。

 20時配信スタートで4時間ぶっ続け。審査員の最年少は、41歳の仁。平均年齢50歳近い審査員が4時間にわたり審査する。クレイジーすぎるって、吉本興業さん。

 次から次に、若手が刻むようにネタをするものだから、もう途中から意識が遠のいていく。何かの社会実験に参加させられたような審査員たちの表情からは、一つずつ感情が消えていき、終盤を迎えるころには笑う気力も失せていた。

 感情が死んでいく。そんな中、決勝に残ったイチゴ、鉄人小町、若葉のころはとんがっていた。深夜0時。もうボロボロの初老の審査員たちを、どっかんどっかん爆笑させ、よみがえらせていた。きっと彼らは「来る」。真夜中に、どうかしているネタに爆笑している、どうかしている審査員たち。これだからお笑いはやめられないんです。

依存は人によって強度も内容もさまざま。僕は、依存と共存することを選んだ2024〈徳井健太の菩薩目線 第201回〉

2024.03.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第201回目は、依存症について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 大谷翔平選手の専属通訳だった水原一平さんが、ギャンブル依存症だと告白した。人生、何か起こるか分からない。

 衝撃的なニュースが飛び込んでくる数日前、僕は、厚生労働省が主催する依存症の理解を深めるためのトークイベント「特別授業!みんなで学ぼう依存症のこと in 大阪2024」に生徒役として出演していた。今思えば、なんてタイムリーなイベントに参加したんだろうなって思う。

 パチンコ依存症の過去を持つ青木さやかさん、「ギャンブル依存症問題を考える会」代表の田中紀子さん、精神科医の入來晃久さんが「先生」となり、依存症についてアレコレ聞いていく。

 物質的な依存、精神的な依存、寄りかかりすぎて戻れなくなることがある。僕が「なるほどな」と思ったことの一つが、「お金を使い込みすぎて依存してしまうこと」、そして、それを隠すために「ウソにウソを重ねていくこと」だった。

 これってギャンブルだけではなく、誰かに、何かに共依存するケース、すべてに当てはまると思う。家族やパートナーに黙ってお金を使い込んでしまい、その事実がバレないように繕えば、〇〇依存症へまっしぐらだ。

 幸い……というか、運が良かったというか、僕は共依存することなくギャンブルと付き合ってきたんだろうなって思った。その昔は、まあまあ人が引くレベルの借金をしていたけど、ウソを付いてまでやることはなかった。いくら使い込んだとか、そんな話ではなくて、人から信頼を失うことが依存症。だとしたら、失ったのがお金だけなら、まだ明るい。

 依存とは、上手に距離を取らなきゃいけない。たとえば、タバコ。僕はずっとやめたくて仕方なくて、いろいろなことを試したけど、吸い続けてきた。でも、ある日肺に入れるのをやめてみたら、意外と依存と共存できるって思った。まぁ、それでも吸っていたんだけど、肺に入れずに口だけで吸っていることがバカバカしくなって、解き放たれた。結局、同じ本数を吸っているのに、肺に入れていないなんてどうかしている。どうでもいいマイルールが伏線になって、禁煙につながった。

 40歳を過ぎた頃、人付き合いが下手な僕は、せめて喫煙所でコミュニケーションくらいは取った方がいいかなと思って、また吸い出した。相変わらず、肺には入れてない。共存することを覚えたから、「また、やめられるだろう」なんて自信を勝手に抱きながら、紫煙をくゆらせている。

 タバコを吸うって依存と共存できたからやめられた。そのとき借金がかさんでいた僕は、その頃からギャンブルをする際にも、マイルールを課すように考え方を変えた。

 公営ギャンブル場へ行っても、3万円しか使わない。仮に1万円かけて勝って、10万円が払い戻されたとしても、あと2万円しか使わないと決めていた。青天井よ、さようなら。

 家にいてスマホから買うときは、200円まで。100円だと一点買いしかできないから予想のしがいがなくて、外れたときにずるずると尾を引いてしまう。二点だったら折り返せるから予想もできて、外れたとしても満足感を得ることができた。たった100円の差で、僕がドーパミンに支配されるか、ドーパミンを支配するかが変わる。

