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他人の自慢話なんて聞きたかないだろうけど、『あちこちオードリー』で褒められて、「芸人続けていて良かった」と思った〈徳井健太の菩薩目線 第195回〉

2024.01.30 Vol.web Oiginal

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第195回目は、「あの悩みどうなった報告会」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 なんだか旧年の話ばかりで申し訳ないです。年末に放送された『あちこちオードリー』の「あの悩みどうなった報告会」をご覧になった皆さま、ありがとうございました。

 僕は、「人から褒められない」ということを、以前、この番組で吐露した。その答え合わせをするために、再び呼ばれたわけだけど、僕の悩みは解決していない。相変わらず、人から褒められることはない。

 そんな中、僕は「ローリエのような存在でありたい」という結論を、自分なりに出した。ローリエはハーブの一種。よくよく調べてみると、クスノキ科ゲッケイジュ属の「月桂樹」の葉を乾燥させたもので、原産地は地中海沿岸。なんでも古代ギリシャの時代から香辛料として利用されていたようで、甘い香りと苦味を有するローリエは、現代まで肉や魚料理の臭み取りや風味づけの調味料として生き続けている。

――なんて、もっともらしく説明したものの、一般家庭でローリエが登場するシーンはほとんどないと思う。でも、プロが料理を作るとき、ローリエはなくてはならない。僕はそれでいいと思った。

 ローリエは食べられることもなく、最後は捨てられる。僕が編集でカットされていたとしても、笑いを生んでいるその人の面白さを引き出していたのが、僕だったら素敵じゃないですか。未編集の素材を見ると、僕が振っていて、その先に笑いが生まれている……そんなローリエのような存在であることに、自信を持ちたいと話した。

 すると、佐久間(宣行)さんがカンペで、『徳井君は3日前にキャスティングすることが決まった』と教えてくれた。

 よくよく考えれば、「人から褒められない」という僕の悩みのアフターは、話題として“弱い”。例えば、この日出演したZAZYは、「ZAZY」と「赤井(本名)」、二つの人格で揺れるといった悩みを抱えている。どう考えても、ZAZYの悩みの“その後”の方が番組として盛り上がるし、広がる。一方、僕の悩みはというと、悩みそのものも弱ければ、中途半端な解決しかしていない。どう料理していいか難しい。ほんと、ローリエみたいな悩みだったと思う。

 佐久間さんは、(田村)亮さん、松丸(亮吾)君、 ZAZYの3人だけだと、悩みが暗くなりすぎる可能性があるから、ここに誰か一人を加えようと思ったそうだ。会議の結果、僕の名前があがり、キャスティングされたという。なんだかとてもうれしかった。

「徳井君が『しくじり』とかに来てくれると、横に広がるんだよね」

 その話を聞いていた、オードリーの若林君が合いの手を入れる。「人に褒められない」という体で参加しているのに、こんなに褒められたら僕だけ矛盾しちゃうんじゃないか。気が気じゃないけど、それ以上にうれしかったのは言うまでもない。僕の悩みは、もう解決していたのだ。

 収録が終わって、喫煙ブースで一服していると、偶然、佐久間さんがやってきた。「褒めてもらってありがとうございます」と伝えると、「本当のことだからね」と言われた。ローリエでい続けたいと、気持ちをあらたにした。

 そう声を掛けられたのは、僕が喫煙ブースで一服していたから。実はここ1~2年ほど、うちの奥さんからの助言もあって、収録後、すぐに帰宅するのではなく、喫煙ブースで一息ついてから帰るようにしている。

 昔から僕は、仕事が終わるとすぐに帰っていた。若手の頃、居座る先輩とどう接していいか分からなければ、スタッフの皆さんと一緒になっても、何を話せばいいか分からなかった。だから、そそくさと逃げるように帰ることが、一番ノーダメージの帰路の着き方だと習慣になっていた。

 居座れば居座るほど気まずい空間になりそうで、それがなんだか申し訳ないから、消えるように帰っていた。「あいつは可愛げがない奴だな」と思われても仕方のない行動だったと思う。

 でも、奥さんから「それはもったいないよ」と進言され、少し前からワンクッションを置いてから帰るように変えた。

 一服するようになってから、いろんな人たちとほんの数分、話をするだけで、些細な会話の中に喜怒哀楽があることを知った。僕が歳を重ねたことで、場の雰囲気の受け取り方に変化が生じたことも大きいんだろうなと思う。若い頃は何も話さない場は耐えられなかったけど、今は何も話さなくても耐えられる。みんないろんな事情があるから、他愛のない一言でさえ、意味のある一言だと感じられるようになった。

 生活や仕事のどこかで、どうかワンクッションを作ってみてください。思いがけない一言やひらめきに出会えると思います。そういう中で、僕はローリエになろうと思ったのだから。

 

「たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけ」――甲本ヒロトの名言は“職場”にも当てはまる!〈徳井健太の菩薩目線 第194回〉

2024.01.20 Vol.Web Original


“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第194回目は、会社の上司と部下の関係性について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 僕たち芸人は、個人事業主だ。会社に所属こそしているけど、部署や上司といった分かりやすい社会的なつながりがあるわけではない。

 40~50代とおぼしき男女4人組が、某たこ焼きチェーン店で飲み会をしていた。12月も終盤だったから、忘年会だったのかもしれない。耳をそばだてるつもりはなかったけれど、テイクアウトで注文したたこ焼きが焼きあがるまでの数分間――、彼らの激論が止まることはなかった。

「20代の若手がさぁ、『会社を辞めたいんです』って上司である俺に言ってきたわけ。『もうちょっと考えてみたらどうだ』。そう俺も説得してみたんだけど、彼の意思は固くてさ。辞めるといって聞かなかったんだ」

 3メートルほど離れた場所で、たこ焼きを待つ僕の耳に届くほどの熱量。たこ焼きに勝るとも劣らないほどの熱さ。いやおうなしに男性が話を続ける。

「ホントはさ、『だったら、やめろよ』って言いたかったよ。だって、やる気がないんだぜ。やる気がない人間が仕事をし続けても、良い結果が得られるとは思えない。だから俺は、『じゃあやめろ』ってはっきり言ってやりたかった。だけど、それを言ったらおしまいじゃん。言いたいけど言えないんだよ」

 うなづくように他の3人は、「どこまでがハラスメントになるのかわからないよね。飲みながら話そうとも言えないしさ。どう接していいか分からない」と、たこ焼きをつつきながらぼやいていた。

