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鹿鳴館、ありがとさよなら。けれど、ライブハウスで得たアタリハズレは終わらない!〈徳井健太の菩薩目線 第266回〉

2026.01.20 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第266回目は、ライブハウスについて、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ライブハウス『目黒鹿鳴館』が、45年の歴史に幕を閉じた。若い頃は、よくビジュアル系のバンドを見るために通っていたことを思い出す。なじみのある場所が、また一つ消えたと思うと、何ともやりきれない寂しさを感じる。

 ライブハウスは、僕にとってとても大切な場所だ。若い頃に訪れていたライブハウスは、そのどれもが無造作にフライヤーが置かれていて、対バンなんて当たり前。ライブハウスは、自分が知らないバンドと出会える貴重な場所でもあった。

 お金はないから、もったいない精神でアタマからケツまでいる。すると、僕のお目当てのバンドが登場する前に演奏していたバンドの音楽に食らってしまって、そのままCDを購入し、家に帰って聴き直すなんてこともあった。金がないのに何を散財してんだか。だけど、書店と一緒で、セレンディピティのある場所。目的と動機が良い意味でかけ離れた稀有な場所だから好きだった。

 今は、なかなかそういう空間に巡り会うことができなくなったと感じる。僕がおじさんになったからかもしれないけど。コロナ禍のとき、ライブハウスの経営は危機に直面したから、推し活的なライブも増えた。それ自体は悪いことじゃないけれど、なんだか似通ったバンドやグループが集まる傾向が強くなって、先述したような偶然の出会いは減ったように感じる。それに、ライブ演奏後に、そのまま物販をすることも珍しくないから、それを目的に来たファンたちは、ステージで演奏している他の知らないグループを見ることなく、物販ブースへ向かってしまう。そういった光景を眺めていると、時代の流れをとても感じるようになった。

 今、ステージで歌っているバンドやグループ――から発売されたものではない、他のバンドのTシャツを着た人が、ステージを見つめている姿は、とても有機的だ。この人たちは、出会いを大切にする人なんだなって。

 僕たちだってそうだ。ルミネで大トリを務める中川家さんを目的に来た人が、その前座である平成ノブシコブシをたまたま見て、「意外とノブコブって面白いじゃん」なんて思ってくれたら、めちゃくちゃうれしい。今日来てくれてありがとう。

 SNSやAIの力で、自分の好みに近いバンドやグループを簡単に探すことができるようになった。機械にオススメされるのは、もう常態化していて、ハズレを引かないための取捨選択がしやすくなったとも言える。たしかに、そういった判断は、生活における合理的な部分に関しては有意義なことだよね。

 だけど、音楽やお笑いって、合理的であるものなんだろうか。もっとあやふやで訳がわからなくていい。非合理で結構。何が出てくるかわからないから面白いんじゃないの。

 合理的な感性ってのは、お互いに矛盾している状態のような気がするんです。自分が好きなものに関しては余白を作りたいじゃないですか。「これはいいな」「これは合わないな」って飲み込む余白。僕は、そんなことを考えている人がそれなりにいるんじゃないのかと思いたい。もし一定数いるのなら、ライブハウスという場所はものすごく底力を持っている空間なのではないかと思う。偶発性を自分から取りに行ける場所って最高じゃないですか。

「俺も知らなかったけど、あのバンド、意外とよかったね」

 なんて言える瞬間は尊いんです。自分が選んだんじゃなくて、誰かが選んだものを共有して価値を見出す。そういう福袋的な時間って、もっとあっても良いと思うのに。ハズレを引きたくないという意見は分かるんです。でも、「音楽が好き」であれば、たとえそれがアイドルグループであろうが、ロックグループであろうがクラシックであろうが、見て損はなかったと思えるはず。ハズレって、結局、自分次第なんだから。

秋田からの便り、疲れてるんなら寝るな! 走れ、食え、推せ、エナジー浴びろ!〈徳井健太の菩薩目線 第265回〉

2026.01.10 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第265回目は、「働く」の対義語について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 営業の仕事で秋田へ行ったときのお話。

 今回はガリットチュウさんと一緒だったため、僕らは空港からジャンボタクシーに乗って市街地まで向かっていた。運転手のおっちゃんは、まぁまぁの爆音でラジオを流していて、僕は「ここが東京じゃない」ことを理解しながら車窓の景色を眺めていた。

 いやおうなしにラジオの音が耳に入ってくる。この日は、どうやら脳の専門家なのか学者なのか分からないけれど、「疲れ」をテーマに番組が進行しているらしかった。

「皆さんは疲れているときってどうしていますか? おそらく、多くの人が休養しますよね」

 こんなようなことを話していたと思う。さらに耳を傾けると、「皆さんは、‟働く”の対義語が‟休養”だと思っていませんか?」と話者は続けた。そりゃそうだろう。働いたら休むまでがセットじゃないか。脳内で、一人つっこみながら聴いていると、その話者は、「それは間違いです」と切り出した。僕の意識が、冬の秋田の原風景からラジオにグッと向かうことが分かった。

「働いて疲れたとき、一番大事なことは活力なんです。人は疲れたときこそ活力を浴びなきゃいけません。自分が活力の出ることをやってもいいし、誰かの活力を受けるかたちでも構いません。休むだけでは疲れは取れません」

 おいおい、ホントですかい、この話は。話を要約すると、平日にたくさん働いたとして、週末にその疲れを取るために大人しくしていてもさほど効果はなく、推し活だったり、美味しいものを食べたり、サイクリングやジョギングをしたり、とにかく自分が活力を感じられるものに触れなさいという。