 依存症になると、距離を取ることができなくなるかもしれない。厚生労働省が行った依存症に関する調査(2021)によれば、国内で過去1年間にギャンブル依存症が疑われる状態になったことがある人は、成人のおよそ2~3%だという。「自分は依存症かも」と思う人は多いかもしれないけど、本当に抜け出せなくなる人は少ない。だから、その前に。抜け出せる段階でマイルールを設けましょう。

 依存症になった人に、もっともやってはいけないこと。それが、「お金を肩代わりすること」だそうだ。僕が、

「自分の子どもがギャンブルにハマってしまって、借金を抱えてしまった。 子どもに身の危険が迫るような切羽詰まった状況でも、肩代わりをしない方がいいんですか?」

 と尋ねると、先生は、「依存症を治したいのであれば貸さなくていい」と断言した。貸した後、立ち直れた人は、自分が知る中には一人もいないって。どんな状況であっても、貸してしまうと立ち直ることができなくなる。お金を貸す方は助けているつもりなのに、結果的には助けていないことになる。依存症は、底を見誤ると、いつまで経っても足が着くことはない。ウソを付けば付くほど、水深は深くなる。その分、戻ってくるのに時間がかかる。息が詰まりそうな世界。

BUMP OF CHICKEN、サンボマスター、WANIMA、粗品、オードリー、ボクはもっとキミやアナタに届けたかったのかもしれない!〈徳井健太の菩薩目線 第200回〉

2024.03.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第200回目は、これからのお笑いに求められることについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 BUMP OF CHICKENは、ライブでファンに向けて何かを話すとき、“キミ”“アナタ”と呼ぶと教えてもらった。「キミに歌いに来た」、「アナタのために」―、そう伝えるそうだ。

 ミュージシャンのライブ映像を見ていると、ファンに対して“キミ”“アナタ”と呼びかけている人が多い。サンボマスターは“アナタ”と言い、WANIMAは“キミ”と伝える。

 お笑いじゃあり得ない。なぜ芸人はそう呼ぶことがないんだろう。

 僕たちお笑い芸人は、目の前のお客さんを笑わすことに必死だけど、その数が50人、100人、1000人と増えていっても、「お客さん」という感覚が変わることはない。数が多ければ多いほど、笑いのボリュームは大きくなって、僕らは快感にも似た手ごたえを感じる。

「爆笑」という言葉があるように、笑いは束になると爆発したように弾ける。そんな爆笑を求めて、僕らは人を笑わすことに夢中になる。

 音楽は、ストリートからスタートして、段々とステージを上げていく人が珍しくない。徐々にステップアップするという意味ではお笑いも同じだけど、僕らはウケた笑い声のボリュームに痺れ、気が付くと人の数よりも笑いの量に支配されてしまっている。目の前の人たちが感動してくれることに対して、鈍感になっているといってもいいかもしれない。

 少しずつファンが増えていくという意味では、芸人もミュージシャンも同じはずなのに、どうしてこうも異なるのか、やっぱり不思議に思ってしまう。

 たとえば、1万人に向けてパフォーマンスをするとき。お笑いは、演者が面白いか面白くないを重視するから、 1万人に向けてパフォーマンをしたとしても、「ウケる」というたった一つの解だけでいい。

 でも、音楽はそうじゃない。受け手であるお客さんの感じ取り方も1万通りあるだろうから、喜怒哀楽、全部の感情をごっちゃにして聴衆に響かせなきゃいけない。ある人は刺さるかもしれないし、ある人は刺さらないかもしれない。だから、まるっとひとまとめにしないためにも、“キミ”や“アナタ”といった言葉が自然とこぼれてくるのかな、なんて考える。

 先日、『オードリーのオールナイトニッポン in 東京ドーム』が行われたけど、ラジオはどこか、“キミ”や“アナタ”の世界に似たところがある。リスナー一人ひとりの受け取り方は違っていて、単に面白いだけではなくて、心に届くかどうかが問われる。

