長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その十)

2015.10.12 Vol.

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その九)

2015.09.14 Vol.650
 我が国の歴史から安全保障を考える本シリーズも、いよいよ結論に近づいてきました。今回は、結論を急ぐ前に、8月14日に出された戦後70年の内閣総理大臣談話について、考えてみたいと思います。  率直に言って、この総理大臣談話は歴史的な文書となることでしょう。戦後50年の「村山談話」、60年の「小泉談話」、慰安婦に関する「河野談話」、日韓併合百年にあたっての「菅談話」など、これまでのいかなる歴史談話よりも具体的かつ詳細に反省すべき内容、感謝すべき対象(国および国民)を歴史的事実も踏まえ明記しました。そして、その反省に基づいて未来志向の決意を内外に鮮明にしたのです。その上で、歴代政権が示して来た歴史認識が今後も揺るぎないことを再確認しました。  中でも特徴的なのは、次の三点です。第一に、「国際秩序の挑戦者」という耳慣れないが国際関係論では重要な文言を使って、満州事変以降「進むべき進路を誤り、戦争への道を突き進んで」行った過去への反省とともに、暗に中国に対する牽制を行っている点です。第二に、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言い切って、これまで繰り返されてきた「謝罪外交」に終止符を打った点です。第三に、全体として英文調だということもじつに印象的でした。特に、後半部4段落連続で「・・・過去を、この胸に刻み続けます」(We will engrave in our heart the past)のくだりは、あたかも英文が先にあったような感覚に陥ります。いずれにせよ、世界に向けて発信することを念頭に置いて作成されたもので、極めて効果的といえます。  そのような中でなお不満が残ったのは、大正から昭和にかけての我が国が「国際秩序の挑戦者」になってしまった原因を世界恐慌後のブロック経済化に求めている書きぶりです。まるで外的要因にその非を転嫁しているように読めてしまい、醜い権力闘争に陥った昭和初期の二大政党制の未熟さ、止めどなき世論の激情とそれを煽ったマスメディア、凄惨な軍部の下克上など、我が国に内在する要因への真摯な省察が足りないように感じられました。  かくなる上で大事なことは、この談話に込められた反省と感謝を今後何世代にもわたって受け継ぎ、言葉ではなく行動で我が国の誠意と精誠を尽くして行くことだと思います。私も日本国民の一人として、国政を預かる政治家として、歴史に対する責任を果たして行きたいものです。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その八)

2015.08.10 Vol.648
 靖国問題を完結させるにあたり、私の解決策を提示したいと思います。まず断っておかねばならないことは、私は「東京裁判史観」には立たないということです。東京裁判は事後法に基づくものであり、罪刑法定主義に反しています。インドのパール判事が喝破したように、これは勝者によって一方的に敗者が裁かれた正当性の疑わしい裁判です。よって、私たちがA級戦犯だとか、B級、C級などという分類に振り回される必要はありません。靖国問題の解決策として「A級戦犯分祀」という議論がなされますが、次はB級、さらにC級へと波及してしまうに違いなく、意味を見出せません。  私は、少なくとも満州事変以降、国策を誤り、国際秩序から大きく脱輪して行った戦争の指導者は、軍人であれ文民であれ、靖国神社にお祀りする理由はないと考えます。私はことさらその指導者たちの失敗を咎めようというのではありません。戦争を指導して兵士を戦地に送った高位高官は基本的に畳の上で亡くなっています。畳の上で亡くなった人々は靖国神社に祀られないのが原則です。「昭和殉難者」の中には、軍人でもない廣田弘毅元首相や松岡洋右元外相ら、本来は靖国に縁もゆかりもない文民までが紛れ込んでしまいました。  ですから、前回紹介したように、厚生省からA級戦犯の祭神名票が靖国にわたった時、当時の筑波藤麿宮司は、「戦争指導者を靖国に祀ることは明治以来の靖国の伝統を壊すことになる」と考え、合祀を見合わせました。同時に、そのまま放置するのも忍びないということで、日本に関わる戦争で命を落とした方々の魂を「怨親平等の精神」に則り敵も味方もおしなべてお祀りしようと「鎮霊社」を建立し、昭和殉難者をそこに祀ったのです。  私は、ここで、国家のために命を捧げた方々をお祀りするという国家的事業を一宗教団体に丸投げしてきたことの異常さについて、改めて問題提起したいと思います。戦後70年を経て、過去幾度か試みられて挫折した靖国の「国有化」を今一度真剣に模索すべき時が来たのではないでしょうか。そもそも宗教法人への国会の介入は憲法上禁じられていますので、現状のままでは、どの方をお祀りするかは靖国神社に委ねるほかなく、その意味では「分祀論」も机上の空論に過ぎません。国有化のプロセスに入って初めてどなたを慰霊対象とすべきかについて国会の慎重な審議に付されることになるのです。その暁には、きっと1975年(昭和50年)以来果たされていない天皇陛下「御親拝」を実現することができると確信しています。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その七)