 僕は妙に納得した。めっちゃ分かる。僕も、疲れているときこそエナジーを浴びたくなる。例えば、仕事を終えてクタクタに疲れているのに、どういうわけか煮込み料理を作りたくなる。昔からそうで、何かを煮込んで見守りたくなる。野菜を切って、肉を入れて、黙々とぐつぐつと煮える料理を待つ。奥さんは、「疲れてるんだから休めばいい」と言うけれど、煮込み料理を作ることで何とも言えない充実感を感じ、僕の心はよみがえる。

 そう言えば、有吉さんも「疲れているとトンカツを揚げたくなる」とテレビで話していたことがあった。勝手に共感していたけれど、なぜそうしたくなるのかはまったく解明することなく、45歳になってしまった。まさか北国で出会ったラジオで、その謎が解けるなんて思いもしなかった。そうか、僕は無意識のうちに、疲れを消滅させるために、「活力を浴びる」という行為をしていたのか。

 このロジックに倣うなら、どうして僕が外食するときに、個人店を選びがちなのかも説明できる。個人店のおじさんやおばさんが、自らの稼ぎを得るために作るものは、良くも悪くもこだわりがある。僕にはそれが、ときにハズレを引くとしてもエナジーに感じられ、生きている実感を得られるのだ。

 疲れているときに飲みに行きたくなるのも、結局、そういうことなのかもしれない。疲れているからといって、そのまま寝てしまったり、「インスタントな料理でいいや」と妥協することは落とし穴……疲れを癒すことにはつながらないのだろう。「今日はめっちゃ頑張った!」と思うから、「軽く飲みにいこう!」と活力を浴びたくなって、自分のお気に入りの店に向かう。せっかく活力を浴びようと思っているのに、やる気のないバイトが作る料理じゃ疲れは取れそうにない。こうして飲み屋には常連文化というものが形成され、活気が生まれていく――あれは、疲れを消滅させるための自分に対する‟推し活(力)”だったんだ。

「打ち上げ」もそうだ。どうして公演やライブ終わりのヘトヘトな状態にもかかわらず、わざわざさらに疲れかねない「打ち上げ」なるものがあるのか不思議だった。これも、「労働」を相殺するための活力としての「打ち上げ」と考えると合点がいく。労をねぎらう以上に、活力を注入したい。そんな人間の無意識の渇望が、「打ち上げ」という奇妙な慣習を作り出したのかもしれない。

 ‟疲れている”には、良い疲れと悪い疲れ、どっちもあるだろうけど、濃かったことにさほど変わりはない。疲れるくらい心身を削ったんだから、それ自体は肯定してほしいと思う。その疲れを癒すためにゆっくり休息をとることも必要だろう。だけど、それだけじゃ削られた心身は満たされない。休養したり反省したりする以上に、活力を浴びろってことなのだ。

 世の中、みんな疲れているはずなのにバカ騒ぎはなくならない。エナジーを浴びたいという欲求は絶対的なんだろうね。だから皆さん、自分の好きなことを見つけて、疲れをやっつけちゃってください。

 

天才秀才が集結する早稲田学祭の放つエナジー、フュージョンの演奏と未来に物憂げな秋〈徳井健太の菩薩目線第264回〉

2025.12.30 Vol.Web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第264回目は、学際(後編)について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 エナジーを喰らいたくて、僕らは早稲田大学の学祭を訪れた。1年前、某大学の学祭を訪れた際、僕は行ったことを後悔するくらいのヘラヘラ学祭を目の当たりにして、「こんなもんじゃない」と約束した。1年越しの復讐エナジー。早稲田の学祭は圧倒的で、僕はその様子に感動を覚えていた。

 古い校舎の2階では、7つのバンドサークルがそれぞれの教室で演奏していた。自分の趣味や感覚に合わせて7つの教室を行き来する。早稲田の学祭には、小さなフジロックが存在していたのです。

 僕らは、フュージョンサークルの教室に足を踏み入れてみた。フュージョンを聴く機会なんてなかなかないし、ましてや、それが学祭の舞台ともなれば、僕らが勝手に求めているエナジーを浴びることができるんじゃないかと思ったからだ。

 フュージョンの文化なのか、演奏している彼らのこだわりなのかわからないけど、教室はすべての明かりをオンにしている全明点。イスがずらりと並んでいて、お客さんも丸見え。ライブハウスとは正反対のまぶしい空間で、ギターやベース、ピアノ、ドラムが心地よく演奏されていた。

 曲が終わると、バンドの1人が、「この中で弾きたい人いたら、こっちに来てどうぞ一緒に弾いてください」と語りかけてきた。

 弾けるかい。

 学生バンドとは言え、どっからどう見てもバカテク。案の定、この中に混じって、自分の腕前を披露する猛者は現れなかった。中心となって場を盛り上げるバンマスらしき人は、30歳前後に見えて、もしかしたら院生、あるいは留年しているのかもしれない。僕はふと、フュージョンがこだまするなかで、彼らの将来を想像してしまった。

 この後、音楽で飯を食っていくんだろうか。演奏は間違いなく上手だし、この場にいる観客みんなが耳を傾けている。演奏をしている彼らは、あくまで音楽を趣味と割り切っているんだろうか。卒業後、一流と言われるような企業に就職する人もいるだろう。ダラダラと風来坊のように生きる人もいるだろう。だけど、この瞬間だけは音楽を愛していて、その愛が教室全体の細部にまで宿っていた。「どうなっていくんだろう」。僕は何か夢想空間にでもいるような気分になった。

「フーゥゥゥッ!」

 おおよそフュージョンのライブには似つかわしくないだろう、たった一人の歓声が上がった。奥さんだった。彼女は音楽に対して異常な愛情があるから、テンションが上がると「フーゥゥゥッ!」と歓声を上げてしまうらしい。「心が動いたり、めっちゃいい音楽を聞くと関係なく言ってしまう」と聞いて、僕はうらやましいなと思った。「フーゥゥゥッ!」がなければ、僕はずっとあの子たちのことを夢想していたかもしれない。歓声が僕を我に返らせたのだ。