 ラジオ発のイベントだとしても、これからお笑いを考えたとき、こうした関係性がそこそこ大事なウェイトをしめてくるような気がするのは、僕の杞憂でしょうか。

 M-1を筆頭とした賞レースは、素晴らしくて尊い。一方で、そこだけにフォーカスを合わせると、なんだかお客さんを置いてけぼりにしてしまいそうで。賞レースで勝つってことは、「俺らが一番おもろいんだ」ってことを証明するためにやっているわけだから、お客さんの感情が入り込む余地はない。笑わせたら勝ち、笑わせられなかったら負け。そんな世界がだいぶ長く続いているから、芸人とお客さんの間に大きな空白地帯があるような気がする。

 コロナ禍を機にリモートが定着し、ネット配信が根付いたことで、間接的にその区間は縮んだ。直接反応が届くようになって、流れもなんだか変わった。

 粗品が、日本武道館で「チンチロ」を開催したとき、僕はちょっと感動した。自分のYouTubeチャンネルで人気の高い、ギャンブル4兄弟 (粗品・前田龍二・シモタ・大東翔生)が、ただチンチロをするだけ。

 ただ信じるだけ。舞台に上がる人間の熱量と、4兄弟の仲の良さだけで成立させてしまう。そして、それを目撃する武道館のお客さんが笑って熱狂する。粗品のライブは、本人が意識しているかどうかは分からないけど、「面白い」「面白くない」だけじゃない、形容しがたい人間の感情がだだ漏れて、ほとばしっている。お客さん一人ひとりに刺さる、何かしらの感情。やっぱり粗品は天才で、先頭を走っているって脱帽する。

 お笑いは、一方通行なんだと思う。面白い人たちがネタをやったとき、お客さんがそのネタに自分の思い出を重ね合わせることは難しい。回転寿司のような便利さと大衆性を備えているから愛されているけど、“キミ”や“アナタ”だけに向けた特別感って、もっとあってもいいんじゃないのって。

 いや――、そんなことを考えず、やっぱり「面白い」か「面白くない」だけの世界を駆け抜けた方がいいのかもしれない。だけど、これからはもっとお笑いの世界にも、“キミ”や“アナタ”の感覚が求められるような気がする。

ぽかぽかなアジフライ弁当を待つ間、スキマスイッチさんを心底うらやましいと思った昼下がり〈徳井健太の菩薩目線第199回〉

2024.03.10 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第199回目は、ネタの作り方について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 お笑い芸人のネタの作り方はさまざまだよね、なんてことをあらためて思った今日この頃。

 我が家の近くには、お弁当屋さんがある。とても美味しいのだけれど、揚げ物などは注文してから調理をするので、アジフライ弁当なんかを頼んだ日には、15分ぐらい店先で待たなければいけない。ある意味、至福の時間。

 たまたまその日は、店内のテレビで『ぽかぽか』(フジテレビ系)が流れていて、アジフライがふっくらと揚がるまでの時間、僕はなんとなく番組を眺めていた。

 ゲストとして登場したのはスキマスイッチのお二人だった。楽曲の作り方などについてトークをしていて、なんでもスキマスイッチさんは二人で曲を作ると話していた。お笑いでも、二人でネタを作ることがある。片方が大まかな設定を考え、それを二人であーでもないこーでもないと言いながら作り上げていく。二人で作ること自体は珍しくないだろうから、特に驚きはないかもしれない。

 ところが、スキマスイッチさんは昔も今もずっと、今から手掛ける曲のテンポはどれくらいにしよう……などなど、相談しながら進め、歌詞も分担作業で作るという。正真正銘、二人でゼロから作っていくとテレビの中で明かしていた。お互いのアイデアがぶつかって、ともに譲れなくなったときはどちらも取り下げ、また新しいアイディアを考えるそうだ。

 パチパチとアジフライが揚がる音を聞きながら、僕は呆気にとられていた。

 音楽とお笑いを一緒くたに考えることはできないけど、お笑いではありえないような作り方をしているなって。めちゃくちゃ面白いことを思いついたけど、相方がそれを面白いと思わないのであれば、それを取り下げてまで新しいことを考える――これって、ものすごく信頼関係が成り立っていなければできないこと。