2015.07.13 Vol.646
 靖国問題の話を続けます。なぜ、心ならずも戦場に斃れた兵士の魂が招かれる静謐な場所に、彼らを送りだした戦争指導者たる「A級戦犯」の魂が合祀され、内外からの喧騒に晒されることになってしまったのでしょうか。これは、靖国の祭神名票を作成する厚生省引揚援護局(終戦後、1954年4月に陸海軍省から第一・第二復員省を経て業務を引き継ぎ。後に援護局に改名)に勤務していた旧帝国軍人による「努力」の結果といえます。彼らは東京裁判について、事後法によって戦勝国が一方的に敗戦国を断罪したもので到底受け入れることはできないと主張。その不当な裁判で闘って獄死または刑死した指導者たちはこぞって「昭和殉難者」としてその名誉を回復すべきとして、遂には靖国合祀の祭神名票にその氏名を記載させることに成功したのです。  そして、1961年、厚生省援護局と靖国神社はA級戦犯を合祀する(が、外部発表は避ける)ことに合意したのです。それでも、実際の合祀判断を委ねられた旧皇族の筑波藤麿宮司は、容易に合祀を認めませんでした。ところが、78年3月、筑波宮司の急逝にともない就任した旧軍人(で陸上自衛官)の松平永芳宮司は、「東京裁判は占領中に行われたものであり、まさしく戦死と同じだ」として、就任わずか半年の10月17日、A級戦犯14柱を秘密裡に合祀しました。私は、ここから靖国神社は本来の性格を変質させてしまったと考えています。  もちろん、この合祀が明らかになった翌79年4月以降も、鈴木善幸首相までは終戦直後の吉田茂首相以来毎年行われてきた靖国参拝は続けられました。しかも、同年12月に大平正芳首相が靖国参拝後に中国を訪問した際も熱烈歓迎を受けており、80年代半ばからにわかに批判を始めた中国や韓国の姿勢はきわめて(国際)政治的な色彩を帯びていることは間違いありません。一方、終戦の年を皮切りに数年おきに8たび靖国神社御親拝を続けられた昭和天皇は、75年11月21日を最後に御親拝を中止されました。これをもって昭和天皇のご心中を推し量ることは困難ですが、2−7年おきに御親拝をなさって来られた経緯に照らすと、(「富田メモ」の真偽に拘わらず)79年4月にA級戦犯合祀が報じられた以降に何らかの異変が生じたと考えるのが自然だと思います。  本来、国のために命を捧げた兵士たちのための静かな招魂の場だったはずの靖国神社が、内外の批判と喧騒の中に放り込まれ、天皇陛下の御親拝をも阻んでしまったことは余りにも残念なことです。次回は、保守政治家としての私なりの解決策について明らかにしたいと思います。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(番外編)

