【平成昭和物語 半世紀前の秋葉原を想う ~松波無線~】秋葉原は家電の街ではなくインドアホビーの街 時代時代によって、何度でもよみがえる

 変わりゆく東京の景色。同じ場所で、今昔を見続けた人にしか分からない、その街の移ろいがあるのであれば、訊いてみたい。

「秋葉原と言えば、“家電の街”というイメージがあるかもしれませんが、そうではない。秋葉原は今も昔も“インドアホビーの街”なのです」

 松波無線がラオックスに吸収合併された際、ラオックスの常務取締役を務めた松波道廣さんは、秋葉原を知るエキスパートの一人だ。現在は、NPO法人「秋葉原観光推進協会」理事として秋葉原の未来を見据える松波さんに、秋葉原の変移を伺った――。
1960年代のラジオセンター
「戦後まもなく米軍の放出部品を販売する露店が、神田小川町から神田須田町界隈に自然発生的にでき、繁盛しつつあった。ところが、1949年(昭和24年)にGHQの露店撤廃令により、露店商は翌年、秋葉原のガード下に移り、ラジオセンターとして生まれ変わりました。秋葉原の原点とも言える“真空管ラジオの全盛期が到来する。そして、家電の時代へと移行するのです」

 そう教えてくれたのは、中小企業診断士でありながら、NPO法人「秋葉原観光推進協会」理事を務める松波道廣さん。かつて自身の父が経営していた松波無線がラオックスに吸収合併された際は、ラオックスの常務取締役に就任するなど、秋葉原の今昔を知るエキスパートだ。

 父である松波重久氏が、表通りにあった東映無線のビルを買い取り、松波無線本店をオープンした年は、ちょうど東京オリンピック開催と同じ1964年。その2年前に、秋葉原ラジオ会館電化ビルが誕生するなど、秋葉原はラジオの街から、無線・家電の街へと変貌を遂げる最中にあった。

 日本にカラーテレビが普及した背景には、主に二つのトピックが関係していると言われる。一つは、1959年(昭和34年)4月10日に行われた皇太子明仁親王と正田美智子さまのパレードを含む結婚の儀、そしてもう一つが、1964年の東京オリンピック開催だ。前者は、カラーテレビ導入の呼び水となり、後者は一般家庭へと爆発的に普及させる起爆剤となる。それを機に、高度経済成長期真っただ中である1960年中盤、「カラーテレビ」「クーラー」「カー」の新三種の神器、通称“3C”文化が根付いていくようになる。秋葉原は神器の恩恵を受け続け、繁栄を極めていく。
NPO法人「秋葉原観光推進協会」理事・松波道廣さん
1990年にパソコンの街へと変貌

「しばらく秋葉原は家電の街として栄えますが、1973年(昭和48年)のオイルショックを機に、あらゆる商品が値上げされた。家電もその煽りを受け、家電中心の販売方法が通じなくなりました。その一方、1976年頃からオーディオが売れ始める。音楽をより高品質な音で楽しみたいという 、20代の趣味人や独身貴族が増えていた背景と重なった。一般家庭の消費が渋る反面、独身貴族によってもたらされる消費が急増していったんですね」(松波さん、以下同)

 70年代~80年代と言えば、日本の歌謡曲シーンのみならず、MTVが開局されたことで欧米のヒット曲も身近なものになる。1979年には、ウォークマン1号機「TPS-L2」が登場。さらには、オーディオ・コンポーネントを自分流にバラバラに購入する 「バラコン」と呼ばれる現象が起こり、彼らはオタク的な趣向を凝らすようになる。これが後に、パソコン時代へとつながっていく。

「1990年(平成3年)、ラオックスの『ザ・コンピューター館』をはじめ、続々と大型パソコンショップがオープンしました。価格競争がはじまり、秋葉原に行けばパソコンが安く手に入ると評判になり、パソコンの街へと変貌することになります」