「俺たちが若い頃は、嫌な先輩もいたけど、結果的に飲みに行くことで理解が生まれることもあったよな。そういう場が、決して悪い側面だけを持つとも限らないのに。なんでもハラスメントじゃ……さ」

 同じ悩みを抱えた、中間管理職4人組がため息をつく姿は、とても切なかった。話をすればするほど、「この場に若手がいない」という事実は決定的なものとなり、彼ら自身に跳ね返ってくる。きっとこうした現実と向き合う40~50代はたくさんいるんだろう。その一方で、若者たちも「40~50代とどう接していいか分からない」と同世代に愚痴っているのだとしたら、こんなに悲しい断絶はない。

 いま20代の若者は、数十年も経てば40代50代となり、若手を指導する立場になる。そのとき、いったい彼ら彼女らは、どうやって下の世代と交流を持つのだろう。中小企業の多くは、そうした上意下達のバトントスがうまくいかなかった影響で、瓦解してしまうんじゃないかと不安になる。僕たち、個人事業主の芸人だって連帯感がとても大切だ。組織ともなればなおのこと。「どうなっていくんだろう」なんてことを考えながら、焼きあがるたこ焼きをぼーっと眺めていた。

 この話を、当コラムの担当編集A氏に話すと、面白い意見が返ってきた。

「部署というセクションに加え、これからは社内に「趣味」や「感覚」のセクションを設けないといけない時代になるんじゃないかな」

 昨今は、大きな企業が「アウトドア部」や「BBQ部」という具合に、社員同士が垣根をこえて社外活動を共有できる環境を作るケースがある。(そうした活動を強制にしてしまうと、また新たなハラスメントが生まれるだけなので、あくまで「自由参加」「個人の意思を尊重」などの付帯条件があることが望ましいけれど)

 ある程度、その組織にいる人が、どんなキャラクターなのかが分かるように、「見える化」しなければいけない時代が到来するのかもしれない。やりすぎだと言われても、「何を考えているか分からない」「どう接していいか分からない」状況よりかはマシだろう。

 がんばったところで報われるとは限らない時代。上司と部下という関係性だけで、無条件に同じ方向を向くサラリーマン的世界は崩壊しているのだから、違う形で連帯感を作れるような場を、会社は用意しないといけない。何もしないで、若い人に「身を捧げろ」というのは酷すぎるんだろう。

 振り返れば、僕たち芸人も、共通の趣味をもった者同士が仲良くなる傾向にある。ギャンブルが好きな芸人とはおのずと仲良くなったし、酒が好きな芸人なら話が弾んだ。異性からモテることを第一に考えるタイプは、似たようなタイプと一緒に遊んでいたし、ネタを考えることや大喜利が大好きなタイプは、いつもお笑いについて語っていた。学校も同じだ。クラスメイトと仲良くなくても、部活やサークルの人間、今だったらゲーム空間で親しくなった人と肩を組むなんてことが珍しくない。

 生きていく上で共通の趣味や感覚を持つ仲間がいるからこそ、人はモチベーションが生まれてくる。強制的に集められた空間の中で、信頼関係や交友関係を築けというほうが難しいに決まっている。考えようによっては、「景気」さえよければ、無理がひっくり返ったんだから、すごい時代が続いていたんだなと思う。

 たこ焼きを食べながら飲み会を開いていたあの4人は、もしかしたら運が良かっただけなのかもしれない。どっちが表かどうかを知るためには、裏も知らないといけない。だから、お互い、知らない方にダイブしないといけない。もしもまた、4人と遭遇することがあったら、若い世代が混ざっているって願いたい。

インパルス板倉さんのおかげで、おのれを思い出す。偉大な先輩に感謝の回!【徳井健太の菩薩目線 第193回】

2024.01.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第193回目は、インパルス・板倉俊之とのトークライブについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 新年早々、旧年のお話で恐縮です。去る11月2日――、ゲストにインパルス・板倉俊之さんを招いて、「敗北からの芸人論 トークイベント vol.9」を行った。

 実は、このイベント、ゲストに先輩が登場することがほとんどない。板倉さんは、東京NSC 4期生。対して、僕たち平成ノブシコブシは、東京NSC5期生。当時のNSCでは、一つ上の先輩は直属の上司のような関係性だから、「NSC4期生」と聞くだけで、僕は手のひらから汗がにじむ。2期、3期上の先輩よりも、“1期上”にこそもっとも畏怖の念を抱いてしまうのだ。

 東京NSC4期は、「花の4期」と呼ばれるくらい、当時から期待されていた。ロバート、森三中、ジャングルジム……スターが揃う中でも、ひときわカリスマ的な存在感を放っていたのが、板倉さんだった。

 そうした魅力を放つからだろう。この日も、会場にはたくさんのお客さんが詰めかけ、板倉ワールドを期待する雰囲気に、場が支配されていた。

 その空気感を感じ取った僕は、「みんなが求めているだろうことを聞こう」と考えた。例えば、同じく4期のスーパースター、ロバート・秋山竜次さんとの関係性、相方である堤下敦さんの近況などなど。俗にいう、“ここでしか聞けないお笑い裏話”というやつだ。

 板倉さんとは、『ゴッドタン』の企画「腐り芸人セラピー」で、くつわを並べる仲だけど、それ以前はほとんど会話をしたことがないほど接点がなかった。「腐り芸人セラピー」を機に、岩井(ハライチ)を含めて3人で飲みに行くようになったことで、一期上のカリスマと少しだけ自然に話せるようになった(気がする)。

 3人で飲みに行ったはいいものの、僕と岩井が価値観の違いから口論に発展してしまい、板倉さんの仲介で事なきを得たこともあった。フルーツポンチの村上が参加したときは、やっぱり岩井と彼の間で、またもや価値観の違いから口論が生じた。板倉さんが仲介に入る姿は、まるで僕と岩井の再放送を見ているようだった。板倉さんに無駄な負担をかけてしまう飲み会だったため、コロナ禍とともに、この飲み会は自然消滅してしまった。懐かしいなぁ。

 板倉さんは優しい。トークライブでも、「お前が聞きたいんだったら話すよ」と言って、裏話的な話題にも面白おかしく乗っかってくれた。

 僕も楽しかった。でも、始まって30分くらい経つと違和感を感じ始めた。それは、板倉さんに対してではなくて、まるでインタビュアーのように話を聞く、自分に対してだった。