 教室をあとにして、再び校内を歩いていると、「アイドルが『美味しくなぁれ』をやってくれますよ!」という売り声をしている出店に遭遇した。あちらでは、早稲田のお笑いサークルがネタを披露していた。芸人をゲストに呼ぶのではなく、お笑いサークルに所属する学生たちがひっきりなしに、客を前に奮闘している。僕らは、学生たちがエナジーを爆発させていればそれで満足だと思っていたけど、早稲田の学祭は、単にエナジーが爆発するだけではなく、それをどう還元させていくかといった小さな社会、小さな経営が渦巻いていた。その波をもろに喰らった僕らは、帰るときには心地よさを通り越した疲労と、それ以上の愛を感じていた。

 こんなエナジーに包まれながら学生生活を送るんだから、大学から外の世界に飛び出したとき、やっぱり地力が違うよなと思った。音楽をやるにしても、お笑いをやるにしても、上級生が下級生に対して質が高いだろうアドバイスを送ることだってできる。どう考えたって、プロ的な思考にたどり着くスピードが速い。社会に出てからアドバイスを受けて、それからものになるまで数年かかる人が多いことを考えると、大きなアドバンテージだ。

 企業の人事担当者は、学祭を見たほうがいいのではないだろうか。学内の日常が、どれくらい濃いものなのかを少しだけ覗くことができる祝祭空間。1年前のあのヘラヘラした学祭は、一体何だったんだろう。そう考えると、僕は来年、また違う学祭を訪れてみようと思った。

エナジー沸騰、早稲田学祭! 数多の出店に驚嘆しつつ、階段を上りフェス会場へ〈徳井健太の菩薩目線第263回〉

2025.12.20 Vol.Web Original

 

衝撃の事実! 悲報! 私は食事のとき、どうやら会話をしていないらしい!〈徳井健太の菩薩目線 第262回〉

2025.12.10 Vol.web Original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第262回目は、食事中の会話について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 どうやら僕は、ご飯を食べているときはしゃべらないらしい。ご飯を食べていると、奥さんがポツリと「しゃべらないよね」と聞いてきたのが、ことの発端だった。

「いや、そんなことないんじゃない?」

 自分ではそう思ったし、そもそもその指摘は、相方である吉村に対してだったら分かる。あいつは後輩を連れてご飯を食べているとき、「一言もしゃべらない」そうだ。方々から、そんな証言を聞くたびに、僕は「ご飯を食べているときに話さないって、逆にどうやったらできるんだろう」と疑問に感じていたくらいだった。まさか、自分がしゃべっていない側だったなんて、意外、心外、想定外。ちょっと待ってくださいよって話なのである。

 よくある夫婦の会話のキャッチボールなので、この話題に重大性はない。だけど、「しゃべらない」という印象を与えているのは事実だろうから、僕は自分を分析してみた。例えば、家族と外食に出かけたときのことを思い返して、記憶をさかのぼる。すると、僕はご飯を食べているときにしゃべっている内容が、目の前にあるご飯のことについてにしか、ほぼしゃべっていないことに気がついた。

 なるほど、たしかにそうかもしれない。家族と虫捕りに行って、終始、昆虫の話ばかりをしていたら、それは「しゃべっていない」ということに等しい。僕は、奥さんの指摘通り、食中朴念仁と化していたのだ。

 さらに自分のことを深掘りしてみると、ご飯とお酒を一緒にとることが少ないということが思い当たった。お酒を飲んでいるときはご飯(系)を食べないし、ご飯を食べてるときはほぼお酒を飲まない。僕はご飯を作ることが好きだからか、ご飯に集中してしまうクセがあるようで、ご飯を食べるときはあれこれと、その料理について分析したり思案したりしてしまう。

 美味しい肉料理に巡り会ったら、「これはどこの部位なんだろう」とか「味付けは何だろう」とか、自分の中で気になることを言語化してしまう。一方、逆にアンテナに引っかからない――例えば、チェーン店だったりファミレスだったり、ある程度味が分かっているお店に行くと、あまり興味が湧かないからか口数は少なくなる。関心があろうが、関心がなかろうが、どちらにしても僕は「しゃべっていない」人に映る。これは難しい問題だ。

 しかも、菩薩目線『夫婦間、ごはん問題。小藪さん、またしてもストライク。また一つ次のステージへ!』で書いたように、子どもが小さいうちはファミレスやチェーン店を優先するという家族条約を締結している。家族や近しい人に対しては、そのあいだに生じるズレを補っていかないといけないと宣言した以上、これは反故にはできない。とは言え、そうしたお店にはなかなか愛着がわかない。だから、難しいわけです。

 このことを菩薩目線担当編集のA氏に話すと、「ジョブチューンのジャッジ企画を見たらどうだ」と言われた。

「ファミレスやチェーン店がいかに企業努力をしているかといった背景がわかるから、興味のレーダー範囲が広がると思う。専門店以上の味を提供するファミレスも少なくない。ジャッジ企画を見よ」(A氏)

 なるほど。自分から興味の範囲を広げれば、食について話したい僕は、ファミレスでもチェーン店でも前のめりになれるかもしれない。見え方が変われば、愛が増える。身近にあるものって当たり前すぎて関心がわかないけれど、テレビ番組などでは、その裏側を紹介する企画も多い。いいじゃないか。ナイスアイデアじゃないですか。

 ……ただ、食について話をしていることになるので、結局、「しゃべっていない」人のままなのではないか? 食事中は、食のこと以外話すことができない、I am 改造人間です。

 でも、待てよ。そういえば、この前ココスに行って、とても感動したことがあった。ココスにも配膳ロボットがいるんだけど、僕はこれまで猫型の配膳ロボットしか存在しないものだと思っていた。ところが、僕らの前に現れたのは、猫じゃなくて黄色い何か……だった。

