長島昭久のリアリズム 国家と安全保障を考える(その七)

 靖国問題の話を続けます。なぜ、心ならずも戦場に斃れた兵士の魂が招かれる静謐な場所に、彼らを送りだした戦争指導者たる「A級戦犯」の魂が合祀され、内外からの喧騒に晒されることになってしまったのでしょうか。これは、靖国の祭神名票を作成する厚生省引揚援護局(終戦後、1954年4月に陸海軍省から第一・第二復員省を経て業務を引き継ぎ。後に援護局に改名)に勤務していた旧帝国軍人による「努力」の結果といえます。彼らは東京裁判について、事後法によって戦勝国が一方的に敗戦国を断罪したもので到底受け入れることはできないと主張。その不当な裁判で闘って獄死または刑死した指導者たちはこぞって「昭和殉難者」としてその名誉を回復すべきとして、遂には靖国合祀の祭神名票にその氏名を記載させることに成功したのです。

 そして、1961年、厚生省援護局と靖国神社はA級戦犯を合祀する(が、外部発表は避ける)ことに合意したのです。それでも、実際の合祀判断を委ねられた旧皇族の筑波藤麿宮司は、容易に合祀を認めませんでした。ところが、78年3月、筑波宮司の急逝にともない就任した旧軍人(で陸上自衛官)の松平永芳宮司は、「東京裁判は占領中に行われたものであり、まさしく戦死と同じだ」として、就任わずか半年の10月17日、A級戦犯14柱を秘密裡に合祀しました。私は、ここから靖国神社は本来の性格を変質させてしまったと考えています。

 もちろん、この合祀が明らかになった翌79年4月以降も、鈴木善幸首相までは終戦直後の吉田茂首相以来毎年行われてきた靖国参拝は続けられました。しかも、同年12月に大平正芳首相が靖国参拝後に中国を訪問した際も熱烈歓迎を受けており、80年代半ばからにわかに批判を始めた中国や韓国の姿勢はきわめて(国際)政治的な色彩を帯びていることは間違いありません。一方、終戦の年を皮切りに数年おきに8たび靖国神社御親拝を続けられた昭和天皇は、75年11月21日を最後に御親拝を中止されました。これをもって昭和天皇のご心中を推し量ることは困難ですが、2−7年おきに御親拝をなさって来られた経緯に照らすと、(「富田メモ」の真偽に拘わらず)79年4月にA級戦犯合祀が報じられた以降に何らかの異変が生じたと考えるのが自然だと思います。

 本来、国のために命を捧げた兵士たちのための静かな招魂の場だったはずの靖国神社が、内外の批判と喧騒の中に放り込まれ、天皇陛下の御親拝をも阻んでしまったことは余りにも残念なことです。次回は、保守政治家としての私なりの解決策について明らかにしたいと思います。

(衆議院議員 長島昭久)