2014.11.24 Vol.631
 総選挙の最大の争点は、アベノミクスの是非だといわれていますが、本コラムでは、番外編として、第二次安倍政権の約2年における外交・安全保障政策について徹底検証を試みたいと思います。 「積極的平和主義」を標榜する安倍首相は、自らの外交をしばしば「地球儀を俯瞰する外交」という言葉で表しています。その言葉通り、就任以来2年間で世界50カ国を歴訪、のべ150回を超す首脳会談を行い、まさに精力的な首脳外交を展開してきました。その眼目は“台頭する中国といかに向き合うか?”にあったことは言うまでもありません。  そのために、中国を取り囲むようにして、日本を中心に北から時計回りに露、米、豪、印といった国々との連携を最重視しました。私は、この四角形を「戦略的ダイヤモンド」と呼びました。もはや準同盟ともいうべき豪州や、対中警戒感を隠さない親日家モディ首相率いるインドとの連携強化に加え、ロシアのプーチン大統領と7回もの首脳会談を重ねてきたのもそのためです。ウクライナ問題をめぐり欧米との溝を深めるロシアですが、中国の影響力拡大が著しい極東における日ロ、日米の利害は完全に一致しています。対ロ外交で独自路線を貫く安倍首相には、エドワード・ルトワックやジョン・ハムレら米国の著名な戦略家も支持を表明しています。  それでも、全てが上手くいっているわけではありません。しかも、この解散総選挙によって、これまで積み上げてきた外交戦略に致命的な空白が生じてしまうことを厳しく指摘しなければなりません。まず、北朝鮮による拉致問題。家族会の皆さんはじめ多くの国民が期待していた日朝交渉の成果はゼロ。どころか、我が国最大の交渉カードだった朝鮮総連本部ビルも手放してしまいました。また、我が国の安全保障の要である米国との防衛協力のための指針(ガイドライン)改定作業も総選挙によって来春まで先送りとなる情勢です。さらに、中国との関係は複雑です。世界が注目した北京APECの場で安倍首相は「前提条件なし」との前言を翻し、日中首脳会談の条件整備として玉虫色の4項目合意文書を交わしました。早期解散を意識した行動と推察されますが、「日本側からの要請に基づき会談に応じた」「初めて尖閣諸島をめぐる日中間の見解の相違を文書化した」などという中国側の宣伝を許してしまいました。  いずれにせよ、総選挙を行う以上、経済や景気をめぐる論争に加え、外交や安全保障の政策論議も堂々と行って参ります。 (前衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その三)

2014.10.12 Vol.628
 前回は、世界史の中でも地政学的に見て日本が稀有の存在であること、そして、その日本が強大な隣国である大陸中国とは「和して同ぜず」を1500年貫いて、独立と対等の地位を堅持してきたことを明らかにしました。しかし、近代日本は古来の基本的な地政戦略を逸脱し、結果、歴史的大敗北を喫してしまいました。  その失敗の本質は、「大陸不関与」戦略の放棄にあります。それでも、明治の元勲が指導した初期の時代に戦った日清、日露の両戦役は、文字通り「自存自衛」のための已むにやまれぬものといえ、戦争遂行にあたっても国際法を徹底的に遵守するなど近代国家の矜持を示していました。松本健一『日本の失敗』は、昭和の戦争と明治の戦争との決定的な違いを、それぞれの「開戦の詔勅」を紐解いて浮き彫りにしています。明治天皇が渙発された日清、日露の開戦の詔勅には、「国際法」や「国際条規」という文言が明記されていました(ちなみに、大東亜戦争の開戦の詔勅には、「国際法」という文言も観点も見当たりません)。また、日清、日露の戦間期に勃発した北清事変(1900年)に出兵した日本軍の統率、規律、品格に世界の列強が驚嘆したのは、つとに有名です。  しかし、往々にして絶頂は転落の始まりとなることを古今の歴史は示しています。日清戦争後、独仏露による露骨な三国干渉を挙国一致の臥薪嘗胆で乗り越え、日露戦争でも10万人を超える犠牲を出しながら辛勝を掴んだあたりから、朝野を挙げて驕り高ぶり、成金がはびこり、人心は頽廃して行った・・・。明治、大正、昭和の激動を外交官・政治家として駆け抜けた重光葵は、著書『昭和の動乱』の中でそう記しています。また、朝河貫一イェール大学教授は、日露戦争のただ中に在って全米を講演し、ロシアに挑む日本の戦いがあくまでも中国の領土保全・機会均等を目的にした国際正義の戦争であることを説き、セオドア・ルーズヴェルト米大統領をはじめとする欧米の対日支援を獲得することに成功します。しかし、その朝河は、日露戦争からわずか4年で痛烈な日本批判の書『日本の禍機』を上梓します。国際正義を掲げてロシアを破った日本が、その後、中国東北部の占領地に居座り、ロシアに代わって中国を圧迫し続けているのは何事かと。朝河には日本が亡国への重大な一歩を踏み出そうとしているように映り、深刻なる焦燥感に駆られ、祖国日本に対する諫言の筆を執ったのです。  実際、近代日本は、国際連盟の常任理事国入り(1920年)を果たし得意の絶頂に上りつめた瞬間から坂道を転がり落ちて行きました。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
国家と安全保障を考える(その一)

