【平成昭和物語 半世紀前の渋谷を想う ~神泉・千羽~】ファミリーの街から若者の街、そして一坪2000万円の街へ 変貌し続ける街「渋谷」

店主の酒井健次さんは80歳を越えた今も包丁を握る
 昭和48年にパルコが、昭和53年に東急ハンズが誕生する。昭和50年前後を境に渋谷の街は、次の局面へと進むことになる。「渋谷の街が若者の街へと変貌するのは、第二次ベビーブームによるところが大きかった」とは、健次さんの弁だ。

 日本は、1973年(昭和48年)の出生数約209万人をピークとする、1971年から1974年までの4年間に、立て続けに出生数200万人を越える第二次ベビーブームを迎える。

第二次ベビーブーム世代に合わせる形で変貌を遂げる

「東急の五島昇社長の時代を読む力はすさまじかった。第二次ベビーブーム世代に合わせる形で街を変貌させれば、その後、食いはぐれることはないでしょ!?(笑) 最も人口が多い世代に街のあり方を合致させることで、半世紀は人が集まり、消費も落ちない。センター街がバスケットボールストリートと改名されたときも、僕たちは「なるほど」と思ったくらい。その世代が過ぎ去ったのだから、新しくしないといけないんだからね」

 109の出店を決断し、たまプラーザ駅の命名を行ったのも故・五島昇社長だった。同じく西武グループも渋谷の街に進出することで、渋谷の街は急速に“ベビーブーム世代が若者に成長したときに訪れて楽しい街”としての側面を強めていく。現在、渋谷の街は再開発が行われ、大人の街として生まれ変わろうとしている。少子化に拍車がかかれば若者の街としては機能しない。ボリュームゾーンに合わせる形で、渋谷という街は変貌し続けているのだ、今も昔も。

「第二次ベビーブーム世代が高校生、大学生になったときくらいに、バブルが訪れたの。これを機に渋谷の街は、完全に違う街になったと思う。百軒店のお店も軒並みなくなってしまったわ」(貞子さん)

「商店街がなくなって、コンビニができたり、大きなマンションができたのは、全部バブルのとき。そりゃそうだよ、当時、渋谷の一等地の相場は一坪2000万円、10坪で1億円という天文学的な数字だった。みんなが土地を手放して、どこかの別荘地に行ってしまった。バブルは、本当に恐ろしかったなぁ。同時に、人の欲も」(健次さん)

 映りゆく情景とともに、千羽はずっと神泉仲通りで営業をし続ける。故・松田優作が足繁く通うなど、数々の常連から愛される名店として、渋谷を見続けてきた。だが、健次さんは65歳を過ぎたときに、お店をたたむことを決意する。「ずっとお店をやってきたんだから、そろそろのんびり暮らしてもいいかなって」。ところが、常連一同から「続けるべし」というラブコールが相次ぎ、今の場所で再開することとなる。

「このお店は、常連の一人だったスナックのママさんが見つけてきてもの。路地裏だから、飛び込み客は少ないだろうって(笑)。のんびりできるんだったらやってもいいかなって」と健次さんが笑えば、「でも最近じゃ、若い子たちもよく来てくれるの。入るなり、「昭和~!」とか「おじいちゃんの家に来たみたい!」なんてワイワイしている若い子たちを見ると、こっちまで楽しくなるわね」と貞子さんも相好を崩す。
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