堀潤「物語を消費するのはもうやめよう」【東日本大地震から10年】

堀潤氏(撮影・蔦野裕)

 一方でインフラを見ていくと、あの時、原発の事故が起きて、地元の自治体が避難をしようにも道路が渋滞で上手く動けなくて、身動きひとつ取れない状態で8時間くらい車の中にいたということがありました。つまり原発の事故が起きた時の専用の避難道路というものがなかったために苦労したんです。つい先日ですが、女川の原発を再稼働させましょうということで、宮城県知事が地元の首長さんたちのリクエストを受けて同意しました。ところが地元の町村の中から出たのは“原発は動かしてほしい。ただ要望がある。それは避難用の専用道路を造るということを盛り込んでほしい”ということでした。震災、原発事故から10年経っても地元自治体から出る要望が震災直後にあぶり出された課題が手つかずのまま残っているという、非常に象徴的な出来事で、きちんと原因と対処というものに向き合ってこられたのだろうかと思います。


 これは幸か不幸かオリンピックの誘致に成功してしまい、その前段で“アンダーコントロールだ”というふうに当時、安倍首相が言った。だからそのことに関して“課題はあり続けますよね”ということを国の本丸のほうが言うことはなかなか難しいということはあるかもしれません。なので、やっぱり目をそらしただけじゃないですか、という思いはありますよね」


 原発における防潮堤、コロナについては医療体制の充実といった“備え”についての知恵が回っていないということ?


「すごく似ていますよね。しかも“かもしれない”が根拠のない“かもしれない”ではなく、そこそこありそうな“かもしれない”。この前、僕が取材をしてきた『生業を返せ、地域を返せ!』という通称『生業訴訟』といわれる原告約4000人規模の原発訴訟で、原告側が高裁で勝ちました。


 高裁の裁判官は“科学者たち、専門家たちが敷地を越えてくる津波をしっかりと予測していた。そうしたことの提言も行ってきた。ところが電力会社側は自分たちに都合のいいことを言う専門家のみを採用し、国に報告した。国はそうした電力会社の不誠実な対応を唯々諾々と受け入れた。だから今回は責任もある”といった内容の判決文を書き、国や電力会社の責任を認めて住民側が勝ちました。


 その裁判が今年は最高裁に舞台を移しているわけですが、つまり専門家たちの科学的な知見に基づいて予測されたものが政治判断や企業の経済活動の合理化のもとできちんと受け取ってもらえなかったということなんです。


 コロナに関しても、専門家会議が開かれて、医療従事者やウイルスや統計学といったさまざまな専門家たちがいろいろなものを算出して進言した。ところがそれが本当にきちんと採用されたのだろうかというと、最後は“政治判断なので”ということで間を取った玉虫色のものになっていったりした。


 あとはオリパラの開催に関する判断がかかっているので、そうした科学的なデータやファクトが後退せざるを得なかった。こういう状況は10年前と今では非常に似ていると思います。


 コロナ禍では猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』という本が再び売れたんですよね。それはなぜかというと、昭和16年、東条内閣の下に国の専門家やエリート、軍人たちが集められて、日米が開戦した時に日本が勝てるのかというシミュレーションを徹底的にやる研究機関が実際に立ち上がった。ところがその研究機関が算出したものは序盤は優勢だが、後半は物資が尽き、ソ連が参戦してきて、日本は敗戦するというものだった。それをきちんと内閣に提出したが、それは採用されなかった。ということで日本は負けるわけですよね。猪瀬さんは詳細な聞き取りをもとに“昭和16年にすでに敗戦は決まっていたんだ”と言う。だから政府のコロナ対応については、科学者たちが言っていることがきちんと政策に生かされていないんじゃないかと重ね合わせるように見ていました。それは10年前の原発事故がああいった悲劇を生んでいく、その前段部分と重なるところもあるでしょうね」


 そんななかで学術会議問題というものもありました。


「そうですね。でもこれは翻って、誰の責任かと問われると、やっぱり私たちの責任だと思うんです。それを僕が痛感したのが、2011年3月11日の夜。ニュースセンター内にいて“東電の福島第一原発でトラブル”という第1報が入ってきたときに“え? 東北電力じゃないの?”と思ったし、誰かも“東北電力じゃないのか? 福島なんだから東北電力だろう!”と言っていました。つまり私たちは東京にいて、第一原発の電力の恩恵にあずかっていながら、そのことについてちゃんと知らなかった、見ていなかった。だからあの事故を起こしたのは必ずしも国や電力会社の不誠実な対応だけではなく、“私”の関心がなかったからなんだということはすごく思いましたね」


 あとは政治を監視するという意識も希薄です。


「そうですね。だから今起きていることも、景気が良くなるならそれでいいとか、生活が楽になるならそれがいいとか、自分自身のことに目を向けるだけでは、何か大きなものを失い、そうした無関心や無知が誰かの生活を奪うこともあるということなんです。


 今回作った映画も、まさに“分断を作ったのは私なんだ”という思いも込められています。今年は選挙イヤーでもありますから、改めてそういう意識はみんなで共有したいですよね。この間、世界を見渡すと、民主主義が根底から壊されている。香港、ミャンマー、ベラルーシ。一見、選挙があって民主的なんだけど、実をいうと大きな力でそういったものが根こそぎ奪われていくということに直面しています。これだけ普通選挙が保証されている私たちの国でその制度を自分たちが使えていないということは申し訳が立たないという思いがありますよね。フルスペックの民主主義を持っているわけですから」


 無関心、無知というのはメディアが政権に忖度しきちんと報道していないというところにも原因はあるかと思います。


「“メディアは”というのも大きな主語じゃないですか。恐らくこういう時に念頭にあるのは、テレビだと思うんです。ただ、テレビに比べると新聞はまだやっていますよね。そして新聞に比べると週刊誌はさらにきちんと報道していますよね」


 そんな中で8bitNewsや堀さんのようなジャーナリストの役割が大きくなってきているように思える。


「自分の中でこれだけはやらなければと思っていることがあるんです。政治や社会問題を、ワイン片手にサロンでああだこうだ言い合っているみたいなニュースとは縁を切ったほうがいいな、と思っています。


 まさに、“会議は踊る、されど進まず”ではないですが、いわゆるどこかの有識者と一部の政治家と放送という特権を与えられたテレビ業界が、ひとつのエンターテインメント的にその問題を消費しても何も解決されない。


 ただAとBという対立している何かを見せて、次のテーマでまた同じようなことをやっていく。その繰り返しとは縁を切るべきだなと思います。


 ショーアップせずに日常の課題といったものをじっくりとみんなで共有し、具体的にそれぞれの持ち場でできる実行策を出し合えるような場を作り、それをまたうまくいっているか検証する。これはエンゲージドジャーナリズムといって、当事者とメディアが非常にきちんとした関係にある。


 課題を投げて、みんなで怒ったり悲しんだりするのではなく、解決につなげる。そこまでやることこそがジャーナリズムの役割なんじゃないかと思うんです。例えばコミュニティFMとかはそういうことをやってきた。でも東京発の大きなメディアは一緒に涙を流すために被災地を使った。泣けるけど、何か変わったんでしたっけ? コミュニティFMはただひたすらに、“今日ジュースが買えるお店はここです”とか“ベッドが使えるホテルはここです”といったことを発信し続けてきた。これは次の災害があった時に備えての知見が伝えられている。僕はそのコミュニティFMがやってきていることこそ、本当は大きなメディアがやるべきことなんかじゃないかなと思うんです。物語を消費するのはもうやめましょう」


(TOKYO HEADLINE・本吉英人)



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