「アレ、何なんだろうね」

 そんな話をした僕は、初めてこのとき、料理以外のことを家族と話したのかもしれない。少しだけ関心の外側へ。ほんの少しでいいんです。

お台場行くなら「ザキッズ」。衝撃コスパと超革命的親子共有放任主義!〈徳井健太の菩薩目線 第261回〉

2025.11.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第261回目は、『The Kids』について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ネタがなくなってきたら、ネタを探しに行かなきゃいけない。とは言え、理由がないと、なかなか人間の腰って上がらないものです。そういう意味でも、『菩薩目線』はありがたい存在です。『菩薩目線』のために何かをこしらえよう――。そんな気持ちになれるから。ありがたいことです、本当に。

 その日、僕らはお台場デックスにある「ザキッズ(The Kids) お台場デックス東京ビーチ店」へ行ってみることにした。 ザキッズは、 0歳児から遊べる全天候型室内遊び場で、YouTubeの動画を見ていて、気になっていた施設だった。

 巨大ジャングルジムをはじめ、ボールプールやすべり台、トランポリン、乗り物遊具各種、さらにはフリープレイゲーム機もあるらしい。これまでさまざまな子連れスポットについての感想を書いてきましたが、結論から言えば、この世でもっともコスパがいいスポットなのではないかと思った次第です。ヤバいです、ここ。

 僕たちは平日に行ったのですが、大人も子どもも(0~1歳は無料)1日遊び放題で1300円。事前チケットを購入した僕らは、さらに100円安い1200円という破格の待遇。土日祝日は、混雑が予想されるため3時間で1500円になるそうですが、何にしたって安すぎます。昨今、30分で500円くらいするキッズスペースも珍しくないことを考えると、何時間いても1200円というのは異次元の価格帯。でもね、ここの魅力は価格だけじゃないのです。

 遊具の充実さも素晴らしいのですが、僕が個人的に感激したのは、スタッフの対応。といっても、親切とか丁寧といった類の対応ではなく、「放っておいてくれる」という意味での対応に感心しました。

 キッズスペースでありがちなのは、係員さんが常に目を光らせていて、「それはダメです」「やめてください」と注意をする光景。安全面を考慮すれば仕方のない対応だと思うものの、腰を折られるというか、流れを妨げられるというか、とにかく「親子水入らず」になれない。輪の中に知らない第三者がいるって疲れるじゃないですか。

 ところが、ザキッズは自己責任でお願いしますではないけど、とにかく親と子どもで完結してくださいという雰囲気。これが僕らには心地よかった。子どもが自分でトライして転んだり、僕らはそれを見て新しい発見があったり、「遊び場」である以上、自分たちで考え、自分たちで学習することが大切だと思うんです。子どもも大人も。

 実際、ザキッズは子どもだけが遊べるスペースがたくさんあって、僕たち大人は入れない。子どもたち自身で遊びながら考える。僕らは見守る。しかも、「お台場デックス東京ビーチ店」には、マッサージチェアが置いてあって、僕は全身をほぐしてもらいながら、楽しそうに遊ぶ子どもたちを見ていた。もちろん、料金にインクルードされているから、追加でお金を払う必要もない。周りを見ていると、おじいちゃんと一緒に来ている家族もいる。

「おじいちゃん、一緒にトランポリンしようよ~」

「ごめんよ、おじいちゃんはそこに入れないんだ。マッサージチェアから見ているから遊んでおいで」

 おじいちゃんは取り残されることなく、自分の時間を楽しんでいた。こういう時間の使い方って幸せじゃないですか。そして、このあと僕たちは衝撃の事実を知る――。

≪ショッピングセンターでのお買い物等、入場後ご自由に出入り頂けます≫

 僕は急いでスタッフに確認した。きっと目は血走っていたと思う。

「はい。何度でも再入場できますよ」

 僕らは今、お台場にあるデックス東京ビーチ、アイランドモール3Fにいる。

「ということは、他の階に行ったり、何だったらデックス東京ビーチを出て、アクアシティお台場に行ってもいいってことですか?」

「はい。大丈夫です」

 僕らは井の中の蛙だったのだ。世界はもっと広く、自由だった。僕ら大人も放任されていいんです。「ザキッズ」をハブにして、映画を観に行ったり、ご飯を食べに行ったり、家族と個人、それぞれの時間の使い方ができる。お父さんが子どもを見ている。その間、おばあちゃんとお母さんはショッピングを楽しむ。二人が戻ってきたら、今度はお父さんが浜風にあたりながらコーヒーを飲みに出かける。

 誰かの時間と自分の時間を大切にできる場所って、夢のようじゃないですか。コストとパフォーマンスって、きっとこういう話のことだと思うんです。

 

歳を重ねるたびに丸くなる、けれど奥底に眠る牙は磨き続けなくちゃいけないのかも〈徳井健太の菩薩目線 第260回〉

2025.11.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第260回目は、本当の自分の言葉について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 以前、このコラムで『シン・ラジオ -ヒューマニスタは、かく語りき-』(bayfm)内で行われた「並んだグランプリ」について触れた。人生で一番並んだときの話=「並んだグランプリ」。

 パーソナリティー(この番組ではヒューマニスタ)を務める鈴木おさむさんも、中学生のときに訪れたディズニーランドでのエピソードを、週替わりパートナーである僕に教えてくれた。

 2時間ほど並んで、あと少しというところで、何人かの不良たちが口汚い言葉とともに割り込んできたという。ずっと楽しみな気持ちを抱えて2時間も並んでいたのに、バカたちのせいでその気持ちが汚された。おさむさんは、割り込まれたこと以上に、ウキウキしていた気持ちが一転して不愉快な気持ちになってしまったことが許せなかったと話していた。