 みんなが求めているものを質問する。大事なことだと思う。一方で、心の底から自分が聞きたいことを聞いているんだろうか? 違和感を覚えるとともに、真摯に向き合ってくれている板倉さんに対して、「失礼なんじゃないか」と感じた。

 僕は、人から話を聞くことが好きだ。その人が話しやすい雰囲気を作り、その結果、ついつい話をしてしまう――そういうトークをすることが好きなはずなのに、なんだか形式ばって質問を繰り返す自分に、「何をやっているんだ」。

 僕は、いま板倉さんに聞いてみたいことをぶつけることにした。キャンプのこと、ハイエースのこと、僕と岩井がもめた死生観のこと。内容なんてまったくないかもしれない。ただ、板倉さんとこうやって面と向かってトークライブをすることは、この先ないかもしれない。

 少しだけ、昔話もした。『はねるのトびら』に出演していたとき、やっぱり板倉さんはコントにこだわり、企画系コーナーに対して乗り気ではなかったと教えてくれた。でも、いま思えば未熟だったとも振り返っていた。

 若い時代は、どうしたって自分の価値観を信じてしまう。ましてや、その信念で結果を出し、切符をつかみ取ったのだから、その信念を妄信してしまうのは自然なことだと思う。周りも、その周りの事情も知ったことじゃない。だけど、ある程度キャリアを重ねていくと、決して自分一人で物事が動いているわけではないと知る。

『楽しく学ぶ!世界動画ニュース』の収録の際、達人・いとうせいこうさんに、「やっぱりそういうことって、若手時代から知っておいた方がいいんですかね?」と聞いてみた。すると、せいこうさんは、「若いときにそんなことは知らなくていいんじゃない? つまんないでしょ、そんな若手」と笑って一蹴した。僕は、膝を打った。

 達観の境地に向かっている板倉さんは、最近はハイエースに乗って自然を見に行くことにハマっているという。なんでも一人で山に登って、自然を満喫するらしい。

 トレッキングをする際、カラフルなウィンドブレーカーを着るのは、「万が一遭難をしたときに見つけられやすいから」だという。山登りをする際に着込むのは正しくなく、「寒暖の差が激しく変化するからこそ、脱げるような(着脱しやすい)ウェアを着ないといけない」とも話していた。「全部意味がある」。そう板倉さんは話していた。

 何てことのない話でも、意味があるかどうかを見つけることができるか否かは、自分が聞きたいことを聞いているかどうか。何かを聞きたいとき、雑念なんか必要ない。聞きたいことを聞く。その姿勢が大事だと、一つ上の偉大な先輩と向き合うことで、あらためて気が付かされた。

ただ淡々とヤングケアラーの経験と経緯を語る、それでどっかの誰かが一人でも楽になれたら本望だ【徳井健太の菩薩目線 第192回】

2023.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第192回目は、講演会について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 石岡市中央公民館で行われたシンポジウム「ヤングケアラーを支える地域社会」で講演をさせていただいた。

 冒頭、教育長があいさつをする。芸人が参加するには、大真面目も大真面目のシンポジウム。場慣れしていない僕は、ものすごく緊張してしまった。

 立派な石岡市の公民館に、定員300名にほど近いたくさんの方が、僕の言葉に耳を傾ける。講演時間は60分ほど。事前に何を話すか決めて、パワーポイントも用意した。だけど、気が付くと30分ほどで話し終えていた。不安になると、人は急ぎ足になる。

 残り30分を質疑応答で乗り切るという、いささか剛腕な講演になってしまったことを、この場を借りてお詫び申し上げます。そして、つたない僕のお話にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

 話してみることで、分かることってたくさんある。

 芸人として話をしていると、何がウケて、何がウケないか――といったことが、場数を踏んでいくことで分かるようになっていく。講演も変わらない。人前で話すことは同じでも、来場している人が何を求めているかで、まったく違ってくる。笑いを求めている人は、笑わせられるように話さないといけないし、ヤングケアラーの実態を知りたい人には、それが伝わるように話さないといけない。

 今回は、パネルディスカッションではなく、僕一人が持ち時間を使って、講演をするという初めての体験だった。「もっとこうすればよかったな」と、反省することばかりだった。

 自分の話を伝えたいと思うと、“自分ファースト”で話をしてしまう。話したいことがあるから、次から次へと話が転がり、ややもすれば早口になってしまう。でも、“相手ファースト”に立つのであれば、聞いている人が僕の話を咀嚼する時間がなければいけないから、間を作る=「待つ」ことが求められる。

 といっても、自分の話をそもそも面白がってくれているのか、関心を示してくれているのか分からない――言わば、不安の最中にいるわけだから、「待つ」ことはものすごく胆力をともなうことだ。その不安を恐れずに、「待つ」覚悟が必要になる。

 人に何かを伝えるとき、多くの人は伝える熱量にとらわれそうだけど、実はまったく逆で、「待つ」ことができるかどうかが、伝わるか伝わらないかの分かれ道になるのではないかと感じた。

 しかも、だ。僕がヤングケアラーの実体験を話すとき、「僕の母親は1日で4リットルの焼酎を飲み干していた」などなど、常軌を逸したエピソードがたくさん登場する。そんな話を速射砲のように打ち続ければ、聞いている方は疲れてしまうに違いない。

「……僕はこういう体験をしたんですね。では、皆さんに質問です。皆さんだったら、このときどういう対応をしますか?」

 ではないけれど、あの手この手で「待つ」テクニックがなければいけない。人前で話すといっても、シチュエーションが違えば、手法も異なる。講演には講演の、プレゼンにはプレゼンの、居酒屋には居酒屋の、“伝える”ロジックがあるのだと思う。

 質疑応答を乗り切れたのは、たくさん質問をしてくれた熱心な方々のおかげだ。近年の調査によれば、学校、クラスにはヤングケアラーの子どもたちが数人いる実態が明らかになっているそうだ。先生たちは、そうと思しき子どもたちに声をかけるべきか否かで悩んでいるという。教育の現場は、どんどんやらなければいけないことが増えているようだった。

 ある先生は、生徒たちとのコミニケーションを円滑にするために、エピソード作りにとても時間を要すると教えてくれた。

 生徒たちと何かを話すとき、「この前の休みに私はこういうところに行ったよ」という具合に、体験談を話さないと生徒たちは耳を傾けてくれないと話していた。

 学校の先生は、ただでさえ忙しい。その中で、エピソード作りに奔走しなければいけないという。つまらない人間だと思われてしまったら、生徒たちからは「つまらない人の話だから聞かなくていい」と思われてしまい、コミュニケーションが滞ってしまうそうだ。