2014.07.21 Vol.622
 外政を担いたいと思い政治の道を歩み始めたのは世紀の変わり目、2000年秋のことでした。初陣に敗れ、3年間の浪人生活を経て2003年11月に初当選。以来、野党議員として約6年間、外務委員会や安全保障委員会等に所属して政府に対する質疑追及に明け暮れました。追及といっても、常に念頭に置いていたのは、「外交・安全保障に与党も野党もない、あるのは国益のみ」との信念でした。ですから、70回を超える質疑で、政府の揚げ足取りや批判のための批判は一度もなかったと自負しております。逆に、台湾問題や海賊対処などでは、政府の足らざるを指摘し、具体的提案を行うなど建設的質疑を心掛けました。  その結果、2009年夏の政権交代後、鳩山・菅政権で防衛大臣政務官、野田政権では外交・安全保障担当の総理補佐官、防衛副大臣を経験することができ、外政を志した私としてはまさしく本懐を遂げることができました。とくに、野田政権で務めた総理補佐官の一年では、首脳会談に30回以上同席し、「国家とは何か」を常に考える日々でした。 「首脳会談や国際会議に赴くときは、命を懸けて戦地に赴いた出征兵士の心境で臨んだ」・・・これは尊敬する中曽根康弘元総理の言葉ですが、この言葉の重みを噛み締めることができました。まさに、首脳会談とは、国家の命運を背負ったリーダー同士の真剣勝負の場。補佐官レベルの私でさえも「国家とは何か」「国益とは何か」「国家戦略とは何か」を365日、常に考えさせられる日々でした。  国家について考えれば、自ずと国家の歴史に思いを馳せざるをえません。  日本史を紐解くと、日本はほんとうに特別な国だとつくづく思わされます。  地政学的に見ると、日本は、西正面に大陸が迫り、背後には太平洋という大海原が続いており、しかも、大陸の圧倒的なパワーを朝鮮半島や東シナ海を通じてダイレクトに受け止める島国です。普通、このような国は大陸の影響を大きく受け同化するものです。アフリカの東岸に浮かぶマダガスカルや、インド大陸の南のスリランカ(セイロン島)などは大陸に付属しているような位置づけですし、七つの海を支配した大英帝国ですら、欧州大陸からの巨大な圧力と葛藤を繰り返してきました。  しかし、日本は、歴史上、中国から様々な影響は受けつつも、一貫して国家や文化の独立を維持して今日に至っています。むしろ、古来、中国とは毅然として対等を貫き、何世紀にもわたりライバル関係を保ってきたといえます。世界史の中でも日本が稀な存在である所以です。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
集団的自衛権を考える (その七・補論3)