「あのとき、せめて何か言えばよかった」

 そう後悔のニュアンスを含ませながら。このとき、自分だったら何て言うだろうと想像した。同じシチュエーションではないにしろ、長時間並んでいたのにワケの分からない人たちに割り込まれる――大人になった今の自分だったら何て言うんだろう。

 僕は小藪さんに出会ったことで、人間関係の大切さや愛おしさを学び、人間らしい感情を知った。だから、その場にいる他の並んでいる人のことも考えて、気の利いたことが言えたらいいな。優しい言葉でありたい。でも、その言葉の半面には、割り込んだバカたちをくさすニュアンスもあって、当事者はバカだから気が付かない……そんな言葉を模索するだろうなと考えた。

 帰宅して、このことを奥さんに話すと、「本当にそうなの?」と言われた。ドキッとした。

 たしかに、小藪さんに会う以前の自分も、間違いなく自分なわけで、トータルで「本当の自分」なら何て言うかまでは考えていなかった。奥さんは、全部ひっくるめて、そういう状況だったら何ていうか考えてみたらいいんじゃないと、僕の核心を突いてきた。

 本当の自分とは何なのだろう?

 哲学的に考えたら答えなんて出てこないけど、ある特定のシチュエーションを例に考えると想像しやすいかもしれない。先の例は、まさに好例だ。楽しみに並んでいたアトラクションにバカたちが割り込んできた。そのときに自分は何て言うのか。本当の自分を考えるという意味では、とても具体的に考えることができる気がする。

 僕は自分の心を探ってみた。気心の知れた友人たちが一緒だったら、おそらくこんなことを大きな声で言うと思う。

「いいなぁ。並ばなくて良かったのかぁ~。恥も外聞も捨てればいけるもんな~! もったいないことした」

 きっともめ事になると思う。でも、奥さんは「それでいいんじゃない」と笑っていた。優しくなったり、人のことを気遣えるようになったりするのは素晴らしいことだけど、一つや二つ、牙はもっていないとねって。

 本当にその通りだなと思った。牙だらけだったから芸人を目指した。大人になるにつれて人の気持ちを考えることができるようになる。だとしても、自分の心の奥底にある芯みたいなものは、子どもの頃から学生時代まで存在していた初期衝動。そこにフタをする必要はないのかもしれない。

 牙や毒を、これ見よがしにひけらかす必要は、加齢とともになくすべきだ。ただ、ゼロにするんじゃなくて、見えないようにすればいいだけ。歳を取るにつれて大切なことは、どうブラインドしていくか。社会では、どちらかと言えば隠さないで見せびらかしている人が得をする。理不尽な世の中では、隠し持っていた牙が見えすぎてしまうと、その人が悪になってしまう。「自分を出す」という行為は、思いのほか難しいものだ。

 大喜利だと思えばいいのかもしれない。そういった理不尽な状況に遭遇したとき、むかついたときは、どんな風に自分の感情を吐き出せば、自分自身を納得させられるのか、その類の大喜利だと考えてみる。

 僕は芸人を目指し、今も芸人をやっている。それは昔も今も変わらない偽らざる自分。「本当の自分」かどうかは確証が持てないけど、偽りのない自分であることは間違いない。だから、毎回大喜利のお題を与えられたと思って、自分の言葉を吐き出せば、きっと納得がいくはずだ。芸人的に考えればいいのだ。

「本当の自分」と向き合う。それって、偽りのない自分を探すことから始めた方がたどり着けるのかもしれません。

飛田給で少年に残酷な言葉を浴びせられ、八王子エコタウンで、その心の傷を癒す〈徳井健太の菩薩目線 第259回〉

2025.11.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第259回目は、八王子にある「エコタウン」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 

 忘れられない言葉がある。生きている以上、皆さんにも、忘れることができない言葉が、きっとあるはずです。

 その日、僕らはいつものように、JFLに所属するサッカークラブ「クリアソン新宿」を応援するため、味の素スタジアムがある飛田給へ出かけた。といっても、「クリアソン新宿」が試合をするのは、味の素スタジアムから徒歩数分の距離にある簡素なサッカー場。いつか、味の素スタジアムでJ2やJ1のチームと戦うことができたら……なんてことを考えながら、足早に目的地を目指していた。

 味の素スタジアムは、J1第34節 「東京ヴェルディ vs アルビレックス新潟」の試合が控えていて、大勢のサポーターを吸い込んでいた。すぐ近くには、京王アリーナがあり、この日は倖田來未さんのツアー初日ということで、こちらも大挙ファンが押し寄せていた。飛田給に「好き」が集まったカオスな日。思い思いに休日を過ごそうという祝祭空間に、僕の心はウキウキした。

「クリアソン新宿」の勝利を願った。だけど、そんな思いは木っ端微塵に吹き飛ばされ、強敵相手にあえなく負けてしまった。悲しい気持ちを落ち着かせるため、喫煙所でたばこを吸っていると、 東京ヴェルディファン、アルビレックス新潟ファン、倖田來未ファン、それぞれがたばこという共通点のみで、この場に居合わせていることに気が付いた。喫煙所は小さな世界なのだ。

 煙を思いっきり肺に入れ、何か一仕事した気分になって帰ろうとしたとき、 東京ヴェルディのユニホームを着た少年が、僕の目の前を通りすぎた。彼は僕の方を一瞥すると、

「あ、JFLの子だ」

 と声に出した。僕の心は、言い表せない感情に覆われた。

「クリアソン新宿」の存在を知っていることはうれしかった。知らないと、JFLという単語は出てこない。だけど、そのトーンは確実に格下を扱うものだった。うん、そうだよね、格下なのは間違いないんだ。間違いないけど、「JFLの子だ」は、とても寂しかった。残酷だよ。所在を奪われたような気がした僕は、そそくさと喫煙所を後にして、家族と合流した。この言葉を忘れちゃいけない。ずっと覚えていないといけない――。