 いろいろなところに出かけて土産話をこさえたり、変なグッズを買って話のタネにする。それをフックに、生徒たちの目と耳を傾けさせる――、芸人顔負けの行動力で、教育の現場に立っていることが伝わってきた。

「徳井さんの本も買いました。実は、芸人さんの本をすごく参考にしているんです。芸人さんはエピソードトークのプロだから、素人なりにその手法を真似して、どうすれば食いつきの良い話ができるかを研究しているんです。やっぱり面白い話って、生徒たちの食いつきが違うんですよ」

 そう先生は笑っていた。僕らの仕事が、そんな風に役立っているなんて夢にも思わなかった。人に何かを伝える。伝えることって、大変なんだ。

「考えるな、感じろ」。それはまさに、前頭葉を使うな、小脳を信じろ――ってことですよね? 中野信子先生!【徳井健太の菩薩目線 第191回】

2023.12.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第191回目は、前頭葉と小脳について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 脳の仕組みは面白い。

 bayfm『シン・ラジオ ヒューマニスタは、かく語りき』で、鈴木おさむさんから脳に関する面白い話を聞いた。おさむさんは、脳科学者の中野信子さんと話をする機会があったそうで、その中で「藤井聡太八冠は、どうしてあれほどまでに強いのか?」という話題に及んだそうだ。

 通常、人間は物事を考えるとき、前頭葉を使う。お酒を飲むと、この前頭葉の働きが鈍るため、理性が働かなくなり、暴走してしまう。人間は、前頭葉が発達していれば発達しているほど、物事をよく考えられると言われる。勝ち筋をロジカルに考え、理詰めが求められる棋士ともなれば、前頭葉が素晴らしく発達しているに違いない。ところが、天才中の天才である藤井聡太八冠に対して、中野さんは「小脳で将棋を指しているではないか?」と個人的見解を示した、とおさむさんは教えてくれた。

 小脳は、運動神経や反射神経を司る脳の部位になるらしい。藤井聡太八冠は、おそらく前頭葉も恐ろしく発達しているだろうけど、ひらめく瞬間や一手を指す瞬間は、ピンときたものに乗っかることができる――、つまり小脳が前頭葉を追い越してしまうのではないか、というのだ。前頭葉で考えたこと(考えに考えて、理詰めで立てた戦略)を、小脳(反射神経)でひっくり返せるから驚異的な強さを誇る。「理屈を超えた何か」。そうとしか表現できな人は稀有だという。

 その話を聞いたとき、お笑いも同じなのではないかと思った。

 理路整然とロジックを積み立て、その場の状況を的確に判断できる芸人は、前頭葉が働いているタイプだ。一方、その場その場の瞬間に合わせて、反射神経で笑いを取る小脳が働いているタイプがいる。うちの相方吉村は、まさに後者だと思う。

 僕は、分析をするのが好きだから、おそらく前頭葉が働いているタイプではないかと思う。トークの収録があれば、事前に何を話すか筋道を立て、戦略を立てる。でも、収録当日の現場の雰囲気を感じ取ると、必ずしも想定通りには行かない。そのため、その場で再びあれこれと考えてしまう。前頭葉が働いている証拠だ。

 ところが、小脳型、運動神経で笑いを生み出すタイプは、積み上げてきた戦略やロジックをときに飛び越え、ときに捨て去って、ピンときたものを選んでしまう。考える前に動いている。

『アメトーーク!』の運動神経悪い芸人のメンバーを見て、ピンときた。

 大喜利が強いメンバーが多いのだ。過去、運動神経悪い芸人として参加した芸人の一例を挙げると、千原ジュニアさん、川島明さん、有野晋哉さん、西田幸治さん……大喜利マスターのような人たちが、運動神経悪い芸人として参加しているのだ。

 もちろん、運動神経の悪い芸人すべてが、「大喜利が強い」とは言い切れないと思う。だとしても、前頭葉と小脳の関係に鑑みれば、何か因果関係があるのではないか――と、僕はいかにも前頭葉を働かせながら考える。なぜなら、吉村にも言えることだけど、逆に運動神経が良い芸人は、「大喜利が苦手」と口にする人が多いからだ。

 僕の個人的見解に過ぎないけれど、運動神経がいい、つまり小脳が前頭葉よりも働いてしまうタイプは、積み上げてきたものを感覚的に飛び越えてしまう芸人ということになる。半面、芸人という職業をしている以上、何か面白いことを言わなきゃいけないと思うし、その場でうまく立ち回らないといけないといった、前頭葉的な脳の働きをせざるを得ない。その最たる例が、大喜利だ。

 もし、運動神経型の芸人だったら、大喜利は必要以上に前頭葉を酷使することになる。本来、小脳にリソースの大半を使うべき人が、中途半端に前頭葉にリソースを割いてしまうため、「大喜利が弱い(大喜利をやらせるとつまらなくなる)」という現象が起きてしまうのではないか?

 かつて、『水曜日のダウンタウン』で、「大喜利苦手芸人、酔った状態の方が面白い説」という説が放送された。アルコールによって前頭葉の働きが鈍った彼らは、たしかに面白かった。とても大喜利が苦手な人には見えなかった。その収録に参加していたのは、春日俊彰、あばれる君、おたけの3人。どっからどう見ても、小脳型の芸人だろう。

 振り返ると、吉村の判断はよく理解できないことが多かった。たとえば、ネタ合わせをしていたとき。僕は、その日のお客さんの雰囲気などを考慮して、あれこれと考え、吉村に伝えていた。間もなく本番。すると、吉村が近寄ってきて、「徳井、やっぱりあっちにしよう」と直前の変更を通達してくることが、幾度となくあった。

 結果的に、それでスベった。

 いまなら、吉村のあの瞬間的な判断に合点がいく。彼は、小脳で選択をするから、ときに大スベリし、ときにスターのように輝く。

 もしも、前頭葉と小脳の使い方を、ある程度コントロールできて、自覚できるのなら、お笑い芸人はもちろんのこと、働いているすべての人にとって、パフォーマンス向上のウルトラCになるんじゃないだろうか。

 前頭葉で勝負できる人は、反射神経的なものが求められるようなシーンの身の振り方を考えなければいけないし、反射神経や運動神経で取捨選択するタイプは、ロジカルな空間における立ち居振舞いを用意しておけばいい。