2014.06.23 Vol.620
 与党協議も大詰めを迎え、集団的自衛権をめぐる閣議決定の日が迫っています。これまで本コラムで繰り返し述べてきたように、私としては、政府の考えている「限定的な集団的自衛権の行使容認」を支持する立場です。  残された問題は、第一に今回行おうとする憲法解釈の変更がこれまでのものと論理的整合性があるのかどうか、第二に今回の解釈変更で自衛権行使の態様がこれまでとどう変わるのか(換言すれば、拡大する自衛権行使の歯止めをどう考えるか)、第三にどのように国民の理解を得るか(付言すれば、国民の理解を得るためにはどのような政治手法が望ましいのか)、ということだと思います。  第一については、約40年間にわたり維持されてきた昭和47年の自衛権に関する政府解釈に基づき「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される恐れのある場合に限り、我が国に対する直接の武力攻撃が発生していなくても、我が国と密接な関係にある国に対する武力攻撃を排除し国民の権利を守るため、必要最小限度の範囲内で武力を行使することは許される」と変更することは、論理的整合性があると考えています。  第二の歯止めについては、「限定的な集団的自衛権行使」の限界をどのように画するべきかという問題です。私は、自衛権行使の範囲を限定すべきだと考えます。すなわち、私たちが超党派議連で提案した「安全保障基本法案」に明記したように、「(個別的であれ集団的であれ)武力(自衛権)の行使は、外国の領土、領海及び領空においては、当該外国(我が国に対する武力攻撃を行っている外国は除く)の同意があった場合を除き、してはならない」とするのが現実的だと考えます。  第三に、国民の理解を得るための手法については、いまの安倍政権のアプローチは感心できません。自らの私的懇談会に報告書を出させ、与党内で密室協議を重ね、おもむろに閣議決定して、臨時国会に15本にのぼる防衛関連法制の改正案を一気に提出し、最後は多数決で押し切るという手法が広く国民の理解を得るのは難しいのではないでしょうか。短い臨時国会に15本もの法律案を出してきて五月雨式に議論しても、国民から見て何が問題の焦点なのか理解するのは困難だと思います。  したがって、私たちが提案しているように、安全保障基本法案によって自衛権行使の「歯止め」を明記して、立法府としての新たな憲法解釈を定める同法案の国会審議を通じて国民に理解を求める手法を採るべきです。 (衆議院議員 長島昭久)

長島昭久のリアリズム
集団的自衛権を考える (その六・補論その2)

2014.05.23 Vol.618
 今回は、前回に引き続き「補論」として、最近にわかに喧しくなってきた集団的自衛権をめぐるいくつかの誤った議論について、正しておきたいと思います。  まず、今回安倍政権が目指している政府解釈の変更は、「解釈改憲」ではありません。憲法に改正手続きが明記(第96条)されている以上、政府といえども勝手に解釈で憲法を改廃することはできません。ただし、全体で103か条しかない憲法は、他の法律に比しておのずと解釈の幅が広くならざるを得ません。したがって、その許される幅の中で(言い換えれば、憲法の規範性を損なわない範囲内で)政府は憲法を解釈することが可能です。  実際、歴代政府の憲法解釈は、国際情勢の変化や軍事技術の進歩によって、時代と共に変遷して来ました。例えば、終戦直後の吉田茂内閣は自衛のための武力行使すら否定していましたが、その後、政府解釈は変更され、実力組織としての自衛隊は合憲とされました。また、憲法第9条で禁じられている「戦力」の定義も自衛隊発足の前後で変更されました。国連PKO(平和維持活動)への参加の際にも政府解釈は変更されました。  次に、集団的「自衛」権は、我が国の平和と安全と無関係の「他衛」権ではありません。ところが、「集団的自衛権は、つまるところ他国に対する攻撃を排除する、つまり他国を守る権利だから、際限がなくなり戦争に巻き込まれる可能性が高まるから危険極まりない」との議論が聞かれます。しかも、「そんな戦争に派兵されたら堪らないので自衛官を志望する若者が激減し、やがて徴兵制に移行せざるを得なくなる」などと、国民の不安を煽る政治家まで出る始末です。  しかし、第一に、いま議論されている集団的自衛権は、あくまで「日本の安全に重大な影響を及ぼす場合」に限定した「自衛」権です。第二に、領域国の同意なく他国の領域には入らないということも行使の要件として挙げていますから、他国の主権を侵害したり、他国の領域内で武力行使をしたりする可能性はあらかじめ排除されています。第三に、徴兵制は、憲法第18条で「意に反する苦役」として禁じられているので、それこそ憲法改正をしなければ導入は無理ですから、およそ不真面目な議論といわざるを得ません。  要は、そのような行使の「限定」を閣議決定で済まそうとする安倍政権の性急なやり方ではなく、国会において集団的自衛権の行使を限定するための安全保障基本法案の議論をすべきなのです。そのプロセスを通じて国民の理解も深まることになると思います。 (衆議院議員 長島昭久)

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