 ざわついた気持ちを抑えたかったのかもしれない。調布方面に来たとき、たびたび訪れる場所がある。馴染みの場所へ行けば、どす黒い気持ちが払しょくされる気がした。僕ら家族は、八王子にある「エコタウン」を目指すことにした。

 国道20号線、大和田町4丁目交差点すぐそばにある「エコタウン」は、オフハウス、ハードオフ、ホビーオフ、モードオフ、リカーオフ、ブックオフが合体した巨大リユース商業施設だ。あらゆるものを買い取り、あらゆるリユース品が売られている世界。東京に、こんな魔改造な商業施設があることは、あまり知られていないかもしれない。

 本当に何でもある。「どうしてこんなものが?」というものまで売っている。遊園地でよく見かける、キャラクターをモチーフにした子ども用電気カーや、兜、甲冑、ワープロ、異国の置物まで――とにかく、説明のつかないものまで売られている。老若男女それぞれが、「これって!?」と食いつくものがあるから、店内を歩いているだけで楽しい気持ちになる。

 何より運が良ければ掘り出しものに出会える。僕は想像してみた。お金に困っていない人は、こういうところに名品、珍品を置いていくのではないのかと。

 名品や珍品は、専門店に持っていけば、それなりのお金になる。お金が欲しい人は、そういったお店に持っていくに違いない。でも、専門店で買い取られた名品は、高値で売られるわけで、手が届く人しか買うことが許されない。なんだかこれでは成金の趣味じゃないですか。海賊王が財宝を隠すと想像したとき、もっと遊び心があるような気がするんです。本当に価値の分かる人にしか発見できない場所に、「まぎれさせる」のではないかと思うのです。

 この世のすべてを置いてきた――。「エコタウン」には、探検したくなるほど、ありとあらゆるものがある。ナイス気分転換。でも、僕はあの言葉を忘れない。

 手放しちゃいけないのだ。

取材させてくれたたばこ農家さん、ありがとうございました! たばこは、地元で買いましょう!〈徳井健太の菩薩目線 第258回〉

2025.10.30 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第258回目は、たばことたばこ農家について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 ABEMAで放送されている『ドーピングトーキング』をご覧になった皆さん、ありがとうございました。まだご覧になっていない皆さん、ABEMAで視聴できますので、よろしくお願い致します。

「日常では絶対に行くことがない場所」や「普段絶対に交わらない人」のもとでトークを見つけ、‟ドーピング”した状態で体験談を披露する『ドーピングトーキング』。僕は、この番組に出演することになったのだが、番組MCは、霜降り明星・粗品だ。生半可な話では、彼の好奇心は満たせない。あれこれ考えた末にたどり着いた僕の体験先が、たばこ農家だった。

 僕もたばこをたしなむ。だけど、その実、たばこについてはよく分かっていない。たばこの葉はどんな風に育って、どうやってたばこになるのか、ものすごく興味があった。誰かに何かを伝えるときは、やっぱり自分が関心を抱けるものに越したことはない。僕は番組ディレクターとともに某県にあるたばこ農家を訪ねた。

「うちらみたいなところに、よく来てくれたね」

 開口一番、農家さんはそうあいさつした。どうしてそんなことを言うんだろうと疑問を覚えたけど、取材時間は限られている。僕は足早に、まずはたばこの葉が栽培されている畑を見学させてもらうことにした。

 植物としてのたばこは、想像している以上に立派で、とうもろこしくらいの背丈があった。聞くと、ナス科に属するらしく、下から生えてくる葉を収穫していくそうだ。面白いのが、上に育つ上葉はニコチン含有量が高く、逆に下に育つ下葉は低いということ。つまり、上葉の方がニコチンの刺激が強く、味や喫味も濃厚でしっかりしていて、下葉はニコチンが少なく、ややマイルドであっさりした味わいになる。たばこの味が違うのは、葉の育つ場所が違うからだったのだ。

 葉を収穫したら、農家自身で1週間ほど乾燥させるという。そして、熊本にある工場に送り、そこで鑑定士が葉の出来不出来をチェックして、グレードに仕分けしていくそうだ。グレードによって価格は異なるものの、40キロの袋にぎっしり葉を詰めたもので、80000円程度で買い取られる。買い取られたたばこの葉は、JTさんによって裁断され、ここでも2年間乾燥させるという。そうして、我々消費者のもとにたばこという商品として届けられるそうだ。

 知らないことを知るというのは、どうしてこうも面白いのだろう。そんなことを思いながら、僕は前のめりで農家さんと話を続けた。

 たばこを作る際、輸入のたばこの葉もたくさん使用しているといい、国産のたばこの葉は3割程度。つまり、7割くらいは外国産のたばこの葉を混ぜて、たばこは作られる。その理由はいたってシンプルで、輸入ものの方が安いから。儲けがいい産業ではないため、たばこ農家では、一緒にお米も作るなどのケースも少なくないという。

「たばこ農家はどんどん減っていってね。衰退している産業なんだ」

 農家さんの言葉を裏付けるように、昭和60年くらいには、全国に80000軒ほどあったたばこ農家は、令和6年の段階で2000件にまで縮小しているという。「この仕事はいずれなくなる」。乾いた笑いが響く中、僕は「うちらみたいなところに、よく来てくれたね」の意味を理解した。昨今の健康事情に鑑みた世相に加え、稼ぎも良いわけではない。段々と、でも着実に、窓際へと追い詰められている存在なのだ。