 また一つ。NSCで教えた方が良いことが見つかりました。

令和の「つまらぬこだわりは身を縮めるだけだった」論【徳井健太の菩薩目線 第190回】

2023.12.10 Vol.Web

 

 奥さんは、シンガーソングライターをしている。若い時代に書いた歌詞が、「恥ずかしい」という。

 なんとなく分かる。僕たち芸人も、若手時代に作ったネタを、今そのままやれと言われたら、顔から火が出ると思う。

 だけど、彼女はあるとき、そんなつまらないこだわりは捨てようと思ったらしい。自分はシンガーだから、歌詞がどうであれ、歌いきることが仕事だとスイッチが切り替わったと教えてくれた。「すごいことを言うなぁ」と思った。

 若い時代は、ダサくて稚拙だ。

『ソウドリ』の「解体新笑」で、くりぃむしちゅーの有田さんと若手時代について話したことがあった。誰よりも自分が面白いと思わせたいし、誰かが笑わせるようなことを言っても簡単には笑わない。俗にいう、“とがり”が視野を狭くする。

 ある日、有田さんのマネージャーさんが、現場でめちゃくちゃ笑いを取るといったことが起きたそうだ。自分たちは、そのマネージャーを特に面白いと思ったことはないのに、現場は大ウケ。その日の自分たちよりも、明らかにマネージャーの方がウケていたと感じたという。

 マネージャーがマネージャーが笑いを取っている光景を見て、「学生時代は、今みたいな自分じゃなかったな」と思い出した。ケツを出したり、くすぐったり、そんな簡単なことでよかったのに、今はどうして難しく考えているんだろう。自分が面白いんじゃなくて、その場が面白ければ芸人じゃないのかって。

 それから、有田さんの意識は変わったそうだ。

「形」なんてないんだと気が付くと、もやが晴れる。それがわかるようになると、その場が面白くなればなんだっていいと気が楽になるし、誰かにパスもできるようになる。

 奥さんも、「形」にこだわることをやめたと話していた。形にこだわると、いろいろな可能性まで消してしまう。

 ミュージシャンは大変だ。僕たち芸人は、若手時代に作ったネタをやるとしても、部分的にアレンジすることができる。「あいつらネタを変えたな」なんて気が付くのは、一握りしかいない。

 でも、ミュージシャンはそういうわけにはいかない。歌詞や曲が記録として残っている。その曲を聞きたいファンからすれば、何かが変わってしまうことは、その人の原体験を否定してしまうことになりかねない。

 昔の曲を、あるタイミングからやりたがらなくなるのも、わかる気がする。歌いたくても歌う気にならなかったり、そのとき作った曲が今の自分と必ずしも重ならなかったり。何かを変えられないなら、押し入れの中にしまった方がいいかもしれない。売れていない頃に書いた曲は、そのまま何十年と残り続ける。そのあと、売れようが売れなかろうが、記憶にも記録にも。ミュージシャンがアーティストと呼ばれるゆえんだ。

 でも、捨てちゃいけない。そのときの感情は、いつかまた理解できる日が来るかもしれないから、昔の感情は大事に取っておいた方がいい。僕らで言えば、昔は純粋な気持ちで笑わせたいって気持ちがあったはずなのに、ある日突然、「面白いことを言いたい」といった鈍い気持ちに変わる。「笑わせたい、楽しませたい」という気持ちに戻ってこられるかどうか。戻ってくる日も、ある日突然。捨てたら、再会できない。

 僕の学生時代は、先生が嫌な顔をするような確信めいたことを言いたくて仕方がなかった。クラスメイトも、そんな自分に期待していた。

 芸人になって、いつからか面白いことを言おうとがんばったけど、それが無理だとわかった。本来自分が持っているもの、好きだったものはなんだろうと考えると、「面白いこと」じゃなくて、「確信めいたこと」をいう自分の姿だった。戻って来ることができた僕は、お笑いの分析をするようになって、今がある。とがっていたんじゃなくて、無理をしていただけだった。

 すべてをひっくるめて、自分の中で納得なのか消化なのか許容なのかわからないけれど、飲み込めたとき、形にこだわらない自分になれるんだと思う。

 

※徳井健太の菩薩目線は、毎月10・20・30日更新です。

死んだ可愛げ、よみがえれ感情 ~感情を表現する言葉をとっさに言える人について~【徳井健太の菩薩目線第189回】

2023.11.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第189回目は、感情の発露について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 感情の発露って何だろう。

 先日、コンビニへ行って、商品を買おうとすると、そこそこ長い行列ができていた。僕の前には、小学校高学年と思しき男の子を連れたお母さんが並んでいた。並んでいる最中、手持ち無沙汰になったんだろう。横にあるアイスが並ぶケースから何かを取ろうとしていた。その拍子、体勢がよろけたお母さんは、ラーメンが陳列している横の棚に軽く体をぶつけてしまった。

「あ~痛ッ~!」

 小さい声ではあったけど、お母さんは自らに何が起きたかを言い聞かせるように、そう声に出しながら体勢をもとに戻した。真後ろからその光景を見ていた僕は、「感情を表現する言葉が、僕はとっさに出てこないんだよな」と思いふけった。

 痛いと感じたとき。「痛い」と口にするか、しないか。僕の場合は、本当に激痛が走りでもしない限りは「痛い」という言葉が出てこない。感情を考えてからでないと、言葉として表に出すことがなかなかできない。

 多くの人は、それが本当に痛いかどうかは別にして、先ほどのお母さんのようにリアクションとして痛いという言葉を口にしたり、照れ隠しの意味を込めて感情を発露させたりすると思う。

 感情を言語化することで、その場の空気が和みやすくなるとは分かっている。

 かわいい赤ちゃんを見れば、「かわいいですね」ととっさに言える方が、場は和む。でも、「かわいいけどかわいいと言わないこともできるよな」などと、本当にどうでもいいワンクッションを入れてしまう自分は、無条件に「かわいいですね」が出てこない。不可解な間が生まれる。

 競馬をしているときもそうだ。そこそこ当たりの馬券を的中させても「やった!」と口に出さないので、買っていたことを気が付かれないことが多い。しばらく経って、話の流れの中で「俺も当てたんだよ」と伝えると、「え? 徳井さん、買ってたんですか? しかも、当ててたんですか!?」と驚かれる。馬券が当たっていても、外れていても同じ表情をしているから、不気味らしい。

 たしかにそうだよなって思う。ギャンブルに負けると、少なからず仕事に影響が出る。特に芸人は、営業であれ、舞台であれ、勝って出るのと負けて出るのとでは、その後のトークも変わってくる。仮に負けたとしても、腕次第で面白くできる。

