ジャーナリストの堀潤さんに聞く。防災への意識と災害発生時にメディアのやるべきこととは?【関東大震災から100年】

普段からのつながりの大事さを口にした

平静でいられなくなった時に大きな主語が跋扈する

 今言ったようなことが、防災意識を高めることにおいてのメディアの役割にあたる?
「防止というものは日頃の関係の中でコミュニケーションがあるから機能するんだと思うんです」

 共助といった?
「そうですね。熊本地震の時にそれを実感しました。とある避難所からSOSがあったので、訪ねて行ったら、発災のその日に避難所の中でボランティアグループが立ち上がっていた。皆さん、若者からお年寄りまでゼッケンをつけて、校長や副校長が陣頭指揮を執っていた。“あなたは?”と尋ねると“PTA会長をしています”とか“たまたまこの地域の大学に通っているんですが、ボランティアで参加していた関係があるんで”といった人たちでした。で、先生に聞いたら“この地域はみんなで子供を育てるというのがスローガンで、日頃からそれぞれの立場の人が集まって何かをやるというシステムを作ってきたので、今回、地震が発生した時にいつものグループで避難所を支えていく仕組みが出来上がっているんです”と言っていたんです。だから防災のためにではなく、恐らく普段からつながり合える仕組みを持っておくことが防災にも伝わるし、メディアの文脈においては、今ではフェイクニュースの対策とかそういうことにもどんどんつながっていくと思うんです。発信のスキルやメディアリテラシーを持っている立場の人が増えれば“あれ? この情報ちょっと危ないな”とか“出どころはなんなの?”とか即座に反応できるじゃないですか。だからそういうこともこれからすごく重要なんじゃないですかね」

 メディアリテラシーの話でいうと堀さんは「大きな主語」で語ることの危険さをよくお話されます。現在、会見等で「SNSではこういう意見があるが?」といった質問の仕方をするライターが多いような気がします。
「得体の知れないなにかを作り上げてしまうから大きい主語は怖いんですよね。“みんな言ってる”とか“あの国が言っている”とか。今は認知戦、まさに私たちの感覚に直接侵入してくる認知戦というものが非常に問題になっている。特にロシアとウクライナの戦争においても認知戦が展開されている。いわゆる偽の情報、誤った情報、人々の感情を焚きつけるような映像やさまざまな写真であったりとか、そういうもので煽っていく時に、誰が言っているのかという主語が明確であることはとても大切です。そのためには日頃から“私は”とか自分の主語で語るということを徹底していないと、あっという間に利用されてしまいますよ、あっという間に加害者のほうに回ってしまいますよ、というのは非常に重要だと思います」

 関東大震災の時には根も葉もないデマが流されました。今の話を聞くと大規模な災害が起こった際に、またそういうことが起こらないように、ちゃんとしたことを伝えられる人をちゃんと育てるというのはメディアとしての使命でもあるし、堀さん個人もやっていきたいということでしょうか?
「平時は結構冷静に振る舞える。でも目の前に大きな不安や危機に直面した時に平静でいられなくなる。その時に大きな主語が跋扈するんです。得体の知れない疑心暗鬼にかられて、“○○人はこうなんだ”とか“どこどこの国はそうなんだ”とか。あっという間に本来だったら冷静だった人たちも揺さぶられていってしまうという怖さ、そして一気に染まっていってしまうという危うさを自覚すべきなのかなと思っています。

 先日、映画監督の森達也さんにお話を伺ったんです。森さんが関東大震災の時に起こったことを描いた『福田村事件』という映画を撮影されたんですが、そこで描かれているのが、そうした大きな主語によって“私は”ということをきちんと言えない、その中で本来であれば善良である市民が逆に牙をむく側になってしまうという、そういう恐ろしい構造なんです。だから普段から大きな主語で物事を語らないようにするのが大事かなとは思っています」

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