 そして、愛煙家なら絶対に知っていてほしいことがある。それが、たばこを購入した際の税金の使われた方だ。たばこの税金は主に、「国たばこ税」「地方たばこ税」「たばこ特別税」という3種類に分かれている。ここに消費税が課されることで、実にたばこ価格の約60%が税金ということになる。うち25%は、「地方たばこ税(都道府県たばこ税・市区町村たばこ税)」として扱われているという。平たく言えば、たばこを購入したその自治体に落ちる税金。たばこ店だろうが、コンビニだろうが関係ない。買った場所の自治体に落ちる――。「それってもしかして」と僕が言うと、農家さんは頷きながら、

「だから、おれたちはたばこを買うときは、自分たちが暮らしている地域でしか買わない」

 そういってたばこを吸う姿は、どこかカッコよく見えた。

 僕は新宿区に暮らしている。もし、仕事で向かった埼玉県でたばこを買うと、そのお金は埼玉県と、その市町村に落ちてしまう。そうして落ちたお金は、その地域の信号や道路といったインフラとなり、地域を支えているという。

 知らなかった。と同時に、たばこを吸っている身として、今まで知らなかったことを後悔した。自分が住んでいる街が好きなら、たばこはそこで買わなきゃいけなかったんだ。無知ほど怖いものはないのだ。

 取材以降、僕は必ず新宿区でたばこを買うようになった。仕事で地方へ行くときは、すでに買っているたばこを持参するようになった。あるいは、暮らしている場所以外に好きな場所があれば、そこで買うのもいいだろう。たばこを買うことで、その地域に微力ながら還元することができるのだから。たかがたばこ、されどたばこ。いたるところに、学びってあるんです。

村竹ラシッド選手と高嶋先生、教え子と恩師の関係は時空をも超える〈徳井健太の菩薩目線 第257回〉

2025.10.20 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第257回目は、選手と恩師について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 皆さん、『世界陸上』を観ましたか?

 34年ぶりの東京大会。いやはや、ものすごい盛り上がりでした。僕もテレビに釘付けになった一人ですが、中でも男子110メートルハードルで5位入賞を果たした村竹ラシッド選手の活躍が忘れられません。

 村竹選手は、決勝5位という記録を達成しながらも、メダルを逃した悔しさからインタビュー中に涙を流しました。「何が足りなかったんだろう」「何が間違っていたんだろう」と自問しながら、言葉を紡いでいく姿は、なんだろう……何か大切なものを呼び覚ましてくれるような飢餓感を覚えたほどでした。

 後日、『ひるおび』で村竹選手と中学校時代の恩師である高嶋先生との交流が放送されたのですが、これがまた素晴らしくて。物語には、幕間があるんですよね。

 番組では、村竹選手が中学時代の指導を振り返り、とにかく「厳しかった」と。番組スタッフがそのことを高嶋先生に伝えると、「そうだったかな。特段、厳しくした気はない」とやんわり否定。否定というか、覚えていない雰囲気すら漂っていて。村竹選手は練習量がエグすぎたというけど、先生は「いやいや別に」とひらりとかわす。

 記憶というのは、本当にあいまいなものです。誰にでも、そうした思い違い、記憶のすれ違いはあるはずです。『アンパンマン』の映画で、僕は確かに観たんです。後世に伝えたくなるような名シーンを。ところが、あらためて同じ映画を観てみたら、そんなシーンはまったくなかった。「あのシーンがいいんだよね」と興奮気味に語っていた僕を、不思議そうに見ていた理由が分かった。そんなシーンはないんだから、心配してくれていたんです。

 記憶の差異こそあれど、村竹選手にとって、高嶋先生は恩師と呼べる存在に変わりはない。

 あの日、村竹選手は、今までの記憶がフラッシュバックしながら、ハードルを飛び越えていったのかもしれない。高嶋先生は、TBSの石井アナウンサーがインタビューをする、その少し後ろで激走を終えた村竹選手の姿を見守っていた。

「何が間違っていたんだろう」

 その言葉を聞いた瞬間、高嶋先生は当たり前のように「全然間違ってなかったよ」と返していた。ささいなやり取りだけど、この何気ない言葉の返し方と、彼が発した感情を受け入れる広さに、‟恩師”という存在を見た気がした。

『世界陸上』の放送では、高嶋先生の言葉は乗らない。これは『ひるおび』のカメラが高嶋先生越しに、とらえたインタビューの映像だから、この特集でしか聞くことができない答え合わせが、たくさん詰まっていた。先生は、「泣いているってことは悔しいってことだよね。じゃあ、その気持ちがあるんだったらいいよね」と話すと、「まだ続けるんでしょ」と声を掛けた。

 届かなかった選手に、この言葉を伝えることは、ものすごく残酷だと思う。先生は分かっているはずなのに、あえてそう言った。その言葉を聞いて、村竹選手は、「自分の脚がもつかぎり、何年かかってもメダルを取りたい」と誓いを立てた。恩師である高嶋先生がいたから、村竹選手は、生きている言葉を吐き出せたのだと思う。時空を超えた関係に、僕は感動した。

 選手の数だけドラマがある。だけど、勝者と敗者に分かれてしまう。陸上競技は、それがほんの数秒で決まってしまうこともある。だから、マインドの整え方とか、日ごろのルーティンが、めちゃくちゃ大切なんだろうなとも思う。たしかに、ノア・ライルズといった超一流選手は、みんなルーティンがあって、大舞台であっても、常人には説明のつかない安定感を、オーラとともに発していた。

「それでいったら、M-1の決勝に立つ芸人もすごいよね。たとえば、ミルクボーイなんて、あの年はほとんどテレビ出演がない状況下で、M-1で漫才を披露した。噛んだり、飛んだりしてもおかしくないのに、どうして大舞台であんな高いパフォーマンスができるの?」