「だから、仕事の前にギャンブルなんかしちゃダメだって言っただろ!」

 なんてつっこまれれば、笑いが生まれる。そういう意味では、勝っても負けても同じリアクションをしている僕には、そんなマジカルな笑いは生まれない。淡々と時間が流れていくだけだ。

 感情を表現する言葉をとっさに言える人は可愛げのある人だなと、ずっと思っていた。だから僕は、可愛げのない人間なんだなと感じている。

 いつからこんな癖がついてしまったのかと考えると、おそらく僕が小学生の頃に遠因があるような気がしてならない。

 何かに頭をぶつければ、僕も「痛い」と口に出していたに決まっている。だけど、ある日、それをクラスメイトにいじられた記憶がある。「徳井の真似! 「あ、痛ッ!」 ひゃはははは!」。妙な悔しさを覚えて以来、そういうことを言うのをやめようと思った、わずかな記憶がある。

 自分の感情を出すのはやめよう。おりしも、子どもながらに親の面倒を見なければいけない時代でもあったので、極力、自分の感情にフタをすることに違和感を感じなかったこともあると思う。

 うちの母親が亡くなったとき、ちょうど僕は『ピカルの定理』の収録中だった。誰にも何も伝えず、気が付かれないまま収録を終えると、葬儀をするために戻った。 

「あ~痛ッ~!」と言葉にしたお母さんは、恥ずそうにしながら笑っていた。そんなお母さんを見て、子どももケラケラと笑っていた。

 後ろに並んでいた僕は、その光景を見て、ほのぼのとしみじみがないまぜになったうらやましい気持ちになった。感情が揺れるのは尊い。最近は、ようやく僕も、とっさに揺れるようになってきた。

抱っこひもで赤ちゃん、下北沢の居酒屋【徳井健太の菩薩目線第188回】

2023.11.20 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第188回目は、赤ちゃんと行動することについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 赤ちゃんを育てている。一歳の赤ちゃん。

 僕は、ベビーカーに乗せることはほとんどせず、自分の体力が続く限り、抱っこをするようにしている。

 雀荘とパチンコをのぞいて、どこかへ一緒に行くときは抱っこ。買い物をするときも抱っこ。新幹線に乗るときも抱っこだ。ライブへ行くときも抱っこをしながら音楽を聴く。なんだったらビールも飲む。赤ちゃん(子ども)がいるから、何かを制限しようという感覚は無い。もちろん、それが赤ちゃんにとって良くないことであれば、自制するようにはしているけれど。

 先日、うちの奥さんと待ち合わせをする際、合流するまで小1時間ほどかかるというから、赤ちゃんを抱きながらどこかで時間つぶしをしようと考えた。ゲームセンターは良くないよなとか、いろいろと考えた結果、居酒屋で飲みながら待つことを決めた。

 1~2杯も飲めば、奥さんも到着するだろう。目についたお店の扉を開けると、待ち合わせる身としては理想的としか言いようがない、まったくお客さんがいない状況だった。

「この後、奥さんが来るので少し飲ませてもらってもいいですか」。そう断ると、奥の席へ案内された。

 着席してメニューを眺めていると、突然不安に駆られた。

「あれ? 俺って今、めちゃくちゃヤバい奴に思われてないか?」

下北沢の夜10時。おじさん一人が赤ちゃんを抱っこしながらガラガラのお店でビールを飲む――。はたから見れば、何かしら家庭の事情に瑕疵を持つ人に思われるかもしれないし、どうしようもなく酒が好きな中毒者に見えるかもしれない。

 お店に入るとき、「この後、奥さんが合流するんで」とは伝えたものの、それが本当かどうかは分からない。店員さんが僕のことをいぶかしげに思ったとしても反論するだけの証拠は、今のところまったく持ち合わせていない。不安に思えば思うほど、僕の顔はこわばっていき、不審者レベルは上がっていく。

 いま思えば、「この後、奥さんが合流するんで」も少し言い訳がましかったように思う。無意識の自衛本能。子どもの頃、エロ本を買う際に、聞いてもいないのに「兄に頼まれたんです」と言い訳してからお金を払った自衛本能。

 競馬場に赤ちゃんを連れて行ったとしても、こんなに不安に駆られることはない。だけど、赤ちゃんを抱っこしながら一人で居酒屋で酒を飲むことの背徳感は、想像していた以上にビリビリきた。遠くから、「家で飲めよ」という店員さんの視線を感じるのは気のせいかな。

 世の中って不可思議だ。お店で一人で飲んでいる男性が、実は赤ちゃんを奥さん一人に任せて、飲みに来ている可能性だってある。だけど、その男性は「一人で飲みに来た男性客」として切り取られる。僕のように、「抱っこしながら一人で飲みに来た男性客」の方が、世の中的には「?」が付く。世界はいびつで面白い。社会のボタンは、些細なことから掛け違えられていくのかもしれない。

 奥さんの到着が遅れるらしい。ビールを飲み終え、気まずくなった僕は、そそくさと店を後にしようと思った。腰を上げた瞬間、「今出るともっとヤバい奴になるんじゃないか」。僕はぐっと深く、その腰をもとの位置に戻した。正真正銘、一杯だけ飲むためだけに、赤子を連れてまで居酒屋に来たホンモノじゃないか。

 意地でも奥さんを待つしかない。気が付くと3杯ほど飲んでいた。2杯目からは、酒の力で襲い掛かる不安をごまかしていた。たった1つパズルのピースが足りないだけで、人間はとてつもなく不安になるようにできているんだと分かった。それから少し遅れて到着した奥さんの姿を見て、僕は見つからなかったピースをようやく見つけたときのようなうれしさを感じた。

 ホッとした安堵の表情を浮かべたのは、きっと僕だけじゃない。その居酒屋で働いていたスタッフ全員、胸をなでおろしたはず。「あの人は本当に奥さんを待っていたんだ」。最後のピースが見つかると、世界は元の姿に戻るのだ。

パリピ孔明、たまに後悔 春はあけぼの、僕はたわけ者【徳井健太の菩薩目線 第187回】

2023.11.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第187回目は、ドラマ『パリピ孔明』出演について、独自の梵鐘を鳴らす――。