 自分は、その思い付きを面白いと思っている。だけど、自分が信用している相方が面白くないと思うのであれば、きっと再考する余地があるのだろうと割り切れる。スキマスイッチさん、あなた方はなんてうらやましいコンビなんでしょうか。

 僕たち平成ノブシコブシは、吉村が考えたアイデアを二人で一緒に練っていくという作り方をしていた。今となっては、僕らのネタを見たことがあるという人は絶滅危惧種だと思うけど、僕らもネタをしていたときがあったのだ。

 ネタを作るとき、僕と吉村の感性はまったく違うから、最 終的に揉めて、第三者に決めてもらうことがほとんどだった。第三者に決めてもらっているのに、僕も吉村も心の中では納得していないままそのネタをやっていたから、スキマだらけ。僕らのネタは、なんちゃって合議制のもとで作られていたけど、裏を返せば、そうでもしないと着地することができなかったってこと。

 想像している以上に、ネタは作り続けられない。衝突すれば、その分コンビに不協和音が増える。ネタ作りはリスクが大きい。そんな苦痛を伴うことを、ずっと続けることができるのは、ネタを作る才能があることに加え、相方を信頼しているからに他ならない。

 芸人のネタの作り方って、本当に多種多様だと思う。

 たとえば、同期のピースは、又吉くんも綾部もどちらもネタを作る能力に長けている。言わば、シンガーソングライター同士がコンビを結成したようなものだけど、ピースのネタの多くは、又吉くんがネタの骨格を考え、綾部が演技指導を施すといった役割分担があった。

 ジェラードンは、まず面白い設定だけを考え、その後はフリー演技で作り上げていくと話していた。彼らのYouTubeなんて、まさにその真骨頂が表れている。

 M-1を獲ったときのブラックマヨネーズさんのネタは、ラジオよろしく、実際に二人が掛け合いをする体で、一緒にネタを作り上げていったという。

 天竺鼠は、川原にアイデアが降りてこない限り、ネタが完成することはないと言っていた。単独ライブの直前になっても降ってこなければ作れない、中世の作曲家みたいな作り方。瀬下のセリフが極端に少ないのは、直前まで何も決まらないことも珍しくないからだそうだ。

「お待たせしました。アジフライ弁当になります」

 お目当ての一品を受け取ると、僕は帰路についた。いろいろな作り方がある。作られている最中は、なんだかんだで待ち遠しくて、至福の時間なのかもしれない。

ソラシド本坊さん、山形からの魂の叫び。大丈夫です、絶対に売れます。〈徳井健太の菩薩目線 第196回〉

2024.02.10 Vol.Web Original

 

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第196回目は、ソラシド・本坊元児について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 ギラギラしている芸人は、いつだってカッコいい。ソラシドの本坊元児さんは、まぶしいくらいにギラついていた。

 2月4日に、BSよしもとで『47住みますサミット』が放送された。僕も出演していた『ワシんとこ・ポスト』が終わると、『小倉淳の47フォーカス』が新しく始まった。この番組は、47都道府県の住みます芸人の活動を通して地方創生をみんなで考えるというもの。今回、そのスペシャル版として、僕も参加した。

 テーマは、「耕作放棄地を活用」する――。ZOOMを介して登場したのが、和歌山県住みます芸人・わんだーらんど、愛媛県住みます芸人・伊予ノ家うっつん、そして山形県住みます芸人のソラシド本坊さんだった。

 後継者不足などで、全国に点在する農地は耕作放棄地へと変わり果ててしまう。たとえば、美味しいみかんを育てるためには、植樹から収穫までおよそ5年の月日がかかるという。

 農家の方が亡くなってしまえば、みかんの木は残っているのに、誰も育てることはできなくなる。しばらくすると、誰も望んでいないだろう耕作放棄地が誕生する。その農地で誰かがみかんを作りたいと思っても、またゼロから始めなければいけない。もしかしたら移住者が、みかん作りに興味を持ってくれる可能性だってある。だけど、5年は長すぎる。それを回避するために、人がいなくなったとしても農地を現状維持させ、 誰かが育てられるような環境を守っておかなければいけない。