 隣で耳を傾けていた、「菩薩目線」の担当編集A氏が尋ねてきた。言われてみれば、たしかにそうかもしれない。A氏の言葉を聞いて、昔、綾部が話していたことを思い出した。

 綾部は、ある後輩に自分の立ち居振る舞いを語っていて、僕はたまたまその場に居合わせた。後輩は、僕らも認めるくらい面白い。ライブでは過激な発言もいとわなく、トーク力もある。だけど、テレビではその尖がった部分が影を潜めてしまって、いまいち迫力に欠ける。一言でいえば、ムラがあるのだ。綾部はこう言い切った。

「お前は、舞台とか人によって変えるから良くないんだよ。お前が日ごろ使っている過激なフレーズ。『アメトーーク!』でも言えばいいじゃん。でも、お前は言わないで、借りてきた猫みたいな言葉をしゃべる。それじゃ俺に勝てるわけない。どんな小さなライブでも、『アメトーーク!』に出ているような気持ちで話せよ。普段からそうしているから、大きな番組でもそれができるんだよ」

 綾部は売れるべくして売れたのだと思った。その通りだ。どんな場所にいても、大舞台でやるように振る舞う。そういう人が、人々の気持ちを掴むんだ。

家族連れに知ってほしい。昭和平成令和と生き続ける「板橋こども動物園」の超コスパ!〈徳井健太の菩薩目線 第256回〉

2025.10.10 Vol.web original

“サイコ”の異名を持つ平成ノブシコブシ・徳井健太が、世の中のあらゆる事象を生温かい目で見通す連載企画「徳井健太の菩薩目線」。第256回目は、「板橋こども動物園」について、独自の梵鐘を鳴らす――。

 首都圏に暮らす家族連れが楽しめるスポットを探す。それが、僕のライフワークになりつつある昨今。またまた素晴らしい場所を見つけてしまいました。

 その日は、「菩薩目線」ではおなじみになりつつあるクリアソン新宿の試合を観戦するために、東京は北区にある「味の素フィールド西が丘」へ行く――その前に、子どもと遊べる場所を探そうということになったのです。

 いくつかある候補地の中から、僕らが選んだ場所は「板橋こども動物園」なる場所。なんでも、板橋区の東板橋公園内に、1975年(昭和50年)に設立された歴史ある動物園らしく、地域の子どもたちや家族に親しまれてきた施設らしい。

 東板橋公園全体は、25,000㎡とおおよそ東京ドーム半分くらいの大きさを誇る。その中にある、板橋こども動物園は2,000㎡。25mプール、6~7個分ほどの規模の中に、ポニー、ヤギ、ウサギ、モルモットなど約10種の動物が放たれる、なんともかわいらしい動物園。

 ちょうど週末ということもあって、板橋中の子どもが来ているのかというくらい公園と動物園は大盛況だった。あふれんばかりの家族連れを見て、僕はなんだかコロナ禍を思い出してしまった。4年ほど前は、この公園は閑古鳥が鳴いていて、ひっそりとしたものだったんだろうな。こうして大勢の家族や子どもがいることは本来の姿であって、人がいない公園というのは、おかずのない幕の内弁当みたいなものなのかもしれない。

 動物園の解放感は独特で、誰かの家のでっかい犬小屋が開放されているような雰囲気があった。動物園なんだけど、こじんまりしているから犬小屋のような手作り感がある。無料ということもあり、そのアットホームな雰囲気に魅せられて、多くの人が通っていることが想像できた。

 子どもが乗れるポニーの乗馬体験があるということで、僕らはその列に並ぶことにした。ポニーの前と後に、職員さんがいて誘導する。おじいちゃんといった方が的確だろう年齢の男性が、ぶっきらぼうだけど温和な口調で先導する。

 板橋こども動物園は、「ポニー乗馬」「モルモット抱っこ体験」など子ども向け体験が充実していた。無料で動物とふれ合えるため、地域住民を中心にとても高い人気を誇るスポットだという。設立から50周年を迎え、今なおこれだけの家族を包容しているのだから、なんだか頭が下がる思いだった。

 公園にはキッチンカーもあったのだけど、その日は1台しかなく、クレープとかき氷を販売する車に、長蛇の列ができていた。女性一人で手際よくクレープとかき氷を作る。よくこれだけの数を一人でさばけるなと感心していると、自分たちの番がめぐってきた。リーズナブルなクレープを買って、ぼーっとしていると、いろいろな人が支えることで、こうした公園が憩いの場になっているのだと再認識した。

 子どもが、噴水の方へ走っていった。「子どものときってああいうのが一番楽しいんだよな」なんて思いながら、後姿を見守る。大人になると、噴水の水がたまる広場に、どういうわけか足を踏み入れることに抵抗を覚える。いい歳して入りたくないとか、服が汚れるかもしれないとか、いろいろな理由を盾に、噴水へ飛び込まなくなる。あれは、子ども特有のエモーショナルだったのかもしれない。

 板橋の子どもたちが、服のまんま水のカーテンに飛び込んでいく。おむつが取れている子もいる。突然、下から水が吹き上がるから、驚いて転んでしまう子どももいる。それを教育ととらえるかとらえないか。教育にできるかできないか。公園はいろんなことを教えてくれる。

 子どもたちが沐浴する。親は、水辺の外からみつめる。小宇宙があった。

 東板橋公園は、僕らが知っている昔の公園が、そのまま残っていた。きっと夜になったら、地元の不良たちのたまり場に様変わりするんだろうな。でも、それが地域の個性ってもんだろう。

 ロープで作られた高さのある遊具に、チャレンジャーと化した子どもたちが、上へ上へと登っていく。僕らはその姿を見て想像するしかない。

 世代を超えて親しまれる、地元住民の「思い出の原点」。そんな場所にお邪魔させていただく。なんて贅沢な休日の使い方だろう。

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