『パリピ孔明』を見てくださった皆さま、ありがとうございました。そして、お邪魔しました。TOジャンプが、あんなに辛いものとは思いませんでした。

 以前、当コラム『汗だらけって、どんな化粧よりもかっこいい。あるドラマ現場で感じた花束みたいな関係性』でお伝えしたことは、このときのことでした。スタッフの皆さん、エキストラの皆さん、演者の皆さん、ありがとうございました。

 花束を渡されて、どう振舞っていいか分からなかった僕は、「いやいや」と毒にも薬にもならないクソ対応をしてしまった。だけど実は、もう一つ懺悔したいことがある。

 僕は、劇中に登場する仮面アイドルユニット「AZALEA(アザリエ)」の熱狂的な古参ファンとして出演した。ドラマを見た方なら分かると思うのですが、僕を取り囲むように、同じくAZALEAファンとして春雄・夏希・秋彦・冬実の4人がいたと思います。彼ら彼女らとはドラマの中で行動をともにすることが多かったため、撮影以外の場所でも話すことが必然的に多かった。

 僕と春雄、夏希、秋彦、冬実たち4人のシーンを撮り終えると、春雄が「徳井さん、もしよかったら一緒に写真撮りませんか?」と声をかけてくれた。灼熱の中、ともに戦い抜いた仲間みたいな演者だ。僕は、気持ちよく一枚の写真におさまった。

 ロケバスに乗り、宿泊ホテルに向かう途中、春雄が「徳井さん、さっきの写真どうします?」と尋ねてきた。

 撮影の合間、春雄はよく話しかけてくれた。彼はお笑いが好きなようで、「M-1の敗者復活戦のときって、どんな気持ちなんですか?」なんて質問してきた。「敗者復活戦に上がったことがない俺に聞くなよ」という言葉が出かけたが、はたから見れば気難しそうに見える僕に、あれこれと興味をもって話しかけてくる春雄を見ると、「渋いことを聞いてくるな」なんて思いながら、勝手に敗者復活戦に上がった設定で話をしていた。

 比較的なついてくれていたその彼が、「写真どうします?」と尋ねてきた。

 きっと春雄は、AirDropで写真を共有しましょうか?といったことを伝えたかったんだろう。でも、僕はそのAirDropとやらがいまいちよく理解できなかった。気が付くと、「うん。大丈夫。いいや」と断っていた。

 彼は、「あひはは!」と甲高く笑った。

 いや、正確に表現するなら、甲高いトーンで笑ってごまかした――と思う。その笑い声が、今でも耳にこびり付いていて、本当に申し訳ない気持ちになる。「断られた」というやり場のないくすぐったい感情を、たぶん、彼なりに暗くならないように表現した結果、受け身の取れていない笑い声となり、こだました。

「徳井さんらしい! ありがとうございます!」

 春雄はそう笑い飛ばしていたけど、僕は笑い飛ばすことができないことを、ずっと後悔している。僕たちAZALEAファンは、解散してしまったのだ。

 あの無理矢理笑ったような声のトーンは、「3日間、いろいろ話しかけたけど、何にも残らなかったのかな」という虚無の響きをともなっていた。ただ単に、写真を共有したかっただけなのかもしれないのに、僕が発してしまった「いいや」は、3日間を全否定するような突き放しと受け取られたのかもしれない。

 いい歳をした大人が、何をしているんだか。「AirDropとかよくわかんないからいいや」という部分指定が、彼には全否定に映ったかもしれない。伝え方を間違えたなって、本当に後悔している。

 今さら伝えたところで、申し訳なくなるだけだけど、ともに撮影に臨んだ春雄、夏希、秋彦、冬実たち。あのときは、写真をどう共有していいか分かなかっただけで、決してこの数日間を否定したつもりはないんです。本当に申し訳ないことをした。いつかまたどこかで会えたら、きちんとAirDropの方法を学習したので、間に合うようなら写真をいただけたらと思っています。写真を撮ってくれてありがとう。

愛と平和と金とエンタメ、その絶妙なバランスを「さよなら ほやマン」から教えてもらった【徳井健太の菩薩目線 第186回】

2023.10.30 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第186回目は、試写会について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 11月3日に公開されるMOROHAのアフロさんが主演を務める『さよなら ほやマン』の試写会へ行ってきた。

 アフロさんとは何度かお会いしたことがあり、「今度ご飯でも行きましょう」なんて話していたのに、口約束になってしまっていた。ごめんなさい。なのに、アフロさんは、「よろしければ試写会に来ませんか」と誘ってくれた。

 宙ぶらりんのような状況で、「~~しましょう(しませんか?)」と声を掛けるって、とても勇気のいることだと思う。おまけに、僕は気難しそうな雰囲気があると思うから、いろいろとアフロさんに気を遣わせてしまったなぁと申し訳ないやら、声をかけられてうれしいやら。

 試写会は、なんだか優しい空間に包まれている。試写会に来る人は、基本的に関係者やメディアにたずさわる人に限られる。これから、この作品に愛を注いで大きくしていこうという人たち、あるいはこの映画にかかわって、ものすごく汗をかいた人たち――。まるで、我が子を見守るように見つめている。愛と平和の約2時間。

 お金を使っている人と時間を使っている人と筋肉を使っている人は、エンターテイメントに優しい。たとえばお笑いのライブ。映画と比べるのも恐縮だけど、お金も時間も使って、そのライブに足を運んで、たくさん笑って、「面白かった」と言ってくれる。もちろん、中にはハズレもあるから、厳しく評すことだってある。お金や時間や筋肉(そこに来るまでの労力)を使っているんだから、「つまらない」と切り捨てたっていい。その感想は提言として、誰かの頭上に降りて来る。

 一方、無料で視聴することができるテレビとなると、なんだか優しさが消えてしまう。「もっと頭を使え」「○○はつまらない」などなど、その感想は上から目線で落ちて来る。

 どうして人は、お金を使わないものに対して厳しくなってしまうんだろう。逆に、どうして人はお金を使ったものに対して優しくなれるんだろう。愛を注いだ分だけ、思慮深さが生まれるのかもしれない。

 ネットニュースもそう。タダで読めるからなのか、やたらとコメントをしたがって、マウントを取りたがる。まるでお金を払って、時間を使って本を読んだかのように、あーだこーだと言いたがる。

 お金も時間も筋肉も使わない人のアドバイスや感想って、優しさがない。裏を返せば、優しさを育むためにはお金や時間や筋肉が必要なんだと思う。想像力は無料じゃないのだ。

 この世界でいろいろと仕事をするようになって、テレビはスポンサーさんがお金を提供してくれないと成り立たない世界だとしみじみ分かる。僕が若手だった頃、そんなことは一切分からなかったし、理解できなかった。お金=ギャランティー。その程度の認識しかないまま、芸人をやり続けていた。お金って直接的なお金と副次的なお金があって、後者の大切さを教えてあげないとダメだよなって、この歳になってようやく分かる。