 秋葉原は真空管ラジオ時代から、“部品のみを売るお店”と“組み立てて本体製品として売るお店”の二つの主流が存在していた。その後、オーディオ、パソコンブームが到来した際に、多くのオタク気質を持つ人々から愛されたのは、秋葉原が持つDNAと最先端のモノを売るという両輪があったからこそと言える。
「Windows 2000」発売当日の2000年2月18日には長蛇の列ができた(写真:ロイター/アフロ)
2000年前後は最も秋葉原が危機的状況にあった時期

「秋葉原は家電のイメージが強いですが、歴史を紐解くとむしろ家電時代は異質です。真空管ラジオ、オーディオ、パソコンには“インドアホビー”という共通項があります。秋葉原は家電の街ではなく、インドアホビーの街として変貌していったんですね。そう解釈すると、アニメやメイド喫茶といったポップカルチャーが、なぜ秋葉原と相性が良かったのか合点がいくと思います(笑)」

 秋葉原の歴史は、時代の最先端とのイタチごっこでもある。1999年に「iモード」が登場したことで携帯電話文化が浸透すると、秋葉原のパソコンバブルは終焉を迎える。輪をかけて、郊外には大型家電量販店が誕生していく。次第に、秋葉原に行く理由がなくなり、客足は遠のいていったという。

「私が見てきた中でも、2000年前後は、最も秋葉原が危機的状況にあった時期だった」と、松波さんは当時を振り返る。続けて、「10代、20代の若い世代しかいなく、彼らがいなかったら秋葉原はどうなっていたことか……」と微苦笑する。

 なぜ若い世代だけは秋葉原にいたのか? それは1995年に放送が開始された「新世紀エヴァンゲリオン」に依るところが大きい。エヴァが大ブームになったことで、本格的に秋葉原にポップカルチャーが流入。秋葉原は青息吐息の中で、新たな光を見出す。まさに、新世紀の到来である。

「秋葉原のITバブルが急下降していくときに、ポップカルチャーが右肩上がりで文化を形成していった。ホビー系の事業者がラジオ会館に集結し、現在の原型を作り出していった時期でした。2000年前後の秋葉原は危機的状況にあった一方で、“IT”から“萌え”に変貌を遂げる変革の時代でもあった」
2018年秋、「秋フェス2018秋」開催中の秋葉原
“プロシューマー”であるオタクにとっても魅力的な街であり続けなければいけない

 00年代に沿ったインドアホビーの街として新たな成長期を迎えた秋葉原は、2004年に新潮社から発売された『電車男』が社会的ブームになるや、ますますポップカルチャーの色を強めていく。そして、2005年につくばエクスプレス開通、 2006年にUDXが竣工する。「歓迎していないのに、ヨドバシカメラ(ヨドバシAkiba)も誕生してしまった」と松波さんは笑うが、秋葉原は世界屈指の何でも揃う、かつポップカルチャーの発信地として“爆誕”するにいたる。

 松波さんは、「秋葉原は、消費者のニーズに応える形で、その時代時代に盛り上がりを見せる代表的な街。コトによってモノが動く街でもある」と強調する。

「マグロが泳ぎ続けなければ死んでしまうように、秋葉原も常に新しいものを探し続けなければ、街としての魅力が死んでしまう。同時に、目の肥えたオタクの皆さんを満足させなければいけない。私は、オタクというのは、プロの目を持ったコンシューマーだと理解しています。“プロシューマー”である彼らにとっても魅力的な街であり続けなければいけない」

「ラピュタは滅びんよ、何度でも甦るさ。それが人々の夢だからだ」。真空管ラジオ、アマチュア無線、家電、オーディオ、パソコン、ポップカルチャー……そう、秋葉原は時代を映す鏡として何度でも蘇る。

「秋葉原はケセラセラ商法。 明日は明日の風が吹く。つまり、明日どんな風が吹くのか、常に注視する必要がある。 我々が、あれこれ考えたところで、ニーズ次第で商品を総入れ替えしなければいけないのです(笑)。時代のトレンドであり、常に消費者にとって最も新しいものを提供できる“半歩先の街”でなければいけない。ですから、秋葉原の未来は私たちにも分かりません。この街は、消費者が在り方を決めていく街ですからね」
(取材・文 我妻弘崇)