 わんだーらんどは、そのために奔走していると話していた。ゼロから何かを生み出すには途方もない時間がかかるだろうけど、何かをゼロに壊すのは一瞬の出来事だ。

 伊予ノ家うっつんは、村上ショージ師匠とともに、ショージ師匠の故郷である瀬戸内海・大島の耕作放棄地でレモン栽培に取り組んでいるという。ショージ師匠と仲が良かったことが契機となり、「住みます芸人になった」になったそうだ。ずっと愛媛で暮らしていたら、ある日突然、住みます芸人にジョブチェンジ。

 人生はいろいろだ。

 ソラシドの本坊さんは、芸人としてバリバリの経歴を持つ、大阪NSC20期生。同期は麒麟さん。とりわけ、川島(明)さんとの付き合いは長く、互いに才能を認める仲だ。

 本坊さんは、山形県西川町で空き家と農地を100円で引き継ぎ、独学で農業を学び、育てた野菜を販売している。

「年に700本の大根が収穫できても、1本100円にしかならない。何か月も美味しい野菜を作るためにがんばっているのに、7万円にしかならない!」

 ふざけるな――。そうキレていた。面白おかしく話しているけど、その実情はあまりにリアルで、僕たちが「そりゃ後継者不足になるよな」と納得する叫びだった。

 住みます芸人として活動をしていくと、その地域の農家の方々や自治体の人たちの顔が見えてしまって、なかなか実情をさらけ出すことは難しいと思う。だけど、本坊さんは違った。ギラついて、魂から叫んでいた。

 本坊さんは、芸人に対して恥ずかしい気持ちがあると話していた。自分は住みます芸人になるつもりなんてなかった。都落ちだと思われたくない。だから、いずれ中央に戻るために、自分の武器の一つとして農業と向き合う……エピソードを作るために山形へ来たと、はっきりと口にしていた。 

 こう聞くと、もしかしたら「農家を馬鹿にしている」とか「農業を利用している」なんて考える人もいるかもしれない。だけど、本音をきちんと言える人ってどれくらいいるんだろう。本音を言うこと。それは相当な覚悟を持って農業と向き合っているということだと思う。そんな覚悟を持った人が作っている大根は、きっと美味しいだろうし、100円で叩き売られることが心から悔しいのだと思う。

 本音をぶちまけ、自分のギラギラを隠そうとしない。本坊さんのかっこよさに震えた。コメントもキレキレで、農業の何が問題なのか、ものすごく伝わってきた。

 おそらく、住みます芸人の中には、その地域でそれなりのお金がもらえて、安定していれば御の字だと割り切っている芸人も少なくないはずだ。かつて抱いた野心を、土の中に埋めてしまった芸人もいる。だけど、本坊さんは十年一剣を磨いて、機会を狙っている。

 本坊さんは、農家の方を尊敬しているし、山形県が大好きだと話していた。だとしても、やっぱり自分は大阪や東京で仕事がしたいんだって誠実に語っていた。そういう人が農業と向き合い、1本100円にしかならないと叫ぶ。叫びがリアルな人に、僕たちは耳を傾ける。住みます芸人には、それぞれにドラマがある。

他人の自慢話なんて聞きたかないだろうけど、『あちこちオードリー』で褒められて、「芸人続けていて良かった」と思った〈徳井健太の菩薩目線 第195回〉

2024.01.30 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第195回目は、「あの悩みどうなった報告会」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 なんだか旧年の話ばかりで申し訳ないです。年末に放送された『あちこちオードリー』の「あの悩みどうなった報告会」をご覧になった皆さま、ありがとうございました。

 僕は、「人から褒められない」ということを、以前、この番組で吐露した。その答え合わせをするために、再び呼ばれたわけだけど、僕の悩みは解決していない。相変わらず、人から褒められることはない。