 まだキャリアが浅い人には、お金の仕組みについて教えてあげた方がいいんじゃないだろうか。お金を出してくれる人がいるから、ライブやテレビに出ることができる。それってスポンサーさんだったり、足しげく通っているファンのおかげだよね。違う業界も、似たような構造があるはずだ。

 どれだけ面白いものを作ったって、それを表現できる場所がなければ、アンダーグラウンドで爆弾を作り続けているのと変わらない……かもしれない。別に、他者に感謝して芸を磨きましょう!みたいなことを偉そうに言いたいわけじゃない。そういう意識があるだけで、自分の選択肢って穏やかになるような気がするんだよね。

「丸くなったほうがいい」なんていう気はさらさらなくて、ふと立ち止まったとき、穏やかに考えることができるという選択肢を持つためにも、自分がいる世界の構造をきちんと理解しておくことはとても大切だと思う。

 お笑いだけを学ぼうとするなら、今はもうYouTubeにたくさん教科書になるような動画が散らばって落ちている。お笑いを教えるってことは、どうしたらウケるかだけじゃなくて、お笑いのシステムやお笑いのバックヤードも教えてあげないといけないんじゃないかな――なんてことを優しい世界を見て感じた。厳しさだけじゃ、もう想像力は育たない。

『音燃え!』で観た黒猫チェルシーさんが、僕はいまだに忘れられない【徳井健太の菩薩目線 第185回】

2023.10.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第185回目は、ライブシーンを盛り上げるにはどうすればいいかについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 北九州のライブハウスへ行くと、『恥骨』というバンド名の3ピースパンクバンドのフライヤーを見つけた。どっからどう見てもハードコア系のバンドで、「どうして恥骨って名前にしたんだろう?」と、ずっと気になってしまった。自分の知らない場所で轟音を鳴らしているバンドって、もっと知られてもいいのに。インタビューなんかできたら、きっと面白いんだろうなと想像した。

 そういえば昔、ジュニアさんがMCをやっていた『音燃え!』という音楽番組があったことを思い出した。日本全国の高校生バンドの中から日本一を決めるというコンセプトのもと、毎回、さまざまな荒削りの高校生バンドが登場していた。

 その中で、高校生とは思えないカリスマ然としたパフォーマンスと華を放つ、一組のバンドを見た。画面越しに映る「黒猫チェルシー」は、あまりに圧倒的な存在感で、まるで売れる気配のない芸人だった僕は、「こういうバンドが売れていくんだろうな。どんな風に売れていくんだろう」なんてワクワクしてしまった。人のことを考える余裕なんてないのに、ワクワクさせてしまう。やっぱり音楽って最高だよなって、テレビを眺めていた。

 数年後、タワーレコードだったかTSUTAYAだったかへ行くと、目立つ場所に「黒猫チェルシー」と掲げられたポスターとアルバムが並んでいた。「あれ? なんか見覚えあるな……あ! あの番組で見た彼らか!」。着実に売れるための階段を上っている彼らを見て、まるで遠い親戚のおじさんのように、「がんばってね」なんてつぶやいてしまった。

 お笑いもそうだけど、音楽も売れるまでのプロセスを共有することができる世界だ。でも、お笑いに比べると、なんだか音楽の世界は、その背中がずいぶん見えづらくなってしまったように感じる。

 子どもの頃や青春時代って、ライブハウスシーンで有名だったバンドやアーティストが深夜番組で取り上げられて、次第にメディアを介して羽ばたいていく――そんな姿をよく目撃していた気がする。ネクストブレイクの期待のアーティストを知る接点がそれなりにあって、『イカ天』や『えびす温泉』のようなオーディション番組も少なくなった。

 お笑いも『GAHAHA王国』のような勝ち抜き番組があって、若手が羽ばたいていくムーブがあった。音楽とお笑いはどこか似ていて、期待の新人を発見できる、そんな場があったから、僕もミュージシャンを目指すか、お笑い芸人を目指すかで迷っていたのかもしれない。

 でも、いつからか音楽の世界から、そうした番組を見かけることはなくなってしまった。

 ライブハウスシーンで注目を浴びているようなアーティストや、よく分からないけど活きのいいアーティストを見ることができるようなコンテンツって、そんなに需要がないんだろうか。

 たとえば、フットボールアワーの後藤さんや、バイきんぐの小峠さんのような音楽愛にあふれた人が、ライブハウスシーンで話題になっているアーティストを深掘りするとか、音楽好きの若手芸人が実際に地方のライブハウスまで足を運んでロケをしたりとか、現在進行形の音楽のかたまりみたいなものを知ることができる番組があったら、個人的には激推しコンテンツなのに。

 成長の過程を共有できるような音楽番組って、潜在的ニーズがあるような気がするだけど、ないのかな。たまたま見ていた番組から、めちゃくちゃ面白いネタが流れてくる。これも奇跡的な偶然体験だけど、めちゃくちゃかっこいい音楽が流れてくる方が、五感がざわつく。そういう飛び上がる体験って、むしろ今の時代にこそ求められている気がするんだけど。あくまで、気がね、気が。

 コロナ禍で、さまざまなライブハウスがライブ配信をするようになったそうだ。実際に訪れて体感する方が臨場感という意味では特別だろうけど、遠い場所で暮らしている行きたくても行けない人にとっては、新しい体験の仕方だよね。

 だったら、各ライブハウスに協力を募り、ライブハウスの店長さんが映像を提供しながらおすすめバンドをプレゼンするなんてこともできるんじゃないのだろうか。昔より、知らない場所でとんでもなくかっこいい音を奏でている人を知る機会は多いはずなのに、なかなか伝わってこない。

 あるミュージシャンの人と話す機会があって、お笑いと音楽の違いについて、僭越ながら意見を交わしたことがあった。そのとき、お笑いは横のつながりがあるけれども、音楽は強い横のつながりはなくて、同じパイを取り合う以上、ライバルになる。だから、徳井さんのように、「〇〇って言う若手芸人が面白くて、これから売れると思うみたいなことが言いづらい」と話していた。

 なんとかならないんだろうか。音楽が好きな関係者の皆さん、もっと光を当てられる方法を一緒に考えません?

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