 そんな中、僕は「ローリエのような存在でありたい」という結論を、自分なりに出した。ローリエはハーブの一種。よくよく調べてみると、クスノキ科ゲッケイジュ属の「月桂樹」の葉を乾燥させたもので、原産地は地中海沿岸。なんでも古代ギリシャの時代から香辛料として利用されていたようで、甘い香りと苦味を有するローリエは、現代まで肉や魚料理の臭み取りや風味づけの調味料として生き続けている。

――なんて、もっともらしく説明したものの、一般家庭でローリエが登場するシーンはほとんどないと思う。でも、プロが料理を作るとき、ローリエはなくてはならない。僕はそれでいいと思った。

 ローリエは食べられることもなく、最後は捨てられる。僕が編集でカットされていたとしても、笑いを生んでいるその人の面白さを引き出していたのが、僕だったら素敵じゃないですか。未編集の素材を見ると、僕が振っていて、その先に笑いが生まれている……そんなローリエのような存在であることに、自信を持ちたいと話した。

 すると、佐久間(宣行)さんがカンペで、『徳井君は3日前にキャスティングすることが決まった』と教えてくれた。

 よくよく考えれば、「人から褒められない」という僕の悩みのアフターは、話題として“弱い”。例えば、この日出演したZAZYは、「ZAZY」と「赤井(本名)」、二つの人格で揺れるといった悩みを抱えている。どう考えても、ZAZYの悩みの“その後”の方が番組として盛り上がるし、広がる。一方、僕の悩みはというと、悩みそのものも弱ければ、中途半端な解決しかしていない。どう料理していいか難しい。ほんと、ローリエみたいな悩みだったと思う。

 佐久間さんは、(田村)亮さん、松丸(亮吾)君、 ZAZYの3人だけだと、悩みが暗くなりすぎる可能性があるから、ここに誰か一人を加えようと思ったそうだ。会議の結果、僕の名前があがり、キャスティングされたという。なんだかとてもうれしかった。

「徳井君が『しくじり』とかに来てくれると、横に広がるんだよね」

 その話を聞いていた、オードリーの若林君が合いの手を入れる。「人に褒められない」という体で参加しているのに、こんなに褒められたら僕だけ矛盾しちゃうんじゃないか。気が気じゃないけど、それ以上にうれしかったのは言うまでもない。僕の悩みは、もう解決していたのだ。

 収録が終わって、喫煙ブースで一服していると、偶然、佐久間さんがやってきた。「褒めてもらってありがとうございます」と伝えると、「本当のことだからね」と言われた。ローリエでい続けたいと、気持ちをあらたにした。

 そう声を掛けられたのは、僕が喫煙ブースで一服していたから。実はここ1~2年ほど、うちの奥さんからの助言もあって、収録後、すぐに帰宅するのではなく、喫煙ブースで一息ついてから帰るようにしている。

 昔から僕は、仕事が終わるとすぐに帰っていた。若手の頃、居座る先輩とどう接していいか分からなければ、スタッフの皆さんと一緒になっても、何を話せばいいか分からなかった。だから、そそくさと逃げるように帰ることが、一番ノーダメージの帰路の着き方だと習慣になっていた。

 居座れば居座るほど気まずい空間になりそうで、それがなんだか申し訳ないから、消えるように帰っていた。「あいつは可愛げがない奴だな」と思われても仕方のない行動だったと思う。

 でも、奥さんから「それはもったいないよ」と進言され、少し前からワンクッションを置いてから帰るように変えた。

 一服するようになってから、いろんな人たちとほんの数分、話をするだけで、些細な会話の中に喜怒哀楽があることを知った。僕が歳を重ねたことで、場の雰囲気の受け取り方に変化が生じたことも大きいんだろうなと思う。若い頃は何も話さない場は耐えられなかったけど、今は何も話さなくても耐えられる。みんないろんな事情があるから、他愛のない一言でさえ、意味のある一言だと感じられるようになった。

 生活や仕事のどこかで、どうかワンクッションを作ってみてください。思いがけない一言やひらめきに出会えると思います。そういう中で、僕はローリエになろうと思ったのだから。

 

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